落ちる花びら
間違えた選択が、人生を壊すのにどれだけかかるか知っていますか。私は十年かけて、それを学びました
窓の外に、桜が見えた。
風が吹くたびに花びらが一枚、また一枚とはがれ落ちて、空をゆっくりと漂いながらやがて地面に吸い込まれていく。その様子をぼんやりと眺めながら、私は自分でも気づかないうちに、遠い記憶の底へと引き込まれていた。
如月亜里沙。それが私の名前だ。今年で二十五歳になる。
点滴の水滴が、ポタリ、ポタリと落ちる音が耳に届く。ベッドに横になったまま腕を目の高さに持ち上げてみると、骨と皮ばかりになった細い腕が視界に入った。肌は乾燥してガサガサで、爪の根元まで血の気がない。かつて自分がそれなりの美少女だと信じていた頃の面影は、もうどこにも残っていない。
これが私の人生の終着点だった。
でも、こうなったのは誰のせいでもない。すべて私自身が選んだ道の、当然の結末だ。そのことだけは、はっきりとわかっていた。
あれは十五歳の春だった。
幼馴染の瀬戸翔太に「公園に来てほしい」と呼び出された日のことを、今でもはっきりと覚えている。胸がドキドキして、彼が何を言いに呼んだのかなんとなく察しがついていたけれど、それでも足取りは軽かった。
公園に着くと、翔太はなぜかぎこちなくベンチのそばに立っていて、私の顔を見るなり視線をそらした。いつも自信満々で声のでかい彼には珍しいことで、私はその様子がちょっとおかしくて、内心クスッとしてしまった。
「亜里沙、俺たちって長い付き合いだよな」
翔太は頭の後ろをポリポリと掻きながら言った。
「俺、お前のことけっこう気に入ってるんだよね。だからさ——俺の彼女にならないか」
照れくさそうに、でも精一杯かっこつけながら告白する翔太の顔を見て、私は自分の頬が熱くなるのを感じた。胸の中で言葉がグルグルして、うまくまとまらなくて、でも気持ちだけは一つだった。
「なりたい。翔太の彼女に、なりたい」
勢いで答えてしまって、翔太は目をまん丸にした後、耳まで赤くなりながら「よし」とだけ言った。
すべては、あの瞬間から始まったのかもしれない。
翔太と付き合い始めた頃は、本当に楽しかった。彼はちょっと乱暴で口が悪くて、繊細さとはほど遠いタイプだったけれど、私はそのざっくりした部分を「可愛い」と思っていたし、一緒にいると退屈しなかった。
高校に入ってから、翔太は急激に積極的になった。キスをするようになり、その先へ進むのに大して時間はかからなかった。体の関係を持ち始めてからの翔太は、まるでスイッチが入ったみたいに私を求めるようになって、親友の千鶴ちゃんと遊ぶ時間すら取れなくなるほどだった。それでも私は、これが恋愛というものなんだと自分に言い聞かせていた。翔太のことが好きだから、それでいいと思っていた。
高校二年に上がった頃、世界が突然ひっくり返った。
ある朝、起き上がった瞬間に吐き気が込み上げてきた。その次の朝も、そのまた次の朝も。食欲がなくなり、体がだるくて、心のどこかで薄々気づいていながらも、認めるのが怖くて一週間ほど放置した。
でも、限界が来た。
親にバレないよう、こっそり薬局で検査薬を買って、学校のトイレで確かめた。結果を見た瞬間、頭が真っ白になった。二本の線。疑いようのない、陽性反応。
翔太との間に子供ができていた。
最初は嬉しさと恐怖が同時に押し寄せてきた。高校二年生で、母親になる。そんな覚悟は欠片もなかった。でも、お腹の中に命があるという事実は、恐怖よりも先に奇妙な温かさをもたらした。
その日のうちに翔太に連絡した。彼はひどく驚いた様子だったが、「大丈夫だ、俺が責任持つ」と言い切ってくれた。その言葉に、私はどれほど救われたかわからない。
だが、平和は長くは続かなかった。
体の変化に真っ先に気づいたのはお母さんだった。朝食の席で、私の顔をじっと見つめながら「誰の子なの」と静かに聞いてきた。私は黙っていた。黙って目をそらした。それだけで、お母さんはすべてを悟ったようだった。
その夜、お父さんが帰ってきてから地獄が始まった。
「誰だ、相手は。今すぐ連れて来い」
お父さんが怒鳴り、お母さんが泣き、私は叫んだ。翔太の実家がヤクザの家だということを口走った瞬間、部屋の空気が固まった。お母さんは床にしゃがみ込んで泣き崩れ、お父さんは口を閉じたまま壁を殴った。
妊娠の事実は、あっという間に学校中に広まった。退学が決まった。親との喧嘩は続いた。「その子は下ろして、別の町に引っ越そう」と両親は言い続けた。嫌だった。翔太と離れたくなかった。そして——お腹の子を、消したくなかった。
聞いてもらえないとわかった夜、私は着替えと財布だけを持って家を飛び出した。翔太に電話すると、「一緒に逃げよう」と即答してくれた。翔太の家にも居づらいのは同じだった。私たちは持っているお金をかき集めて、できるだけ遠い街へと向かった。電車を乗り継いで、気づいたら知らない街のベンチに座っていた。
最初の一週間は公園で過ごした。段ボールを敷いて、翔太のジャケットを半分かけてもらって、夜の冷気の中で丸くなって眠った。体が辛かったけれど、翔太が隣にいるから耐えられた。
なんとかアルバイトを見つけて、ボロアパートに引っ越したのは家出から一ヶ月が経った頃だった。壁は薄く、水道管は古く、冬になると窓の隙間から風が入ってきたが、それでも屋根のある場所に眠れるという安堵は本物だった。
だが、その平和も一瞬だった。
引っ越しから一ヶ月が経った夜、急に腹が痛くなった。最初は我慢できる程度だったが、痛みはみるみる強くなって、気づいた時には床の上に崩れ落ちていた。翔太が気づいて病院に連れて行ってくれたが——遅かった。お腹の子は、もういなくなっていた。
医者から説明を受けている間、私は何も感じなかった。涙も出なかった。翔太が泣いているのが遠くから見えた。ただ、ぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残った。
それから、すべてが壊れていった。
翔太はお酒を飲むようになった。最初は缶ビール一本だったのが、気づけば毎晩泥酔するようになった。怒鳴ることが増え、物に当たることが増え、やがて私に手が出るようになった。彼が帰ってこない夜も増えた。どこにいるのか聞いても答えない。聞くと怒鳴られる。だから聞かなくなった。
嫌な予感はずっとしていた。でも確かめる勇気がなかった。
ある夜、早めに帰ってきた翔太が、玄関先に立ったまま私に言った。
「借金ができた。かなりの額だ」
頭が真っ白になった。どういうことか聞こうとしたが、翔太は話の続きをすぐに切り出した。
「友達に紹介してもらった仕事がある。稼ぎがいいから、お前にやってほしい」
心臓が縮んだ。嫌な予感が確信に変わった。でも、私にはもう逆らえる気力が残っていなかった。連れて行かれた場所は、予感通りの場所だった。見た目だけなら上客が来る、と言われた。毎晩、客が来た。稼いだお金は翔太の借金に消え、翔太の酒代に消え、私の手元には何も残らなかった。
それがどれほど続いたか、もうよく覚えていない。
ある晩、仕事の途中で倒れた。意識を取り戻したのは病院のベッドの上だった。検査を重ねた後、医者が静かな声で告げた。
「治療法がない種類の性病です。ストレスも加わっていますし、寿命は……長くて一年半、持つかどうかというところです」
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。何度か聞き返した。医者は同じことを繰り返した。私は、二十四歳だった。
入院が始まった。翔太は最初の一ヶ月で二回だけ顔を見せた後、ぱったり来なくなった。連絡しても既読がつかない。別の番号からかけると、一度だけ繋がったが、何も言わずに切られた。その後はブロックされていた。捨てられた。それだけは、はっきりわかった。
入院から六ヶ月が過ぎた頃、入院費の支払いが止まっていることを告げられた。頼れる人間が、一人もいなかった。
布団の中で、古い携帯をぼんやりと眺めた。連絡先のリストを上から下へとスクロールした。ほとんどが消えかけた縁の人たちだった。その中に、一つの名前があった。
白鳥千鶴。
中学から高校の途中まで、一番仲の良かった親友の名前。あの頃から八年が経っていた。こんな姿を見られたくないという気持ちが、強くあった。でも同時に——最後に、ちゃんとお別れが言いたかった。震える指で、通話ボタンを押した。
コール音が三回鳴った。
「もしもし——亜里沙ちゃん? 亜里沙ちゃんよね?」
電話口から聞こえた声は、驚きとはっきりとした嬉しさで震えていた。その声を聞いた瞬間、喉の奥が詰まって声が出なくなった。
翌日の午前、病室のドアがノックされた。
ドアを開けて入ってきた女性を見た瞬間、私は現実感を失いかけた。記憶の中の千鶴ちゃんは、ふわふわしたおっとりした可愛い女の子だった。でも今目の前に立っているのは、言葉を失うほど美しい大人の女性だった。上品で洗練されていて、その場の空気まで変えてしまうような存在感がある。
千鶴ちゃんはドアの前に立ったまま、私の顔をじっと見た。その目に一瞬、驚きと悲しみの色が走った。でもすぐに、柔らかい笑顔に戻った。
「お久しぶりですわ、亜里沙さん。八年ぶりでございますわね。こうしてまたお会いできて、とても嬉しゅうございますわ」
その一言が、どれほど救いになったか。こんな姿の私に、嫌な顔一つせず「嬉しい」と言ってくれた。
視線をずらすと、千鶴ちゃんの隣に男性が立っていた。背が高く、立ち姿が静かで、端正な顔立ち。服装はシンプルなのに、どこかただならぬ品がある。こんな人が同じクラスにいたなら覚えているはずだと思うのに、記憶の中に当てはまる人物が見つからなかった。
その男性の足元に、小さな人影が二つ。四歳くらいの、双子の子供たちだった。
「こちらの方はお覚えになっていらっしゃるかしら。高校の時、同じクラスにいらした方なのですけれど」
「……分かりませんか? 彼は、不破蓮司様でございますわ」
不破蓮司。
目立たない、特に何もない男の子。そんな印象しかなかった。でも今の彼は、そのどこにも重ならなかった。
千鶴ちゃんは照れくさそうに頬を染めながら「蓮司様と私の可愛い天使たちですわ」と言った。四人が並んだ姿を見ると、絵に描いたような幸せな家族がそこにあった。その眩しさに、私はうまく直視できなくなった。
千鶴ちゃんは蓮司さんに子供たちを連れて外に出てもらい、私の横の椅子に座った。
「千鶴ちゃんは……今、とても幸せなんだね」
泣きそうになりながら、そう聞いた。
千鶴ちゃんはわずかに照れたように視線を落として、それからゆっくりと顔を上げた。
「えへへ。とても幸せですわよ」
胸の中で、何かがぐらりと揺れた。羨ましかった。悔しかった。
千鶴ちゃんは蓮司くんとのことを話してくれた。高校一年の頃から付き合い始めたこと。中学の頃にお父様の紹介で知り合ったこと。彼には他にも大切にしている方がいるけれど、その方々とも仲良くなって、今では家族のような関係で支え合っていること。
私はとても理解できなかった。複数の女性と関係を持つ男性のそばで、これほど満ち足りた顔ができる理由が。
「蓮司くんって……昔の印象と全然違う。高校の時は目立たない存在で、特に何もない人だと思ってたから」
「あの頃の彼は正体を隠しておりましたの。実は複数の企業グループをまとめる立場にいらっしゃって、資産も桁違いの世界の方でしたのよ」
それから私は、千鶴ちゃんに今まで起きたことのすべてを話した。翔太との子供のこと。家出のこと。お腹の子を失ったこと。借金のこと。夜の仕事のこと。翔太に捨てられたこと。後悔も、絶望も、何もかも。
話しながら、何度も声が詰まった。千鶴ちゃんは一言も遮らず、ただ静かに聞き続けてくれた。すべてを話し終えると、千鶴ちゃんはとても悲しそうな顔で、でも決意を込めた目で言ってくれた。
「よく頑張ったわね」
たった一言だった。でもその言葉が、ずっと誰にも言ってもらえなかった言葉だった。私はとてつもなく泣き崩れた。
しばらくして、扉が静かに開いた。蓮司さんが戻ってきた。千鶴ちゃんは申し訳なさそうに立ち上がり、子供たちを連れて廊下へ出て行った。
病室には蓮司さんと私の二人だけが残された。彼はゆっくりと腰を下ろして、落ち着いた静かな声で話しかけてきた。
「久しぶりですね」
「あの頃とは随分変わったんだね」
「あなたも随分変わりましたよ、亜里沙さん。こんな再会になってしまったことは、残念に思っています」
彼は少しの間、視線を落とした。それから静かに続けた。
「それと……実は、昔からあなたのことが好きでした」
「小学校の頃、私たちは幼馴染だったんですよ。私の両親が亡くなった時のことを、覚えていらっしゃいませんか。あの頃、一番私の支えになってくれたのが、あなたでした」
記憶の底の底に、押し込めていたものがある。幼い頃の、大切な記憶。突然いなくなって、見捨てられたのかと思って、それ以来意識の外に追いやってしまっていた、大切な思い出。
「……あなたが、あの子だったの」
「はい」
「高校の入学式であなたを見つけた時、また会えたと思いました。けれどあなたは私のことを覚えていなかった。それに、あなたの隣にはすでに彼がいた」
選択が違えば。あの時別の道を選んでいれば。後悔と悔しさが、一気に押し寄せてきた。
でも最後の力を振り絞って、私は言った。
「今更そんなこと言われても、困るよ」
声が震えていた。うまく笑えなかった。
「……でも、ありがとう」
蓮司さんは静かに立ち上がりながら言った。
「入院費のことは心配しないでください。また来ます」
それからしばらくして、千鶴ちゃんが戻ってきた。私の手を握って、「また来ますわね。絶対に来ますわ。だから亜里沙さんも、諦めないでくださいませ」と言った。
最後のお別れを終えて、千鶴ちゃんは病室を出て行った。
扉が閉まる音がした。
病室に、私だけが残された。
涙が止まらなくなった。悔しかった。惨めだった。後悔でいっぱいだった。
やり直したい。
もう一度だけ、やり直したい。
こんな未来は嫌だ。今度こそ、間違えない——
その願いが、意識の奥から溢れるように広がっていった。気づいたら、意識がゆっくりと遠のき始めていた。
第0章 了




