『氷雨の再計算(コールド・ブート)』⑥
第6部:乾かない靴跡
扉を抜けた瞬間、空気の質が変わった。
冷たいはずの外気が、どこかざらついている。
風はすでに止んでいるのに、遅れて押し寄せた冷気の余波だけが、まだ廊下の壁の隙間に残っているようだった。
廊下の先、開け放たれた非常口の向こうで、黒い影がひとつ、動かずに立っている。ヴァルプスだった。長身の身体は微動だにせず、だがその周囲だけ、空間がわずかに歪んでいるように見える。
護衛たちは距離を取り、誰も近づこうとはしていなかった。
レオンの足が、わずかに止まる。
ヴァルプスはそれに気づいたのか、ゆっくりと視線だけをこちらへ向けた。
「――遅いです」
低く落ちた声は、感情を押し殺している分だけ、余計に凍てついていた。
レオンは一歩だけ前に出る。歩幅は小さいが、そこに迷いはなかった。
「……待たせた」
その一言で、ヴァルプスの表情がほんのわずかに変わった。怒りでも安堵でもない、判断を下す前の、静かな揺れ。
次の瞬間、周囲の張り詰めた気配が、音もなく緩んだ。ヴァルプスは一歩だけ下がる。道を空けるように。
「――問題は」
「解決したよ」
短いやり取りだった。それ以上は要らないというように、レオンは話を切り上げる。
テツヤはその一連を横目で見ながら、小さく息を吐いた。
――収まったか。
完全ではない。だが、これ以上荒れる気配はなさそうだった。
レオンはそのまま振り返り、テツヤの方へ向き直る。さっきまでの揺らぎはどこかに消え、もう立っている側の顔をしていた。
「……テツヤ」
呼び方が戻っている。
「今回の件、改めて依頼として正式に処理したい」
テツヤは眉を上げる。
「今やるのか?」
「今やる」
一拍。
「ここで終わらせる」
迷いのない声だった。テツヤは肩をすくめる。
「……いいけどな」
レオンは一度だけ頷くと、ほんのわずかに姿勢を正した。それはもう、完全に仕事の顔だった。
ビール片手にカツサンドを齧り続けるスタッフたちと、凍てついた瞳のヴァルプス。護衛たちが見守る前で、レオンは右手を差し出す。
「本件の映像管理および封印措置、ならびに関連データの一切の保全について、御社へ委託する」
形式は簡潔だが、抜けはない。テツヤはその手を見て、ほんの一瞬だけ黙った。それから、ため息を呑み込むようにして応じる。
「受ける」
短く答えて、その手を取った。握手は一瞬で終わる。だが、それで十分だった。
契約は成立した。
レオンは手を離すと、そのまま踵を返す。
「行こう、ヴァルプス」
「……はい」
今度の返答には、余計な感情は混じっていなかった。護衛たちが動き出し、自然に動線が開く。テツヤはそれを見送りながら、ふと視線を外へ向けた。
車に乗り込む間際、レオンがテツヤを振り返る。その頭部にある黒い宝石のような角は、テツヤにとってはもう見慣れた、違和感のないものだった。
レオンはテツヤに向かって小さく手を振る。その表情の不意な柔らかさに、テツヤの認識がわずかに揺らいだ。
――仕事相手だ。そう処理したはずの枠組みが、ほんの一瞬だけ、うまく嵌まらない。
テツヤはその違和感を言葉にすることなく、ただ視線を外した。
スタッフが数人がかりで車庫のシャッターを開け放つ。さっきまで荒れていたはずの空が、嘘みたいに静まっていた。
あれほど吹き荒れていた魔法の狂瀾が嘘のように、吹雪は唐突に鳴りを潜めている。冷たい雨の気配も、すでにそこにはない。
大量の魔力の霧散とともに、鉛色だった空の底が割れていく。
二月の傾きかけた太陽から、強烈な、けれどどこか透き通った光が、ルテティアの運河へと一気にふりそそいだ。
濡れそぼったひび割れた石畳と、倉庫の錆びたトタンの屋根が、強い斜光を浴びて鏡のように照り返す。急激な日差しに温められた残雪が、白い湯気となって細く立ち上り、光の粒子を浴びてきらきらと宙に溶けていった。
テツヤは眩しさに目を細め、静まり返った廃倉庫を見上げた。
不自然なほど青く澄み渡った空の下、湿った土と、かすかな魔力の残滓の匂いだけが、冬の風の中に残されている。
シャッターが完全に開ききる。光が差し込む。エンジン音が遠ざかっていく。
テツヤは一度だけ、車の消えた方へ視線を向けかけて――やめた。
代わりに、ポケットに手を突っ込み、そのまま踵を返す。
床に残った靴跡だけが、まだ乾いていなかった。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。




