電波(フィクション)
市中病院で働いていた頃のことだ。
無雑医師は、夕方の外来に来た患者のカルテを開きながら、首をかしげていた。
主訴は――「貧血とあざ」。
40代の女性。
2か月前から体に青あざが増え、最近では立ちくらみや息切れも目立つようになったという。
「血液内科ですね、と言われて来ました」
少し不安げに笑う患者の顔には、やせ細った影があった。
採血結果は、予想通りだった。
Hb 6.8 g/dL、血小板 2万/μL。
白血球は減少し、芽球の出現も疑われる。
「……骨髄検査が必要です」
説明すると、患者はうなずきながらも小さくつぶやいた。
「やっぱり、そうですか……。実は、来る前からわかっていたんです」
「え?」
無雑医師は聞き返した。
「最近、頭の中に声がするんです。『血液の病気だから、早く病院へ行け』って。電波みたいに……はっきりと」
骨髄検査の結果は、急性骨髄性白血病(AML)。
やはり重い診断だった。
しかし患者は驚いた様子もなく、静かにうなずいた。
「やっぱり……そうでしたか」
治療方針を説明すると、彼女は淡々と聞いていた。
だが無雑医師の心には、妙な違和感が残った。
“病気を告げられる前から知っていた”ようなその態度。
それ以上に、「電波で知らされた」という言葉が耳に残った。
入院後、彼女は抗がん剤治療を開始した。
副作用で苦しみながらも、時折こう言った。
「今日の夜は気をつけてくださいって、聞こえました」
「明日は熱が出るって、言われました」
不思議なことに、その“予告”は驚くほど当たった。
熱発、感染、輸血のタイミング――
カルテに記録されるイベントの多くが、前日に彼女の口から語られていた。
「偶然ですよ」
A看護師はそう笑って見せたが、夜勤に入るたびに背筋が冷たくなった。
「ねえ、あの人、本当に“聞こえてる”んじゃないの」
B看護師も小声でつぶやいた。
治療は進んでいたが、地固め療法中に再発した。
ある夜、容体が急変し、スタッフが必死に処置を行った。
しかし、彼女は静かに息を引き取った。
その日の朝、D看護師が何気なく記録を見て、目を見開いた。
――彼女は亡くなる前日、ナースステーションでこう話していたという。
「明日の朝、私はいなくなると思います。……もう声が止まったから」
亡くなった後、彼女のカルテには詳細な経過が残されている。
だが、無雑医師の記憶には「医学的な治療経過」以上に、彼女の言葉が焼きついていた。
電波みたいに、はっきりと。
声がするんです。
偶然か、錯覚か、あるいは――。
医学の枠組みでは説明できない「予兆」を、確かにこの患者は持っていた。
病院という場所は、科学と同時に、説明のつかない“何か”も交錯する場なのだと。
あの日の無雑医師は、静かに悟った。
フィクションです。そんな話は流石に聞いたことはないです




