第104話:『薄荷のサンプリング ー 01/26 15:30 執行開始』
第1部:薄荷のサンプリング
一月二十六日 十五時三十分
「……それでは、失礼します」
ヴァレリアンが、静かに頭を下げる。
カイウスはレオンの胸元に飴玉の紙包みをひとつ投げつけてから、小さく笑った。
「……あんまり根を詰めすぎないでよね。
君が壊れたら、ヴァレリアンが悲しむ」
ヴァレリアンが促すと、カイウスは名残惜しそうにP.A.N.D.O.R.Aの光を収め、ソファからしなやかに立ち上がった。
二人の「監査官スーツ」が、退室のために再び完璧な規律を取り戻す。
重厚な木の扉が、入ってきた時と同じく音もなく二人を飲み込み、密閉された。
嵐が去った後の執務室には、メイとA.I.D.Aの淡い青光と、応接テーブルの上に残された実体のないホログラムの残滓だけが浮遊している。
レオンは一人用のソファで静かに両手で顔を覆いかけ、右手の小指に巻かれた影を視界に入れて動きを止めた。
軽く眉を寄せて目を閉じてから、影の輪に黒い爪を立てる。
数秒後。
細い輪はたわみ、歪み、大きく膨れ、目の前にヴァルプスが顕現した。
ヴァルプスは主を見下ろしたあと、膝をつきレオンの顎に手を当てる。
香油による肌荒れはないか、レオンの表情に異常はないか。
その赤い瞳には、冷徹な観察が潜んでいた。
レオンは無表情で、胸元に留まっていた飴玉の紙包みを手のひらに隠した。ヴァルプスの視線がレオンの手を追随する。
レオンはさりげなく立ち上がり、執務室の扉に手をかけて廊下に出る。
廊下に出た途端、手元の紙包みを開き、中にある青い飴玉を口に投げ込んだ。
――刃のような清涼感が、舌の上に広がる。
その直後。
背後からヴァルプスの大きな白い手が伸び、レオンの頬を押さえた。
「口に入れたものは、なんですか?」
ヴァルプスの白い指先が、レオンの薄い唇を割り込もうとする。
レオンはわずかに顔を背け、ヴァルプスの手を左手で押し返そうとした。
無言の、しかし絶対的な拒絶。
だが、右手の小指に巻き付いた影が、逃げ道を塞ぐようにぎゅっと食い込む。
「……レオン。口を開けてください」
ヴァルプスの声は低く、限りなく冷徹な「管理者」のそれだった。
レオンは、頬の内側に飴玉を押し込み、言葉を発することを放棄する。
「成分未確認の外部摂取物は、契約上のバイタル維持におけるリスクです。……さあ、検収を」
ヴァルプスの指が、レオンの顎を強引に固定しようとする。
レオンは眉を吊り上げ、剥き出しの抵抗を示した。
――自分は「資産」かもしれない。
だが、飴玉一粒の所有権まで譲った覚えはない。
廊下の空気が、レオンの魔圧に押し潰されるように震え始めた。
(……しつこい。離せ、ヴァルプス)
視線だけでそう訴えるが、管理官の赤い瞳は一ミリも揺るがない。
その指先から漂う『静止した硝子』の冷たい匂いが、レオンの思考を白く塗り潰そうとする。
(……仕方ない)
レオンは一瞬だけ、全身の力を抜いた。
ヴァルプスが「検収」のためにその唇を割り込もうとした、その瞬間。
舌先で転がした飴玉を、そのまま、ヴァルプスの半開きの口へ押し込んだ。
「……っ!?」
不意を突かれたヴァルプスが、驚愕に目を見開く。
レオンはすかさず、自身の指でヴァルプスの唇を塞ぐように押し当てた。
青い飴玉が、冷徹な管理官の口内へ転がりこむ。
薄荷の冷気と、ヴァルプスの無機質な吐息が、レオンの指先でひとつに混ざり合った。
(……黙って。それを食べて、私のことは放っておけ)
レオンが、勝利を確信したような――それでいてどこか投げやりな視線を向けた、その時だった。
――ズゥン。
建物の構造材そのものが軋む。
遅れて、重く、深い振動が廊下を走った。
魔導昇降機の音ではない。
空間そのものが、上位者の「到着」を認めた音だ。
廊下の突き当たり。まず、肺の奥を焼くようなタールと黒鉄の煤が舞う。
次いで、その奥から――二メートルを超える巨躯が、ゆっくりと歩み出てくる。
酸素が消失し、照明が断末魔のような明滅を繰り返した。
「……ほう。随分と、仲睦まじいことだな」
地の底から響くような、甘く、悍ましい声音。
大悪魔バルナザールが、その黄金の瞳を細めた。
CEOと管理官が密着し、指先で口内を弄り合っているその不敬な光景を、真っ向から射抜く。
「レオンくん。
私の『検収』を前に、そのような下俗な戯れに興じているとは……」
一歩、近づく。
『帝王の残灰』の重圧が、レオンの肌で震えていた死者の祈りの香油を撫でていく。
「……よほど、私の顔を見るのが楽しみだったと見える」
レオンの背筋に、物理的な質量を伴った悪寒が走る。
口の中から、薄荷の気配は消えていた。
代わりのように、A.I.D.Aからレオンの網膜に連絡が入る。
『マスター・レオン。
バルナザール顧問の魔圧により、スーツの精神防壁プロトコルが40%損壊。
このままいくと、スーツが物理的に損壊します。
……全裸でパージです』
恐怖と、乾きと――
不渡りの重圧だけが、静かに、確実に、彼を支配していく。
このままでは、社会的にも物理的にも「終わり」だ。
レオンが身体を震わせ、目を伏せたその時。
目の前で、管理官――ヴァルプスが、行動に出た。
彼は父であるバルナザールの黄金の瞳を真っ向から見据えたまま、レオンの指が触れていた自身の唇に指を這わせた。
そして。
ごくり、と。
見せつけるように、白い喉を鳴らして「検収物(飴玉)」を嚥下した。
「……っ!?」
バルナザールの喉から、獣のような掠れた音が漏れる。
(飲み込んだ……!?
私の目の前で、レオンが与えた『何か』を、あいつは……私の承認も経ず、肉体の一部にしたというのか!)
「……失礼いたしました、顧問。
CEOのバイタルに微細なノイズを確認したため、即時検収を行っていた次第です」
ヴァルプスは無表情に、だがその赤い瞳に微かな「優越」を滲ませて言い放つ。
その隙に、レオンはパージ(全裸)の危機から逃れるように、ヴァルプスの広い背中へと滑り込んだ。
長身の管理官の影に、その体を完全に隠す。
バルナザールの視界から、レオンの姿が消え、代わりに姿勢を正して立ちはだかるのは「不浄な既成事実」を飲み込んだ息子。
「……不浄だ。不浄すぎるぞ、ヴァルプス……ッ!!」
バルナザールは静かに唸った。
「……それを、私の前で“終えた顔”で立つな」
バルナザールはヴァルプスに一歩踏み込み、その二メートルを超える巨躯で、「不浄な管理者」であるヴァルプスを圧するように顎を上げた。
ヴァルプスもまた、レオンを背後に隠したまま一歩も引かず、父の黄金の瞳を真っ向から、最短距離で射抜く。
巨大な体躯の二人を取り囲むように、冷たい氷の粒と黒い煤が廊下に渦巻き、浮き上がった。
バルナザールの放つ『帝王の残灰』がヴァルプスの頬を焼き、ヴァルプスの『静止した硝子』の冷気が顧問の喉元を凍てつかせる。
視線がぶつかり合うその数センチの間で、空間そのものが悲鳴を上げて軋み、ひび割れていく。




