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言われてみれば確かに、妖怪の名前を他人の口から最初に聞いたことは一度もなかった。
伊織はこれまで出会った、数少ない妖怪のことを思い出し、納得していた。
「決め事とはいえ、旦那様に偽りを申し上げておりましたこと、何とお詫び申し上げてよいか」
すゞの声は震え、今にも泣きだすのでは、と思えるほどに上ずっていた。泣くつもりはなかったのに、とすゞは両手を強く握りしめる。昨日から謝ってばかりだ。
「武士や貴族にとっての諱と字みたいなもの、という訳だ」
何か納得したような普通の声の調子に、すゞは顔を上げた。
「武士にも日頃名乗っているのは字であって諱、実名ではない。俺の『伊織』だってそうだ。本当は『忠矩』と言うが、お偉方の前でない限り名乗ることはない。まぁ、そもそもお偉方の前に行くことはないから名乗ること自体稀だがな」
「良いのですか、私に教えてしまって」
「構わん。お前たち妖怪ほど実害がある訳ではないからな。ただ習慣と言うか、慣例と言うか。一種の魔除け、まじないの類だ。名は魂と言うのは、我々人の中にもある考えだ。名を偽っている、という意味では、俺もお前も同じという訳だ」
然も何でもない、という風だが、先に言って欲しかった、というのが伊織の本心である。
確かに大事なことで、秘するべきことなのだろう。今回、土御門の口からこの話題が出なければ一生知ることはなかっただろう。
それでも、後出しのように他人の口から知りたくない、と伊織は思ったのだ。
「ともかく、然程深刻に考えることではない」
すゞを見れば、彼女は涙を流していた。慌てて伊織が袖で拭えば、すゞは目尻を自分の袖で押さえながら、すみません、と謝った。
「安心してしまって、勝手に」
そう言って笑う彼女に、これ以上言葉を重ねるのも憚られ、伊織は彼女の隣で黙って泣き止むのを待つことにした。
本当に、思わず出ただけの涙だったのだろう。随分、と言うほどの時もかからず、彼女の涙は見えなくなった。目尻が少し赤みがかっているが、それもじき収まるだろう。
「そろそろ戻るか」
伊織は立ち上がると、すゞを見遣る。彼女も続いて立ち上がる。裾を整えたのを確認し、伊織を先頭に元来た道を戻る。
「旦那様」
「なんだ」
「私の真の名、お伝えしておきます」
「いらん」
「ですが」
「うっかり口にして土御門殿に知られてもことだ。それに聞いたところで、俺が何をすることもない」
彼の背中は、それ以上言うな、とすゞに訴えているように思え、彼女がそれ以上何か言うことはなかった。それでも、先程までの不安感や後ろめたさは、彼女の中から消えていた。
土御門と合流した伊織が何もなかったと伝えれば、土御門は夜に来ましょう、と彼らに言った。下山と再びの登山のことを思うと憂鬱ではあったが、山を下りればゆっくりできることは間違いない。
伊織も承諾し、山を下りることになった。しかし、鬼たちは下りようとしない。
「赤と青には夜まで探索するように命じたんです。探すにも、少しは楽したいですし」
土御門は笑っているが、伊織は笑えなかった。
命じられれば逆らえないのだろう、名を縛られた妖怪は。人に真の名を知られぬよう、常に気をつけていなければならない。人の中にいれば、尚のこと。他にも障害や厄介事はごまんとあるだろう。
妖怪にとって、とかくに人の世は住みにくい。
お読みいただきありがとうございます。
今年もあと一ヶ月で終わりますが、年末年始に帰省による移動ができるのか今から不安でなりません
。
今年は日本だけでなく世界中がウイルスに振り回された一年となりました。
とかくにこの世は住みにくくなったものです。
自分のような引きこもり気質には、良い言い訳になりますが……。




