第163話:『一番高い仕入れー 02/06 20:00 執行開始』
第2部:一番高い仕入れ
「……これを」
整った指先で差し出されたのは、簡素な文体で記された、PVの記録だ。
本来ならヴァルプスを通じて事務的に処理されるべき代物だが、レオンはこれを金本に直接手渡すことが、せめてもの誠実さだと思い詰めていた。
「ほう。なんや、ワイへの恋文か?」
金本は作業を止め、指先を甚兵衛で無造作に拭くと、それをひっ掴む。パラパラと景気良くめくったが、二秒で折りたたむ。
「レオンちゃん、自分……これ、さっき口で言うたことと同じことが書いてあるだけちゃうん?」
「……事務手続き上、必要なプロセスですので。
口頭での報告と書面によるエビデンスの整合性を——」
「整合性!自分、死ぬ瀬戸際まで『エビデンス』言うとるんか!ほんま、おもろいお人やわ」
金本は報告書をカウンターの隅へ追いやった。そこには野菜の残骸が溜まっており、無慈悲にレオンの潔癖な書類を濡らしていく。
「……あ」
「口で言うて、紙でも書いて。そんなに自分を『失敗作』としてハンコ押して固定したいんか。……なぁ、レオンちゃん」
金本は笑いを含んだ目のまま、不意に声を低くした。
「そんなに綺麗に終わることに必死にならんでも、世界は勝手に壊れるし、祭りは勝手に始まんねん。……あんたが責任取ろうが取るまいがな」
レオンは力なく項垂れていく紙に目を瞬かせ、金本に視線を投げる。その青い瞳には、金本の言葉を法的なロジックで読み解こうとする、頑なな理性が凝り固まっていた。
「ちゃんと聞いてください。
……改めて確認します。金本さんは、この案件から降りますか」
「……は? 自分、この期に及んで何言うてんの?」
「契約条件を、満たせなかった」
レオンはカウンターの縁を、指先が白くなるほど強く握った。
「……不誠実だから。
私は、叔父上を完璧に欺く『嘘』を作れなかった。
私の個人的な……不純な感情が、商品を台無しにしたんだ。
君が全力を尽くしてくれた興行を、私は私の『未熟さ』で汚した。だから……」
レオンは俯く。
「ちょ、ちょっと待ちぃな。レオンちゃん。あんたな……」
金本が、鍋の火を落とした。急に静まり返った厨房に、パチパチとコンロが冷える音だけが響く。
金本はゆっくりと、しかし逃げ場を許さない重圧を伴ってレオンへ向き直った。
「自分、さっきから商品を汚したやら不純やら、えらい綺麗な言葉並べとるけどな。
……ワイから言わせれば、あんたは今、最高に不誠実なことしとるで」
「……何がですか。契約条件は崩壊しました」
「誰が決めたん」
「……私です」
「ほな無効やなぁ」
「どうしてですか」
「なんでやろなぁ」
金本は寸胴から上がる湯気に目を細めてから、そのままレオンを見上げた。
金本はニヤニヤとした笑みを浮かべて、手ぬぐいで指を丁寧に拭いていく。
二人はしばらく見つめ合ったが、待機に耐えきれずに目をそらしたのはレオンのほうだった。
「降りるかどうか、やなくてな……あ、そうや」
金本は寸胴の蓋を開ける。
「レオンちゃん。
これ、今日誰が飲む思う?」
「……残業部署への配送は、完了している筈ですが」
「ちゃう。誰が待っとるかや」
寸胴から溢れ出した濃厚な香草と出汁の香りが、レオンの鼻腔を暴力的に突き上げた。
逃げ場のない熱気が、彼の冷え切った頬を赤く染める。
「レオンちゃんは、なんで毎回、自分だけ原価に入れないんかなーって思うんよね」
「……私が、原価?」
レオンはその言葉を、意味としてではなく異物として反芻し、そこで思考が途切れた。
「……意味が、分かりません。
私はこの事務所のオーナーであり、投資家だ。原価としての存在では――」
「アホか」
金本は即座に断じた。
「一番ええ席座って、一番高い服着て、一番危ない橋渡っとる中心が、タダで動いとる思てんのか。
……経営者が自分の人件費計算に入れんと、何がCEOや」
金本は、鍋の縁を木べらで軽く叩く。
「レオンちゃんの命はな、この祭りの一番高い仕入れやねん。それを自分で『ゼロ』にして、勝手に廃棄しとるんやったら、そら帳簿も狂うわ。
……商売なめんなよ」
レオンは心底困ったように眉を寄せ、金本を見つめた。
世界経済を掌で動かすはずのCEOが、煮え立つ湯気の前で、ただ言葉を失って立ち尽くしていた。
金本は、呆れたように鼻を鳴らした。




