注射慣れ(A大学病院・血液内科 無雑医師の記録)
昔の大学病院は、今とはまったく違う空気が漂っていた。
今でこそ採血やルーチンの業務は看護師が主導することが多く、研修医は診断や処置の補助に回る時間も増えた。
しかし、当時は「朝の採血こそ研修医の仕事」と言わんばかりで、日の出前から病棟に散らばる研修医の姿は、朝の名物風景だった。
朝6時。まだ外は薄暗く、冷たい廊下に消毒用アルコールの匂いが漂っている。血液内科の廊下はすでに足音でざわめき、各研修医が採血カートを押して自分の担当患者の部屋へ向かっていく。
検体は多いときで5本以上、しかも一滴も無駄にはできない。焦れば焦るほど、針先は血管から逃げていく。そんなプレッシャーの中、今日も戦いが始まるのだ。
その日、研修医K先生は一つの病室の前で立ち止まった。中にいるのはMさん。50代半ば、がっしりとした体格で、眉間の皺が少し怖い印象を与えるが、話してみれば冗談好きな人だ。血液疾患の治療で長期入院しており、病棟の名物患者でもあった。
(よし……今日は一発で決めるぞ)
K先生は心の中で念じながらカーテンを開けた。
「おはようございます、Mさん。採血させていただきますね」
「おう、いいよ」
Mさんは慣れた様子で腕を差し出す。アルコール綿で冷たい感触を残し、K先生は穿刺。……が、針先は空を切った。
(……あれ? おかしいな)
二度目の挑戦も虚しく失敗。三度目は血管を捉えたような感触があったが、シリンジに血は戻らない。背中に嫌な汗が滲み始める。
「すみません、今日は血管が逃げちゃってますね……」
「はは、気にすんな」
Mさんは気楽そうに言うが、K先生の焦りはピークに達していた。このままでは他の患者の採血にも遅れが出てしまう。
「申し訳ないです。一度、他の先生を呼んできます」
そう告げた瞬間、Mさんがにやりと笑った。
「大丈夫だって。俺、注射慣れてるから」
「……え?」
「昔、自分でよくやってたし」
一瞬、時間が止まった。
(じ、自分で……? 注射……? 何を……?)
頭の中でさまざまな想像がよぎる。スポーツ選手の自己注射? それとももっと怪しいやつ? だがMさんは何事もないように、力を抜いた腕を差し出してきた。
「ほら、こうやってリラックスすると血管が出るからさ」
その声に不思議と肩の力が抜けたK先生は、4回目の穿刺を試みた。……スッ、と感触が走り、シリンジに赤い血が満ちていく。
「ありがとうございます、やっと取れました」
「だから言っただろ。俺、注射慣れてんだって」
Mさんは得意げに笑い、K先生は内心で首を傾げたままだった。
ナースステーションに戻り、この出来事を話すと、看護師たちは爆笑した。無雑医師は肩をすくめ、こう言った。
「まあMさんなら……ありえるな」
結局、何の注射に慣れていたのかは最後まで謎のまま。しかし、その日以来、K先生はなぜかMさんの採血だけは緊張せずに一発で決められるようになった。
――朝の採血戦争の中で生まれた、ちょっと不思議で笑える思い出である。
「注射慣れしている、よくやっていたから」と言われました・・・と言っていた研修医に「何を?」と思わずツッコミを入れたそんな思い出です




