『原価の温度(コスト・テクスチャー)』①
第1部:消毒液と出汁の匂い
社員食堂「ラ・フォンテーヌ」の周辺は、昼夜の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
数時間前まで「小国家」の熱気を孕んでいたそこは、いまや主を失った廃墟のような静寂に包まれている。
黄金色の照明は落とされ、非常用の魔導灯が床に長く、頼りない影を落としていた。かつて社員たちが奪い合ったカウンターの棚には、積み上げられた紙袋の代わりに、拭き残された消毒液の筋が白く光るのみだ。
空間の最奥——。
徹底して管理された機能美を汚すように、ゆらり、と湿った湯気が立ち上っていた。
レオンは、懐に忍ばせた報告書——あるいはそれ以上の「終わりの合図」——の重みを感じながら、カウンターの奥へと歩を進める。そこで鼻腔を突いたのは、洗練されたカフェテリアには似つかわしくない、異国の空気と魚の出汁が混じり合ったノスタルジックな匂いだった。
厨房の奥、最新鋭の魔導コンロを背に、紺色の甚兵衛を纏った小太りの中年男が、場違いな巨大な寸胴鍋に木べらを突っ込んでかき回している。
男はレオンの気配に気づいているのかいないのか、「ちょっと味が薄いなぁ」と、場にそぐわぬ呑気な独り言をこぼした。
レオンは、厨房と客席を隔てるステンレスのカウンターの前で立ち止まった。
言うべきだと理解しているのに、喉の奥だけが、わずかに詰まったままだった。
「……金本さん」
呼びかけるレオンの声は、驚くほど冷たく無感情だった。
「おや、レオンちゃん」
金本が、ぬらり、と振り返った。甚兵衛の胸元からは、魔導灯を弾き返すような金鎖のネックレスが覗いている。
「どないしたんや、そんな幽鬼みたいな顔して。アメリアはんの機嫌でも損ねたか?」
金本は手に持った木べらを突き出し、悪戯っぽく笑う。
レオンが抱えている鬱屈した感情の正体も、彼が今感じている絶望の深さも、金本は知らない。
だがこの生真面目すぎる若きCEOが、「一番筋の悪い道」を突き進もうとしていることだけは、その鋭い狸の嗅覚で見抜いていた。
「例のPVですが、公開は未定になりました」
レオンは笑みを浮かべる金本に向かって、断罪を待つ囚人のように告げた。
誰に求められたわけでもない。ただ、そうしなければ自分の「正しさ」が完全に瓦解してしまう。
レオンは自らの無能を供物のように並べる、無意味で潔癖な儀式を執り行った。
「……構成が崩れました」
保留以外の選択肢は、もう思考から落ちていた。
次の言葉を並べようとして、うまく言えずにレオンは押し黙る。
「ほーん。デカなりすぎたか」
金本は寸胴に向き直ると、そのまま調理に戻る。木べらが鍋の底を叩く、小気味よい音が響いた。
「……ほな、何が映ってもうたんー?」
「……意図しない方向へ、拡散した。制御不能です」
「拡散? へえ。……自分、演出やなくて『本音』漏らしてもたんちゃうか?」
ふう、と肩をすくめて金本は鍋の中身をかき混ぜる。
「嘘っちゅうのは、綺麗に包装してリボンかけるから『商品』になんねん。……けどな、包み紙突き破ってしもたもんは、もう商品やない。生身の『本物』や」
金本はそこで一度、味見用の小皿に出汁を垂らし、ズ、と音を立てて啜った。
「……それ、ワイやったら『時価』で競り落とすけどな」
レオンは小さく頭を振る。
「決定したことです」
レオンは懐の報告書に手をかける。
「それで……その。以前と同じ形では、うまく弾けられないかもしれません。
だから、提案をしたくて」
金本の動きが止まった。
湿った沈黙が、ステンレスのカウンターを浸食していく。
振り返ったその顔には、同情も困惑もない。ただ、獲物の値打ちを測り直す、冷酷な商人の眼差しだけがあった。




