第8章:血染めの調停者
権力を分け合った二人の獣が、いつまでも仲良くしていられるはずがなかった。やがて李傕と郭汜は、互いへの不信感を募らせ、ついに仲間割れを始めた。長安の市街は、彼らの私兵同士が殺し合う新たな戦場と化した。昨日までの味方が、今日の敵となる。そんな光景が、都のあちこちで繰り広げられた。
賈詡は、自らの献策が招いたこの地獄絵図を目の当たりにし、唇を噛み締めた。
(私が望んだのは、これではない)
彼が望んだのは、あくまで生き残るための「力」だった。これほどまでに制御不能な、自己破壊的な混沌ではなかった。
【一度目の死】
彼は、この惨状から目を背けた。
(私の知ったことではない。奴らが勝手に殺し合っているだけだ)
そう心の中で呟き、彼は自室に閉じこもった。生き延びることだけに徹し、外で何が起ころうと関知しないと決めたのだ。
だが、その選択が命取りとなった。李傕と郭汜が互いに雇っていた羌族の傭兵たちが、戦の混乱に乗じて宮殿になだれ込んできたのだ。もはや彼らを制御する者は誰もいない。金品を求めて暴徒と化した彼らは、抵抗する朝臣たちを次々と斬り殺していく。
賈詡の部屋の扉が乱暴に蹴破られた時、彼は己の過ちを悟った。
(見て見ぬふりをしても……この地獄からは、逃げられないのか)
無関心は、安全を意味しなかった。この混沌の中では、誰もが無差別に死の牙にかけられる。献帝や朝臣たちが殺されていく絶叫を聞きながら、賈詡の体もまた、無慈悲な刃に貫かれた。
―――ハッと目を開くと、そこは李傕と郭汜の仲違いが始まった直後の、自らの屋敷の一室だった。
窓の外から聞こえてくる兵士たちの怒号が、先ほどの死が夢ではなかったことを告げている。
(このままでは、また同じことになる)
一度目の死で、彼は根本的な問題がどこにあるかを正確に理解していた。李傕と郭汜の争いそのものではない。彼らが野放しにしている、飢えた猟犬――羌族の傭兵たちだ。彼らの不満が爆発すれば、宮殿は血の海と化し、自分も皇帝もろとも殺される。
(犬を躾けるには、飼い主を動かすしかない)
罪悪感と、純粋な生存戦略。その二つが、賈詡の背中を押した。彼は屋敷を飛び出すと、味方の兵士を数名だけ連れ、鬨の声が響き渡る市街を駆け抜けた。彼が向かったのは、宮殿ではない。郭汜との戦闘で神経を昂ぶらせている、李傕の本営だった。
陣営は殺気立っていたが、賈詡は構わず李傕のいる幕舎へ進み出る。血走った目で地図を睨んでいた李傕は、賈詡の姿を認めると苛立たしげに言った。
「何の用だ、賈詡!今、郭汜めの首を取る策を練っているところだ!」
「その郭汜将軍の首も、あなたの首も、間もなく別の者の手に落ちましょう」
賈詡は静かに告げた。
「……何だと?」
「お忘れか。我らが長安を獲れたのは、誰の力あってのことかを。羌の兵たちは、約束の恩賞も与えられぬまま、無益な内輪揉めに駆り出され、不満を募らせております。このままでは彼らは暴発し、宮殿を襲い、全てを奪い尽くすでしょう」
李傕は鼻で笑った。「奴らがそんな度胸を持つものか」
「彼らは持ちます」と賈詡は断言した。「彼らにとって、我らはもはや頼れる主君ではない。報酬を支払わぬ裏切り者です。もし彼らが宮中で略奪を行い、陛下までも弑逆するような事態になれば、あなたと郭汜将軍は漢王朝を滅ぼした天下の大逆賊となる。そうなれば、袁紹も曹操も、天下の諸侯がこぞって逆賊討伐を掲げ、この長安に攻め寄せてきましょう。そうなれば、我らに逃げ場はありませぬ」
李傕の顔から血の気が引いた。賈詡の言葉は、彼の目先の怒りの向こうにある、決定的な破滅の未来をはっきりと映し出していた。
「……では、どうすればいい」
「簡単なことです」と賈詡は言った。「彼らが暴発する前に、彼らの功に報いるのです。今すぐ羌の頭目たちを呼び寄せ、金銀を与え、官位を約束なさいませ。郭汜将軍との戦の前に、まず足元を固めるのです。犬は、腹を満たしてやれば牙を剥きませぬ」
李傕はしばらく黙り込んでいたが、やがて重々しく頷いた。賈詡はすぐさま李傕の使者として郭汜の陣営にも赴き、同じ論理で説得を行った。二人の暴君は互いへの憎しみに燃えながらも、自らが破滅するという共通の恐怖の前には、一時的に矛を収めるしかなかった。
ほどなくして、羌族の頭目たちに李傕と郭汜の両者から莫大な恩賞が与えられ、彼らの不満はひとまず鎮められた。宮殿が火の海になるという最悪の事態は、賈詡の目に見えない調整によって、回避されたのである。
彼は、誰からも感謝されることなく、ただ一人、自らが作り出した脆い和平の上で安堵の息をついた。この働きで、彼は単なる「毒士」ではない、複雑な立場を築き、この危機を生き延びた。
だが、この都に安住の地はない。賈詡の目は、次なる活路を求め、混沌の先の闇を静かに見つめていた。
調整役としても有能、すごい軍師だったのだと思います。
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