神様なんていない
「神様なんているわけないじゃん!」
朝のホームルーム前、
教室にあかりの声が響き渡った。
「えー、そんなことないよー!」
ゆみがすかさず反論して、頬を膨らませた。
「だって、3組のカナが結川神社に行って――」
「『彼氏ができますように』ってお願いしたら――」
「ほんとに彼氏できたんだよ?」
「しかも超イケメン!」
「これって絶対、神様のご利益じゃん」
「偶然でしょ」
あかりは鼻で笑った。
長い黒髪を耳にかけながら――。
呆れたように肩をすくめる。
あかりの方が少し背が高くて、
ゆみとは対照的に落ち着いた雰囲気だ。
「そもそも、ゆみは可愛いし愛嬌ある」
「神様に頼らなくたって、彼氏くらいできるって」
「う……そう思いたいけど……」
ゆみがもじもじと指を絡める。
顔が、少し赤くなっている。
「でも、でもさ」
「やっぱり神様のご利益って、あると思うんだよね」
「だってカナ――」
「参拝した次の日に告白されたんだよ?」
「タイミング良すぎない?」
「神様に頼ってる暇があったら――」
「行動しなよ」
「ほら、河北に告白!」
「今すぐ!」
あかりがゆみの肩をぽんぽんと叩く。
「無理無理無理!」
ゆみが両手をブンブン振った。
机の上の筆箱が、カタカタと揺れる。
「振られたら――」
「今までの関係も壊れちゃうもん」
「せっかく友達として話せてるのに――」
「それすらできなくなったら嫌だよ......」
ゆみの声が、少ししぼんだ。
下を向いて。
髪の毛を指で弄ぶ。
「あのねぇ」
あかりが大きくため息をついた。
「そう言ってもう半年だよ?」
「正確には186日」
「私、ちゃんと数えてたからね」
「そろそろ決断しないと――」
「河北、誰かに取られちゃうよ」
「あいつ、地味にモテるんだから」
「うう……知ってるけど……」
ゆみがため息をしながら机に突っ伏す。
あかりがやれやれと天井を仰いだ。
朝からいつもの光景。
ガラッ。
そのとき――教室のドアが開いて、
私、織部琉々(おりべるる)が入ってきた。
カバンを肩にかけて、
少し俯き加減で、私は窓際の席に向かおうとした。
いつもの席。
後ろから三番目。
窓のすぐ隣。
一番目立たない場所。
でも
「ねえねえ、琉々! 聞いてよ!」
あかりの声が響いた。
(……あ)
なんか嫌な予感がする。
あかりの目がぱっと輝く。
まるで、獲物を見つけた猫みたいに。
私は足を止めた。
逃げたい。
けど、もう遅い。
あかりが、私に向かって大きく手招きする。
「ゆみったらさー」
「神頼みばっかりで全然告白しないんだよ」
「琉々からも言ってあげてよ」
「『神様なんていないんだから、当てにしないの』って!」
(え…?)
私は一瞬、頭の中が凍りついた。
(私を巻き込まないで欲しい……)
教室の視線が、一斉に私へ向いた。
私はとっさに愛想笑いを浮かべた。
「あ、あはは……そう、だね……」
声が上ずってる。きっと顔も引きつってる。
でも、それ以上の言葉が出てこなかった。
あかりの期待に満ちた視線。
ゆみの少し困ったような表情。
周りの好奇の目。
全部が、私を見ている。
(早く、この場から離れたい…)
私は足早に自分の席に向かった。
「……琉々?」
あかりの声が、近くから聞こえた。
振り返ると、あかりが心配そうに見ていた。
「なんか、今日元気ないね。どうかした?」
あかりの声は優しい。
本当に心配してくれている。
それは分かる。
でも
「ううん、何でもない」
私は首を横に振った。
そして、カバンを机の上に置き直す。
「ちょっと、寝不足なだけ」
嘘だけど。
あかりは少し眉を寄せた。
でも、それ以上は、何も聞いてこなかった。
「そっか。無理しないでね」
そう言って、
あかりは、自分の席に戻っていった。
私は席に着いて、窓の外を見た。
いい天気。
でも、私の心は――重い。
その理由は――
今朝、お母さんに言われた言葉。
その言葉が、頭の中をぐるぐる回っている。
止まらない。
消えない。
ガラッと前のドアが開く。
担任の先生が入ってくる。
「はい、おはよう。席についてー」
生徒たちが、ぞろぞろと席に着く。
机を引く音、
椅子を引く音、
カバンを下ろす音。
全部が機械的に聞こえる。
「じゃあ、出席取るよ。相沢」
「はい」
「石川」
「はい」
「上田」
「はい」
先生の声も。
生徒たちの返事も。
今日の予定を告げる声も。
その日一日――
私はずっと上の空だった。
* * *
ピピピピピ
携帯のアラームが、容赦なく鳴り響く。
私は布団の中で、薄目を開けた。
まだ眠たい。
枕元のスマホに手を伸ばす。
「7:00」の文字が光っている。
「……あと10分」
小さく呟いて、アラームを止める。
布団から出るには、まだ早い。
目を閉じる。
夢の入り口に立った、その瞬間。
ピピピピピ
また、アラームが鳴った。
「……はぁ」
大きなため息をついて、諦めて布団から這い出す。
洗面所で顔を洗う。
冷たい水で、少しだけ目が覚める。
制服に着替えて、リビングへ。
食卓にはすでに朝食が並んでいた。
トースト。
目玉焼き。
サラダ。
それに味噌汁。
いつもと変わらない朝食。
でも――何かが違う。
空気が重い。いつもと違う。
私が席に着くと、珍しくお母さんもテーブルに座った。
普段なら、もう家を出ている時間なのに。
今日は、お母さんがリビングにいた。
――いつもより硬い表情。
嫌な予感がする。
「琉々」
お母さんが口を開く。
その声音で、私は気づいた。
いつもと違う。
声のトーンが低い。
真剣な声。
(ああ、きっとあのことだ。とうとうか……)
胸の奥が、きゅっと縮む。
「お母さん、お父さんと離婚することになったから」
やっぱり。
お母さんの声は、淡々としている。
感情がない。
まるで天気予報を、読み上げるみたいに。
でも、
その言葉の重さは――ずしりと胸に響いた。
「来月から、おばあちゃんの家に引っ越すね」
予想通り。
分かっていた。
いつかこうなるって。
分かっていたのに――
実際に言葉にされると、ショックだった。
「夏休みに入るタイミングだから、ちょうどいいでしょ?」
お母さんは――。
感情をどこかに置いてきたような――。
無表情で言った。
「新しい学校も――」
「夏休み明けから行けるし」
「スムーズに転校できるわ」
「……」
言葉が出てこなかった。
喉の奥に何かが、詰まっているような感覚。
息がしづらい。
薄々は気づいていた。
お父さんとお母さんの関係が、こじれていたこと。
家の中の重い空気。
すれ違う視線。
交わらない会話。
全部見ていた。
いや、気づかないフリをしていた。
見て見ぬフリをしていた。
でも。
(急すぎる)
心の準備ができていない。
来月って、もうすぐじゃん。
あと一ヶ月しかない。
(というか)
(何が「ちょうどいい」だ)
それはお母さんの都合でしょ。
私の都合じゃない。
私の気持ちは、どうでもいいの?。
聞きたいことはたくさんあった。
でも、何も言えなかった。
お母さんは、コーヒーカップを手に取って一口飲む。
そしてカップを置く。
「何か、聞きたいことでもある?」
トゲトゲしいお母さんの言葉。
私は――首を横に振った。
「……ない」
お母さんの有無を言わさない、
その質問の仕方がすごく嫌い。
お母さんはいつだってそう。
「じゃあ、朝ごはん食べなさい。冷めちゃうわよ」
私はトーストを手に取った。
でも、食欲がない。
噛んでも、噛んでも。
味がしなかった。
いつからだろう。
父さんとお母さんの会話が、
ほとんどなくなったのは。
食事も、いつの間にか別々になった。
父さんは遅くて、私とお母さんだけで食べる。
それが、当たり前になっていた。
その頃から、お母さんは父さんの愚痴を、口にするようになった。
「あの人はいつも仕事ばっかり」
「家族のことなんて何も考えてない」
「こっちの苦労も知らないで」
最初は、たまに。
それが、だんだん毎日になった。
愚痴が始まると、私は自分の部屋に逃げた。
「宿題やらなきゃ」そう言って。
部屋に閉じこもって。
イヤホンで音楽を聴き、お母さんの声をかき消す。
学校に、特別仲がいい人はいない。
あかりやゆみとも、話しかけられたら答える程度の関係。
向こうから来たら応じる。
でも、自分からは行かない。
小学校のあの一件以来、私は人と距離を取るようになった。
だから――。
あえて誰かに引っ越すことを――。
言う必要もない。
変に気を遣われるのも嫌だ。
「えー、琉々引っ越しちゃうの?」
「寂しいー!」
なんて、軽い言葉を言われるのが、目に見えている。
お別れ会なんて開かれたら、それこそ断れなくて困る。
みんなで寄せ書きとか、プレゼント交換とか。
絶対やめてほしい。
だから、誰にも言わずに引っ越す。
それでいい。
私はただ――静かに、一人で生きていく。




