第160話:『後で効く言葉ー 02/05 15:20 執行開始』
第5部:後で効く言葉
どれくらい時間が経ったのか、テツヤには分からなかった。
換気音だけが一定のリズムで流れ続ける。
外ではまだ何かが荒れているらしいが、その冷気も音も、この防音された部屋にはほとんど届かない。
やがて、かすかな息の乱れが、わずかに整った。
テツヤはあえて視線を向けない。ただ、衣服の擦れる気配だけで、相手の回復を拾う。
レオンの指先が、膝の上でぴたりと止まった。それから、ゆっくりと。
「……移動できる」
その声はまだ少し掠れていたが、理性的な響きを取り戻していた。
レオンは目を開けないまま、小さく息を吐いた。
「……少し、借りた」
「別に。好きにしろよ」
それは許可でもなく、拒否でもない。ただの事実の確認みたいな声音だった。
しばらくして、レオンがゆっくりと目を開ける。
完全には戻っていない。だが、さっきまでの崩れ方は見えない。
「……映像は、封印でいい」
「さっき聞いた」
テツヤは肩をすくめる。
「俺も同意だ。あれは……出すもんじゃねえ」
一拍。
「仕事としてな」
レオンの口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかどうか、判別がつかない程度に。
「……助かる」
それはCEOの声だった。だが、どこかだけ、まだ人間が残っている。
テツヤはそこで、ようやく椅子から体を起こした。
「帰れるか?」
テツヤの問いに、レオンはすぐには答えなかった。再び視線を床に落とし、自分の手のひらを見つめる。その指先が、ほんの少しだけ震えているのをテツヤは見逃さなかった。
レオンが、視線だけでテツヤを捉える。ひとつの瞬きのあと、彼は両手の指を組み合わせ、祈るように口元へ寄せた。
ゆっくりと指を交差させながら、レオンは一度だけ口元を歪める。笑おうとして、表情の筋肉が完全には制御できていないようだった。
レオンは、目を伏せた。自分の身体が機能していないことを受け止めるように、小さく息を吐き出す。それから、口元が静かに崩れた。先ほどのような取り繕うための歪みではない。自分の不甲斐なさを認めたあとの、酷く乾いた笑みだった。
テツヤはわざとらしく肩をすくめた。
「無理すんな。ここで倒れられると、こっちの処理が増える」
「……ああ」
「搬送、連絡、責任の所在。全部、うちのスタジオに回ってくるんだ。
このあとだって、他と打ち合わせがある。
……だから、さっさと回復して帰ってくれ」
「……うん」
レオンはテツヤを見つめ、静かに目を細めた。その青い瞳にじわりと滲む柔らかさに、テツヤはぞくりとした寒気を覚える。
それは、CEOの仮面を脱ぎ捨てた、ただの『人間』としての眼差しだった。
「……ちゃんと、回してるんだね。
……ここは、いい場所だと思う」
テツヤの胸の奥に、鈍い重さが落ちた。今の言葉は、間違っていない。むしろ、正しすぎる。
だからこそ、胸の奥に深く引っかかった。
――それを、今、俺に言うのか。
言い返す言葉は、何ひとつ思いつかなかった。
ただ、ほんのわずかに、その穏やかな視線から逃れるように、テツヤは顔を逸らした。
「……褒めるなよ」
ぽつりと落ちた声は、自分の思っていたよりも低かった。
「そういうの、後で効くんだよ」
レオンは一瞬だけ目を瞬かせたあと、小さく息を吐いた。それが微かな苦笑なのか、ただの呼気なのか、テツヤには判別がつかない。
「……そうか」
「そうだ」
短く返して、テツヤは腕を組み直した。
「だから――元に戻ってからにしろ。今は、ただ立て」
レオンはその言葉を、すぐには理解できなかったようだった。
けれど、青い視線がほんのわずかに揺れる。それから、今度こそ、覚悟を決めるように深く息を吸い込んだ。
もう一度、椅子の肘掛けに手をかける。さっきとは、力の入り方が違っていた。
わずかに、身体が浮く。膝が震える。だが、今度は途中で止まらなかった。重力に抗うように、ゆっくりと、レオンは自分の足で立ち上がった。
「……ほらな」
テツヤは視線を外したまま、吐き捨てるように言う。
「それくらいは、できるだろ」
レオンは何も言わなかった。ただ一度だけ、ほんの僅かに、噛みしめるようにして頷いた。その静かな仕草は、もうCEOのものではなかった。
「……歩けるか」
テツヤは、ようやく視線を正面に戻した。レオンは自分の足元を一度だけ確かめるように見てから、ゆっくりと重心を移す。
「……問題ない」
「ならいい」
それだけ言って、テツヤは扉の方へ顎をしゃくった。
「外、荒れてるらしいからな。……転ぶなよ」
レオンは、わずかに目を細めた。
「君が言うか、それを」
かすかに残った皮肉だったが、さっきまでの鋭い棘はどこにもなかった。
テツヤは鼻で笑う。
「うるせえよ」
重い静寂に沈んでいた映写室に、二人の足音が重なる。
さっきまで響いていた呼吸の乱れも、もう聞こえない。
テツヤは振り返らないまま、そのまま扉を押し開けた。




