偶然
東京での仕事を終え、女は先生の少し後ろを歩いていた。
時刻は夕方。
向かう先は赤坂。
長い打ち合わせからようやく解放され、残っている予定は食事だけだった。
先生の足取りは妙に速い。
女は慣れないヒールで、その背中を追いかける。
「先生、ちょっと待ってください」
声をかけても、背中は遠ざかっていく。
女は小さく笑い、歩幅を広げた。
あと数分遅れていれば。
あるいは、別の靴を選んでいれば。
この先、決して交わるはずのなかった一本の線に触れることもなかっただろう。
人混みを抜けようとした、そのとき。
横を歩いていた男女の一団から、一人の男がふいに後ろへ下がった。
避ける間もない。
肩に強い衝撃。
「あっ――」
ヒールが路面を滑る。
視界が傾く。
足首に走る痛み。
続いて、頭に鈍い衝撃。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
地面に倒れたまま、女はこめかみに触れる。
生温かい。
手を離す。
指先が、赤かった。
「大丈夫ですか!」
男の声。
女は顔を上げた。
その声を――どこかで聞いたことがある。
周囲は騒然としていた。
先を歩いていた先生も戻ってくる。
男は青ざめ、何度も頭を下げた。
これから仕事へ向かう途中らしい。
同行していた者たちに予定をキャンセルするよう頼み、自分は病院まで付き添うと言う。
「女性の顔ですよ。傷が残ったらどうするんですか」
先生の声は厳しい。
「この人だって、これから仕事で人前に出ることが増えるんですよ」
「先生、大丈夫ですから」
女は困ったように笑って、その言葉を遮った。
「本当に申し訳ありません。病院まで付き添わせてください」
男はもう一度、深く頭を下げる。
女は痛むこめかみを押さえながら、その顔を見た。
声。
独特の話し方。
どこか特徴のある訛り。
以前、配信で耳にした風貌の話。
一つずつ、記憶の中で重なっていく。
まさか。
女は知っていた。
いや――一方的に、知っていた。
以前から見ている配信者だった。
眠る前、画面を伏せたまま、その声だけを聞く夜も多い。
メンバーでもない。
コメントを書いたこともない。
名前を覚えてもらったことさえない。
ただ、大勢いる視聴者の一人。
それでも、声には聞き覚えがある。
長く聞いていれば、その人なりの考え方も少しずつ見えてくる。
筋を通す。
責任から逃げない。
面倒な問題ほど、感情だけで処理しない。
そして、ときどき。
配信とはまるで違う世界の話が、何気なく混じることがあった。
詳しくは語らない。
人の名前も、場所も、必要以上には出さない。
話しているようで、肝心なところだけは綺麗に伏せられている。
ただ、その断片を長く聞いていれば分かる。
表に見えているものだけが、この男のすべてではない。
その向こうに何があるのか。
女も知らない。
知ろうとしたこともなかった。
女は目の前の男をもう一度見た。
まだ確証はない。
だが、もし本当にあの人物なら。
「病院への付き添いは結構です」
男が顔を上げる。
「ですが……」
「大丈夫です。連絡先だけお願いします」
先生も付き添ってもらうよう勧めたが、女は受け入れなかった。
これは、小さな賭けだった。
自分が配信から感じてきた人物像が正しいのなら、この男は今日ここで別れても終わりにはしない。
必ず、自分から連絡してくる。
それきりになる人間なら――それまでだ。




