『光の代償、闇の覚悟』③
第3部:残火の誓約
応接室に移り、レオンはソファに深く腰掛け、暖炉の揺れる炎を無言で見つめていた。
手のひらにある温かなハーブティーのカップが指先に温もりを伝えているが、その温かさすら、今の彼の心にはどこか冷たく感じられていた。
「君の作るものは、どうしてこんな……」
言葉が続かない。普段なら自然に口にするはずの「美味しい」という一言が、どうしても喉の奥でつかえて出てこなかった。
隣で、宝石姫は静かに銀のスプーンを磨いている。その規則正しい摩擦音だけが、部屋の静けさを乱すことなく、むしろ深く浸透していく。
サク、と焼き菓子を噛む乾いた音が、部屋の隅から響いた。
部屋の影の中から、ヴァルプスの赤い瞳が、冷徹な知性を湛えながら二人を観察している。
その眼差しは、無言でレオンと宝石姫の間に楔を打ち込むように、じっと二人を見つめて離さない。
レオンはその視線に気づきながらも、決して振り返らなかった。彼の心はすでに、ひとつの冷徹な覚悟に支配されていた。
「……レオンさん、どうしたの?」
宝石姫がぽつりと尋ねた。レオンの青い瞳が一瞬だけ彼女の紫の瞳と交わり、そして、すぐに逸らされた。
「宝石姫……」
その声は、微かに震えていた。彼が心の底から紡ぎたかった本音を、ようやく絞り出した響き。
「君がどれほど無垢で、純粋な存在か、私は誰よりもわかっている。
……君は、こんな泥に塗れた世界に巻き込まれるべきではないんだ。
何も知らず、ただ平和に笑っていてほしいと、心から思っている」
レオンの声は、胸の奥から引きずり出されたように重く、沈黙の中に響いた。
無力感と、それゆえの苛烈な執着が、その言葉には混ざり合っている。
レオンは一度目を閉じ、深く息を吐くと、今度こそ真っ直ぐに彼女を見据えた。
「だが、君には知ってほしい。私は──君という光を繋ぎ止めるためなら、どんな手段でも使う覚悟がある。
どれだけ私が汚れても、結果として君を傷つけることになろうとも、君を私の『救い』として手放すことだけは、決してしない」
それは、レオンが自らの「汚れ」を受け入れ、聖者を演じ続けることを決めた、残酷な誓約だった。
「君を傷つけないために、私はもっと、君の代わりに背負えるものを受け入れたい。
……君がいなくなることを、私は何よりも恐れているんだ」
レオンの言葉は重かった。手の中で、かつて高潔だった自分が激しく苦痛を訴えかけてくる。
しかし、彼はその痛みを理性の下へねじ伏せるように、手元のカップをそっと握りしめた。
「君からどれほど汚れて見えたとしても──私は君を守るためにここにいたい。傍に居させてほしい」
「……ふふ。急になにを言い出すと思ったら」
宝石姫は小さく笑って、で彼の手を取った。その透き通るような温もりが、レオンの指先を優しく包み込んでいく。
「レオンさん。あなたの手がどれほど汚れていても、私はその手を大切にします。
あなたが私を守るために汚れるのなら、私はその汚れごと、あなたを信じます」
その静かな誓いは、レオンの胸に深く突き刺さる。
彼女が自分を「信じる」と言えば言うほど、自分は彼女を裏切れないという確信に変わるからだ。
部屋の隅の影から、ヴァルプスの声が届く。
「……素晴らしいお言葉の数々ですね。
……ですが主さま、ひとつだけお忘れなく。
どれだけあなたが汚れても、最後にその『返り血』をロンダリングして隣にいるのは、ボクですよ」
ヴァルプスがゆっくりと立ち上がり、最後の一切れの焼き菓子を満足げに飲み込んで、椅子を小さく鳴らした。
レオンはほんの一瞬だけ、その赤い瞳から目を背ける。喉の奥に柔らかな棘が刺さったような苦さを覚えながらも、レオンは宝石姫の手をしっかり握り直した。
「レオンさん。私は、あなたのために守られたいのです。
……そして、あなたの側で輝きたい」
宝石姫の言葉が、ヴァルプスの冷笑をさらに引き出した。
「お熱いのは結構ですが、主さま。
明日の『顧客』は、そんな生ぬるい愛の誓いなど、一刻も待ってはくれませんよ」
ヴァルプスの言葉は、鋭利なメスのように、今この部屋に満ちていた甘美な聖域を無情に切り裂いていく。
窓の外では冷たい春の嵐が吹き荒れ、残雪が月明かりに妖しく輝いていた。この部屋の中で繰り広げられているのは、救済という名の、終わりなき破滅へのスパイラル。
三人の間に深く結びついた静かな絆は、今や取り返しのつかない形に捻れながら、前へ進み始めていた。
レオンは、宝石姫の手を離した。
レオンの胸にゆるやかな悲しみが走ったが、どうしようもなかった。
「……わかっているよ。打ち合わせをしよう」
その言葉は、冷徹な仮面の奥から絞り出されたものだった。
温もりが完全に遠のいた円卓の上。
レオンは自らの拳を固く強く、握りしめた。
※2026/05/24 大幅修正をしました。




