一章 小さな魚は飛ぶ夢を諦めた
校舎は駅の目の前だった。正確には改札内コンコースからガラス越しに見ることができる。このアクセスの良さも燎太郎がこの高校を選んだ理由だった。
東京のベッドタウンと呼ばれている燎太郎の住む街。ここ数年、何駅か先に新興住宅地ができたみたいで、そこを過ぎると、通学の電車内は満員だった。身動きが取れないので、リュックを抱きかかえじっとしているが、燎太郎はこの時間も本を読みたいと思う。しかし、ぎゅうぎゅうと四方から押され、電車の動きに身を任せるのに精一杯で、目を閉じているだけで終わってしまう。プシュッとドアが開くたびに空気が入ってくるのを感じ、燎太郎はその方向へと微かに顔を動かす。金魚の鼻上げのようだと思う、この瞬間自分は、水面の酸素を求めエラを動かす小さな魚。
私立聡信学院高等学校——燎太郎が通う高校の最寄駅で降りると、いつも駅前のコンビニで、ペットボトルの水を買うのが彼のルーティンだった。人の流れにのり、素早く冷蔵庫から取り出すと、レジに向かう。その途中でいつものパンを買う、昼休憩用だ。紙パック飲料の売り場を右手に立ち、ひんやりとした風が、汗ばんでいた首筋を冷やすと、そこでひとつ深呼吸をする。そうすると、肩の力が抜け、満員電車からやっと解放されたことを実感する。
エコボトルが好きだった。きゅっと腹に力を入れて飲むと、ペットボトルがべこべこ音を立て、自分の肺活量が衰えていないことが分かるから。——まだ、大丈夫、肺も喉も自分のものだ、と。しかし、燎太郎にとってそれは貯金を切り崩すような思いだった。オペラスクールに通わなくなって、もうすぐ三年だ。自分はソプラニスタにはなれなかった。そう実感してからは、もうオペラには関わりたくない、そう思っていたはずなのに。燎太郎は今日も水を飲みながら、メリメリと音を立てるペットボトルに何故か安心していた。
コンビニから出ると、コンコースから見えていた学校が、中型店舗のスーパーや駅前のビジネスホテルなどに隠れてしまう。家や車のショールームの横を歩きながらこの街は「四角形」が多いな、と燎太郎は思う。その四角の店舗群を画用紙で切り出したら、水色の色紙に重ねる。そんな空には、わたぐもがぷかぷかと浮かんでいた。名前どおり綿みたいにふわふわしたそれは、しかしどこか炎のようにも見えた。舌を出した白い炎。その雲が落とした影の上を燎太郎はおそるおそると、歩いてゆく。
タイルで舗装された道。舞台の書き割りのよう思える建物沿いを歩くと、学校が見えてくる。いっそう大きな四角形。ポツポツと並ぶ校舎はカバの歯列のようだった。その間にはぽっかりと空洞のようなグラウンドが、砂つぶを風に巻き上がらせている。さらにその脇、桜の並木を歩くと自分の教室が入った校舎の昇降口が見えた。桜はまだほのかな桃色を残しながらも、新緑を覗かせていた。
教卓の目の前に、燎太郎は座る。同じ電車に乗っていたのであろう生徒が次々と教室になだれ込む。それを横目に燎太郎は素早く教科書類を机に移す。一限目は古典。今は「土佐日記」の授業なので燎太郎は楽しみだった。今年の教科担任はこぼれ話が好きなようで、今作での紀貫之は、今で言う「バ美肉」だと先生は言う。いささか俗っぽすぎる例えだとは思うが、生徒の興味を引くように話してくれていると思うと、純粋に楽しめた。なぜ、紀貫之は女性としてこれを綴ろうと思ったのだろう。男のままでは書けなかったのか、それとも女として書かなければいけない理由があったのか。それが分かれば自分の中にある、未消化の気持ちも解決できるのではないかと、燎太郎は微かに期待していた。
古典の教科書やノートなどを、机の中で一番上にくるように準備して、いつものように文庫本に手を伸ばそうとしたら声をかけられた。
「……あの」
健吾だった。
「おはよう、キミの時間を奪って申し訳ないと思う。冷泉くんにとっては損失だ、うん。だけど、また教えてほしいんだ」
そう言うと健吾はおずおずと問題集を差し出した。燎太郎が受け取ろうと腕を伸ばすと、健吾はさっとそれを九十度回転させる。
また化学だ。彼は制服のブレザーの下に、昨日と同じパーカーを着ているのかと思ったが、よく見ると似たようなデザインのものだった。カナリヤ色で、結構ビビットだなと燎太郎は思う。
「おはよう。大丈夫だよ、損失だなんて思わないから。今日はどの問題文が分からないの?」
燎太郎は開いたままの問題集を受け取ると、健吾が直角に曲がるように、さっと彼の横に並ぶ。さっき、回転させたのはこうやって横並びに見るためか、と燎太郎は理解した。
問題集を机に置くと、健吾がそれをホーミングするように顔を寄せる。眉間に深い皺を刻み、瞼が半分落ちている。遼太郎はそれを見て、ふと気づく。
「六角くん、視力が落ちてるんじゃないの?」
「えっ? 視力が、……そうなのか?」
健吾は自分では気づいていないようだった。遼太郎は机にぶら下げてあるリュックから眼鏡ケースを取り出した。エナメル調の葡萄茶色で、ワンポイントに赤いカーネーションがあしらわれている。磁石式の留め具をカチャッと開けると、燎太郎は中身を取り出し、こう言った。
「度が合わないと思うけど、つけてみて。そんなに強くないけど一応、クラっとこないように気をつけてね」
差し出された眼鏡を受け取り、おそるおそるといった様子で、健吾はそれを耳にかけた。
「えっ!見やすい」
健吾はレンズを通して問題集を見るなり、大きな声でこう言った。
「どうして、分かったんだ? ぼくの視力が落ちてることを、自分でも気づかなかったのに……」
きょろきょろと辺りを見渡しながら、心底不思議そうに健吾が尋ねた。
「……眉間に皺、寄せてたから、あっ六角くんがね」
「ピンホール効果か!」
言葉を被せるように健吾が叫ぶので、燎太郎はびっくりして少し体が跳ねた。
「眉間に皺を寄せるということは、目を細めるということだ。すると、光の通る範囲が狭くなり、焦点深度が深くなる。ピンホールカメラと同じ原理だ。ピントが合いやすくなるだろ? 冷泉くんはそれを推理したのか、すごいな、名探偵のようだ」
一気にまくし立てられ、燎太郎はまた苦笑いをした。
「度が合わない眼鏡をかけるのも良くないから、眼鏡、返してもらうね」
そう声をかけられると、健吾は「おう」と素直に眼鏡を外し、丁寧にたたむと燎太郎に差し出した。それを受け取り、ケースに仕舞おうとすると、また健吾が声を上げた。
「キミはかけないのか? そういえば、冷泉くんは席を移動したね。出席番号順のとき、ぼくの前に座っていたよね。板書に支障があるからだろ。なら、わざわざ席を移動せずに、眼鏡をかければ合理的だ。労力が一番少ない」
最初はこの教室の席順は、出席番号順だった。授業が始まって一週間後、担任の声掛けにより黒板の見えにくい生徒が、近くの席に移動した。健吾が言っているのはこのことだろう。遼太郎は困ったように首を傾げ、小さく笑うと、
「おれは、少し見えにくいぐらいでちょうどいいから」
こう答えた。その手の中に、艶のある黒い眼鏡のツルが閃いた。ケースと同じ赤いカーネーションが小さく咲いていた。
「それより、どこの問題が分からないの?」
健吾がまだ何か言いたそうに口を開こうとしたので、燎太郎は本題を切り出した。
「ああ、ここなんだ」
そう言いながら健吾が指差した問題文を読みながら、燎太郎はまず、自分がこの問題の解答が分からないので、説明するのも時間がかかりそうだと考える。そうすると、はたと、あることを思いつき、こう言った。
「この説明には時間がかかりそうなんだ。次、昼休憩の時に訊きにきてもらっていいかな?」
健吾がきょとんとすると、
「もうすぐ、朝のショートホームルームが始まる、だから後で、時間がたっぷり取れるときにしてもらっていい? おれも説明に時間をもらいたい」
他の生徒たちが、自分の席につく気配がちらほらと感じられる。燎太郎がさりげなく目線をそちらに向けると、健吾もつられてその光景を見る。
「そうだな、うん、ありがとう、じゃ、またお邪魔するよ」
健吾はこう言って、また直角を描くように燎太郎の横から、机の横に移動すると、問題集を回収して、そそくさと自分の席に戻った。
健吾は席につくなり、他の問題に集中し始める。それを見届けると、遼太郎はホームルームに備えた。
一限が終わると、燎太郎はまたヘッドホンをつけた。今日は『セギディーリア』をしばらく聴く、曲の世界に潜り込んだら、今度は『女生徒』を手に取り開く。もちろん文庫版だった。太宰治もまた、女性の心情を描くのが上手いと、評価されていた。(聞いたところによると、女性から『分かりすぎて気色が悪い』と評されたとか、なんとか……)
今日はヘッドホンをつけているのに、いまいち本の世界に入り込めない。ちらちらと健吾の方に目を向けると、やはり彼は、問題集に齧りついていた。きっと化学の、だろう。それから、燎太郎は昼休憩までが長く感じた。
「約束だ、さっきの問題を教えてくれないか?」
健吾が、やっと教えてもらえる、という気持ちを、ちっとも隠さずにウキウキしながら燎太郎の席にやって来た。
「いいけど、先、お昼食べてからにしよう。六角くんはお弁当持ってきてる?」
燎太郎はそれを受け、柔らかく笑いながら答えた。
「あっ、そうか、先に昼食をとった方が、残り時間いっぱい使えるからな、コンビニでパンを買ってきてあるぞ、取ってくる」
健吾はそう言うと、自分の席へと引き返した。すると、教室がザワザワする。誰かから誰かへ、耳打ちが、禁忌の呪文のような禍々しさを放っていた。背中にそれを感じると、不快なもので撫ぜられているようで、燎太郎はじわりと汗が伝う。
「なんで、六角が燎太郎くんに話しかけてるの」
そして呪文は、はっきりと言葉に変わってくる、こんな風に嘲る声が聞こえ始めた。そしり笑いが控えめに、だが高く響く。燎太郎はハッと顔を上げる。そして、声の主を見ないように健吾に近づこうとした、すると、
「冷泉くんがこのクラスで、いや、学年かもしれない、一番国語の成績がいいからね、合理的だろ」
声の主を探しながら、キョロキョロと健吾が答えた。
「成績良いから、教えるのがうまいって限らなくない? ホント、燎太郎くんには、めい……」
馬鹿にした声が高くなってくるのを確認すると、燎太郎は慌てて荷物をまとめ、健吾にこう話しかけた。
「健吾くん、パンはあるけど、ジュースを忘れた。購買までついてきてくれない? あ、問題集を持ってきてね」
その瞬間、クラスは水を打ったように静まり返る。
「おお、分かった!」
相変わらず、ワクワクと楽しそうな健吾を連れて、燎太郎は素早く教室を後にする。クラスメイトの顔を見ないように出たが、眼鏡をかけると、あのひとたちの表情が見えてしまうんだろうかと、考える。
購買は、昼休みには人で溢れかえる。食堂が併設されていて、そちらの方も繁盛していた。豆腐をひっくり返したようなシンプルなプレハブ建築だが、清潔感がある。大きな窓が光を取り入れるので、その中は明るく活気があった。同じブレザーで身を包んだ生徒たちが、ざわざわと賑やかな声を立てながら、次々と黒い縁取りの引き戸に吸い込まれてゆく。燎太郎はパンを買う人の群れをすり抜けて、購買の中頃にある自動販売機で、いちごミルクの紙パックを購入する。ふと、気づくと、健吾は入り口の前でパーカーを被って、じっと待っていた。燎太郎は小走りで健吾の元に戻ると、
「待たせてごめんね」と、声をかけた。
健吾は気づいていないようだった。ぼーっとした様子で下を向いている。燎太郎はびっくりさせてしまうだろうな、と覚悟して、健吾の顔を覗き込むように、「お待たせ」と言った。健吾は予想通り「うわっ」と声を上げて驚いたが、続けて「いいや、かまわないよ」と言った。
「キミがもし、国語を教えるのが苦手だったら、二番目に成績の良いひとに教えてもらう。合理的だろ」
燎太郎は一瞬、きょとんとしてしまったあと、ああ……さっきの、と苦虫を噛み潰したが、ひょっとして彼は、悪口だと理解していないんだろうかと考える。……ああ、そうだな、悪口だ……。だったら、連れ出したのは野暮だったかな、と思ったが。あのまま、教室にいたら、きっともっとエスカレートしただろう。ふと、健吾が口を開く。
「でも、それは杞憂だった、冷泉くんは教えてくれるのがうまいよ」
笑っている。それは、きっと作り笑いではない。燎太郎は少しバツがわるくなり、上履きの先に目線を落とした。
「ありがとう」
俯いたまま、そう答えた。顔を上げることが出来なかった。
すると、健吾がまた大きな声を出す。
「まずいな、この匂い、ペトリコールだ! 傘を持ってきていない。予報は晴れだったはずなのに」
「ああ、確かに『雨が降る前の匂い』するね」
燎太郎はそう答えた。ふたりで、しばし曇り空を見上げる。こうやって誰かと一緒に空を見上げたのはいつぶりだろう。鈍色を纏った雲は、水墨画のようだなと思った。テクスチャがなんとなく、粗い。
「じゃあ、おれの折りたたみで、一緒に送るよ、電車?」
空を見上げたまま、燎太郎はこう続けた。
「いや、電車には乗れない。物理的には乗れるのだが、ぼくに不具合がでる。発汗がひどい、呼吸数も増える。パニックになると吐き気も出てくる」
こともなさげに健吾がこう言うので、燎太郎は目を丸くして聞いているだけだった。
「だから、歩きだ」
「じゃあ、家まで送るよ」
「遠回りだろ、だからキミはなぜそんな、非合理的なことをしようとするんだ」
健吾がギョッとしてこう答えた。燎太郎は微笑むだけだった。
「答えをくれ〜」
健吾がこう言うので、燎太郎は人の少ない場所へ健吾を誘導した。
「ここで、パン食べながらさっきの問題、解いちゃお」
購買から、少し離れたところにあるベンチ。健吾はそこに座るように促され、腰を下ろすと、
「おお」
と、問題集に意識が移ったようだった。ベンチの横ではカエデの並木がサワサワとざわめいている。
問題は、理想気体ついて表したボイル・シャルルの法則の3次元グラフを2次元に書き直す、というものだった。燎太郎はそもそも、その法則を把握していなかった。問題を何回も読み直す。
「この問題文のどこが分からないの?」
燎太郎はそう質問しながら、ハンバーグの挟まったパンをひと口齧る。
「ここだよ、〝適切な方向〟って……適切なってどういうこと?」
健吾はこう答えた。問題文には〝3次元を適切な方向から見た2次元グラフに書き直し〟と書いてある。
健吾はテキストをふたりの体の間に置き、片手でベンチに押さえつけながら、もう片方の手にピーナッツバターサンドを握りしめていた。燎太郎が「食べないの?」と促すと、「おお」と答えながら、健吾もひと口齧る。燎太郎はそれを見届けると、健吾にこう話しかける。
「えっと、ごめんねおれ、まずボイルとシャルルの法則を理解してないんだ、登場人物が多いのに全部ふた文字だから、こんがらがってきて……相関図とか書けばいいのかな」
「……登場人物? それらの法則に人物なんか登場しないだろ、圧力、体積、温度、この三つだ」
健吾がこう言うと、燎太郎はうーんと唸りながらまた、むしゃりとパンを齧る。
「どこから理解していない? ボイルの法則っていうのはだな、温度と物質量が一定の場合、気体の体積は圧力に反比例する。シャルルの法則は圧力と物質量が一定の場合、気体の体積は絶対温度に比例する、ってところは理解しているのか?」
「あーもう、登場人物にわかに増えるじゃん、物質量ってなに、絶対温度ってなにさ、なんで急に〝絶対〟がつくの?」
くしゃりと緑色の髪を掴みながら、燎太郎はジュースをひと口含む。ふと、見ると健吾はまたパンを持ったまま固まっていた。燎太郎は、ひょっとすると彼はマルチタスクができないのかもしれない、と考える。
「とりあえず、先にパンを食べちゃおう。考えるのは後だ」
「おお、そうだな」
健吾は素直にそう答えると、ピーナツサンドの方に向き直り、むしゃむしゃと食べ始めた。あっという間に食べてしまいそうで、心配になった燎太郎は、いつもよりゆっくり食べ進める。早食いは体に悪い。つられて健吾もゆっくり食べてくれないか、と期待した。
そんな心を知ってか知らずか、案の定健吾は、ぺろりと平らげ、続きを催促する顔で燎太郎を見た。
「ちょっと待ってね」
と断りを入れ、燎太郎も急いで食べたが「急がなくていい」と、健吾に声をかけられ、思わず苦笑いをする。ジュースで流し込むようにして、パンを食べ終わると、
「お待たせ、えっと、どこからだっけ」
と、健吾が片手で押さえた問題集を覗き込む。
「キミが、法則を理解していないと言っていた。物質量とは、絶対温度とはなにかと質問していたな。冷泉くんは化学が得意じゃないと言っていたが、確かに問題を解き慣れていないようだね、こいつらは問題を解く上での大前提のようなものだと考えればいい」
ぱちぱちとまばたきをして、きょとんとする燎太郎に、健吾はこう続けた。
「物質量が変わると、当然気体の量も変わる。だからこいつは一定にしないと、理論が破綻する。絶対温度はマイナス値が出ないようにするためだ」
燎太郎は、さらに頭がこんがらがってくるが、こう言う。
「つまり、問題を解くときには、物質量は一定だという〝お約束〟でいればいいってこと?」
「そうだ、お約束だ。そういうものだと考えればいい」
健吾が大きく頷くので、燎太郎はひとまず、そこまでは飲み込んだ。
「えっ、じゃあ温度は? 温度はなんで絶対温度にこう、……クラスチェンジしちゃうの?」
燎太郎は人差し指と親指で、空をつまむように立てると、その位置をくるりと入れ替えた。
「クラスチェンジじゃない。セルシウス温度だと、マイナス値が出るので、計算がややこしくなる。絶対温度は理論上、分子の運動が完全に停止する点、0Kがある。そこをゼロとして基準にしたら比例関係がシンプルな比例式で表せる。つまり、絶対温度を使うことで気体の性質を簡単に計算できるんだよ」
健吾の説明を噛み砕くように、燎太郎は口をぱくぱくさせていると、ハッと何かを思い出したような顔を浮かべた。
「セルシウス温度……そっか、それだ、なんか授業で聞いた記憶が、えっと、273を足すやつ……だっけ」
「そうだ、セルシウス温度を絶対温度に変換するときは273を足せばいい、ただこの問題の場合、セルシウス温度が記載されてるわけではないので、そこは一旦、忘れていいだろう」
問題文を指でなぞりながら、健吾がこう言った。燎太郎は「はあ」と間の抜けた声を出すとこう続けた。
「えっと、それで、問1は2次元グラフへの書き直しと、『ボイルの法則を説明せよ』か、えっとボイルの法則は温度と物質量が一定の場合、気体の体積は……えっと」
「ボイルの法則はつまり、風船をイメージすればいい。風船を握ると、体積が小さくなる。それが圧力をかけて体積が減るっていうことだよ。〝圧力が増え、体積が減る〟反比例だ」
健吾が風船を握りしめるフリをして、こう説明する。
「対して、シャルルの法則は、熱気球だ。気球を熱すると膨らんで空に浮かぶだろ。〝温度が上がると体積も大きくなる〟これが比例だな」
「あっ、その説明、分かりやすいかも……。えっとじゃあ、ボイルは物理攻撃で、シャルルは魔法攻撃ってことでいいのかな」
「なぜそうなる?」
今度は健吾が目を丸くする番だった。ギョッとして燎太郎の答えを乞うように彼の顔を見た。
「えっと、ボイルの場合、力を入れて体積を小さくするだろ。つまり物理攻撃を使う武闘家だ。スライムをぎゅうぎゅう押すと、スライムは小さくなるじゃん?逆に武闘家が力、つまり圧力を弱めると、スライムはその分、大きさが戻るじゃん。シャルルの方は温度を変える……つまり魔法使いが魔法を使ってスライムを膨らませたり、縮ませたりするんだ。火炎系の魔法を使ったらスライムは餅のようにプクっと膨らんで、氷系の魔法を使ったらカチカチに固まって小さくなるじゃない?」
燎太郎は何かを掴み始めたようだった。健吾は戸惑っていたが、
「まあ、キミがそれで分かりやすいなら、その例えでいいのかもな」
と、なんとか甘受したようだった。
「あっ、分かった、これ武闘家と魔法使いの連携プレーの話なんだ。ボイルの法則は、魔法使いが初級火炎魔法しか撃たないんだ。これで、温度は一定。武闘家は、魔法使いがサボる分、頑張って圧力をかけ続けるんだ。んで、シャルルの法則は武闘家つまり、圧力が一定……餅スライムをホールドだけしてる状態だ。この場合、魔法使いが頑張って、魔法の威力を上げていく、温度が変わるってことだね。そしたら、餅スライムは熱せられてぷくっと膨らむんだ、あーなんかクリアになってきたかも」
燎太郎は完全に何かを掴んだようだ。
「そうか……んん? いや、確かに言われてみるとそんな感じかもしれないが……」
今度は健吾が、目をぐるぐるさせて考え込む番だった。
「あ、気にしないで、あくまでおれがこう考えると分かりやすいってだけだから。あっ……そっか! ボイルの法則は武闘家が圧力をかけて、体積を小さくする話だから、3次元グラフから圧力と体積を抜き出して見ればいいってことなの?」
「そうだ、ボイルの法則を3次元グラフから2次元グラフに書き直す場合、圧力と体積を見ればいい、で〝適切な方向〟の適切ってなに?」
「あ、そうか、その部分がわからないんだったよね、つまり、この3次元グラフから圧力と体積を抜き出す方向だけを見ればいいってことじゃない? それが〝適切な方向〟」
燎太郎は、図に書いてある圧力と体積の軸を指でなぞった。
「それが適切なのか? 何をもってして適切と言っているんだ?」
「えっとね、ボイルの法則を説明するのに適切な方向、って言えば分かるかな?」
「なら、最初からそう書けばいい!」
健吾が腕を振り下げこう声を上げるので、燎太郎は空笑いを浮かべながらこう続ける。
「確かに、ちょっと不親切だよね……。あのね、なんでかっていうと、多分それを書いてたら、全体の文章が、ちょっと、こう……もたついちゃうんだ。今度、似たような問題があって、〝適切な方向〟って書いてある場合は〝この法則を説明するのに適切な方向〟って、解釈しちゃっていいと思う」
「そうか、そうなんだ! ありがとう、メモさせてもらうよ」
健吾は得心が行ったような顔をすると、問題集に「適切な方向とは、該当する法則を説明するのに適切な方向とする」と書き込んだ。燎太郎はそれを見てホッとした思いを浮かべながらも、問題集の3次元グラフに目線を落とした。
「ちょっと、問題集借りていい? つまり、えっとこの方向から見るっていうことは……」
そう言いながら、燎太郎は問題集をくるくる回し始めた。
「いや、見たままを書き写したらややこしいだろう、PとVの値で四箇所くらいプロットしてそれを繋げばいい」
燎太郎はいよいよフリーズした。いま食べたパンが、もうさっそく熱になって身体から出ていこうとしているのではないかと思う。
「……あー、……その値が分からないのなら計算すればいい。この問題はT軸を等分割してあるだろう、つまり三つの異なる温度を固定した断面で考えるんだ」
そう言うと健吾は、温度軸の内側に入った三点をシャーペンでトントントンと指すと、そのまま3Dグラフ内の曲線へとツツと滑らせてゆく。
「つまり三本線を引く、高温、中温、低温だ、これは深く考えなくていい、とりあえず覚えれば、理論は後からついてくる、ここまではいいか」
こう健吾に尋ねられると、燎太郎はこくこくと頷いた。
「ボイルの法則はPV=kだ、これはPとVが反比例関係する、その関係を表す式だ。悪いが計算式ばかりは暗記してくれ、説明できなくもないが、覚えた方が早い。Pはプレッシャーで、圧力、Vはボリュームで、体積だ。kはコンスタントのk、定数だ、kは温度が一定の場合、変わらない値になる、だから『定数』なんだ」
燎太郎がメモを持ってくればよかったと、カーディガンのポケットをガサゴソしていると、健吾がノートを一枚、破って燎太郎に渡した。
「ありがとう」
と、燎太郎が言うと、ワイシャツの胸ポケットからボールペンを取り出し、ベンチを机にして健吾の書いた計算式を書き写す。
健吾は解答欄の正方形を十字形に二分割すると、さらにそれを二分割し、四分割合計十六マスのグリッドを書いた。燎太郎はそのグリッドも書き写す。
「解答としては、大体の形でいいんだが。冷泉くんが分かりやすいように、ここに数値を仮置きしよう。あくまで分かりやすいようにだ、後で消す。3次元グラフを見たとことろ、体積は縦軸だ。体積の値を縦に30、60、90、120で刻もう」
縦軸の交点にそうやって数字を書き込む。
「圧力は、0.5、⒈0、1.5、2.0で刻んでいこうか」
今度は横軸に数字を書き込む。健吾の動きを追いかけて、二本のペンの頭がくるくる踊る。
「ここで気をつけて欲しいのは、反比例は0にならない、圧力や体積がゼロになるということは、物理的に存在しない状態を意味するからだ。つまり線を圧力と体積の軸にくっつけちゃダメだ。これは理解してるか?」
健吾にこう訊かれ、燎太郎はまた「うん」と頷いた。
「だから、圧力が2.0で体積が10の時の定数を求めよう、グラフの右端だな」
一番右端の交点と、その上の交点の真ん中あたりを健吾は指差した。
「えっと、PV=kだから、Pは10……。Vは2.0、掛けたら……kは20?」
燎太郎は、健吾がくれた紙にたどたどしく計算式を展開していく。
「そうだ、これで定数が分かったな。ひとまずそこにプロット……点を打っておくといい、体積は10、圧力が2で交わるところだ」
さっき、健吾が指差してくれた所に、燎太郎は点を打つ。見届けると、健吾はさらに続けた。
「次は圧力が1.5の時に体積はどうなるのかを計算していこう、そうすると次に打つ点の場所が分かる」
「えっと、Pが1.5だから、Vは……そっか、Vの値を求めるんだから、ここはそのまま、あっ……ここでさっき求めた定数を使うんだ! すごい、1.5V=20で計算すればいいんだね……あれれ13.333……になっちゃう」
「それはあらかたでいい、あらかたの位置に打てばいい」
燎太郎は健吾の口から「大体の形でいい」やら「あらかたでいい」やら、曖昧なものの代表格とも言える言葉が出てくるのが面白かった。それから同じ手順で点を四つまで打ったら健吾がこう言った。
「問題は、漸近線近くだ。反比例はPとVの軸にくっつかないと言ったよね。0では求められない。だから今度はVが120の場合で圧力の方を求めよう」
健吾はそう言うと、P120=20とノートに記した。燎太郎は計算式を書き写しながらこう言う。
「えっと、体積が120だからその時の圧力だね……20÷120だから……0.1666……。これもあらかたでいいのかな?これで、P120とV0.16あたりが交わる所に点を打てばいいのか」
「そう、それがグラフの左端になる、点を打ち終わったら曲線で結ぶんだ。カクカク結んではダメだ。反比例のグラフが曲線なのもお約束だと思ってくれ、もちろん細かく理論はあるぞ」
慣れた手つきで健吾は曲線を描く。それを見た遼太郎も、自分で打った点をできるだけ滑らかになるように繋いでいく。
「えっ嘘!これで、できたの? おれ、理数系の問題でグラフ描いたの初めてかも」
龍太郎は左手を軽く広げ、自らの顔を覆った。
「感動している場合ではないぞ、それは中温だ。あと、低音と高温も描かなければ」
健吾の冷静な声を聞くと、燎太郎は「あ」と小さく呟くき、手を顔から外した。
「さっき体積が10、圧力が2.0の交わる所に点を置いただろ、それは一番右下のマスのちょうど真ん中、真ん中だから中温、単純明快だろ」
そう言うと、健吾はそのマスをさらに横線で四等分した。燎太郎は、健吾はフリーハンドで綺麗な直線が描けるんだなあ、と感心する。線が引き終わると、視覚的にそれが〝真ん中〟であることがよく解った。健吾は続けて説明する。
「すると、その下の点は低温、体積が5で圧力が2.0。上の点は高温、体積が15で圧力が2.0だ、さっきの要領で、また値を求めていってみて、ちなみにここからスタートしたら反比例曲線が一番美しく描ける」
——美しいって言葉も使うんだ……。
燎太郎は、情報を元に数値を式に当てはめると、さっきと同じように点を打ち、ついに高温、低音、そして中温の三本分、ボイルの法則の反比例曲線を描き上げた。猫の引っ掻き傷のような三本の曲線。
「ぷはっ」
彼は無意識に息を止めていたらしく、一気に肺から空気を吐き出す。燎太郎は今度こそ顔を綻ばせて、頬を上気させる。
「ありがとう、健吾くん! 本当に嬉しい、おれ、高校入ってからガチで、理数のグラフ描いたの初めてかも、ホント」
「いや、こちらも助かったよ。ありがとう。あ、くどいようだが、これがテストの場合は、仮置きした数値と、最後の補助線は消すんだ、問題文にそのような指示はないから。それに、こうやって形を覚えたら、似たような曲線を計算抜きで描けばいい、時間の節約になるぞ」
健吾は照れくさそうに、髪をぽりぽり掻きながら、こう言った。
「えっ? それって目分量でいいの?」
燎太郎は、少しびっくりしてこう質問した。
「目分量って、料理に使う言葉じゃないのか?」
健吾もびっくりして訊き返すと、燎太郎は首を振ってこう答える。
「んーん、辞書では特に、料理用の言葉とは書いてないんだよ」
「そっ、そうなのか? ……そうか、なら、うん、目分量でいい。要は反比例曲線を理解してるかどうかを問う問題だからな、数値を厳密に求める問題じゃないんだ」
そう言うと、健吾は身体の向きを変えて、正面を向いてしまった、遠く、グラウンドを見ている。
「はは、なんかさ、教えるつもりが、教わってしまったね。おれ、せっかくだからこのメモと教科書見ながら、家に帰って、残りの問題も問いてみるよ。あ、でも、この問題集、健吾くんの私物か……」
「なら、残りの問題文も書き移せばいい」
健吾がまた燎太郎の方に向き直り、促すように問題集を突き出した。
「いいの? ほんっとうに、ありがとう、ね、また分からなくなったら訊いていいかな?」
燎太郎は、目を見開き、問題文を書き写すと、心の底から嬉しそうに、こう言った。
「ああ、構わないよ。……その代わり、と……言ったらズルいかもしれないが……その、ぼくも」
「うん、全然大歓迎。健吾くんもどんどん質問に来てね」
にこにこと遼太郎が微笑むと、
「何で、ぼくの言いたいことが分かったんだ? 冷泉くんは本当に名探偵なのか」
ギョッとして健吾はこう尋ねた。遼太郎はまた、小さく笑うだけだった。
「なんで、また答えをくれないんだ〜」
健吾は項垂れた。遼太郎は「まあまあ」といなすと、
「健吾くんて、すっごく化学が得意なんだね」
素直に感心してこう答える。
「まあな、両親には『お前は学者にしかなれない』と言われてるからな。親が言うならぼくには、これしかないんだろ、なら、やるしかない」
健吾は、また前を向くと今度は上履きの先に目線を落とした。目の焦点があっていないようだ。口をへの字にして、なんというか、少しの諦念を感じる。湿った風がふたりの間を通り抜けた。ペトリコールを乗せて。
「……じゃあ、健吾くん自身は、他にやりたいことがあるの?」
遼太郎がこう尋ねると「いやあ……」と、苦笑いを浮かべ、健吾が言葉を濁す番だった。
すると、にわかに健吾が、
「あっ!」
と、大きな声を出した。今度、燎太郎は完全に油断し切っていたので、大きく身体が跳ねた。
「冷泉くん!キミがあまりにも自然に話に出すものだから、最初は気付かなかったけど、キミは、魔法使いだの、武闘家だの、ロールプレイングゲームをやるのかい?」
すっかり興奮している。燎太郎は、きっと健吾も好きなんだろうと察し、少し、嬉しくなる。
「うん、両親ともに筋金入りのゲーマーでね、レトロゲーから何から、いろんな世代のゲームがあるよ。やることがなくなって暇だから、ハマッちゃって」
「なら、化学を勉強すればいい、と言いたいところだが、レトロゲームはいいよな、特にドット絵! あれは芸術だ」
それを聞くと、燎太郎はパッと顔を明るくした。
「分かる! 九十年代のRPGのドット絵とか、もうロストテクノロジーって言われてるよね」
ここまで盛り上がったところで、予鈴がなった。ふたりは慌てて荷物を纏めると、渡り廊下を抜け、校舎に滑り込んだ。
ポツ……ポツと、水滴が窓を叩く音が聞こえ始めた。
「匂いがゲオスミンに変わったな。放課後にはやめばいいが……」
健吾が呟く声を、燎太郎は遠い声のように感じた。祖父母の家で、うとうとしながら聞くテレビの音みたいだと、そう思った。
放課後になると、雨はすっかり上がり、教室から見える植え込みの緑の葉っぱに、水晶のような雨粒をくっつけていた。その植え込みの土が雨水を吸って、むせ返るような匂いが立ち上る。燎太郎は健吾なら、これをなんの匂いだと言うのだろうか、と考えていると、その健吾が声をかけてきた。
「冷泉くん! 雨が上がったから送りは不要だ、心配をかけたね、じゃあ、また明日!」
そう言うと、健吾は足早に教室から出て行った。きっと、彼なりの気遣いだ、遠回りをさせてしまうのが、純粋に申し訳ないのだろう。ペタペタと足音がどんどん小さくなっていく。
でも、遼太郎は——残念だな——と、思ってしまった。
家からの最寄駅で降りると、燎太郎は駅のコンビニでおやつを買う。夕飯までに小腹が空くから。両親は帰りが遅いことが多い。気が向けば、夕飯の下拵えをして彼らを待つが、父も母も「燎太郎が、ご飯の用意をする必要はない」と言ってくれている。
そんな時は、燎太郎は決まって「おれがやりたくてやってるから」と、答えた。実際に彼は料理をすることが好きだった。手を動かしているとモヤモヤとした心も晴れる気がするから。
コンビニをぐるりと回り、カツサンドを手に取ると、ホットスナックコーナーからフライドチキンを買った。油がつかないように気をつけながらマイバッグに入れると、変わり映えのない景色を歩く。駅前の繁華街には、飲み屋やラーメン屋などが建ち並ぶ。赤い提灯や看板が、学校の最寄り駅に比べてカラフルな印象を与える。緑の幌を張った弁当のお店で右に曲がると、ゆっくりと住宅街の景色に変わってゆく。訴求するような原色に近い色はここで姿をひそめる、代わりに目に入る黒いガードフェンスは五線譜のようだ。それを横目に片側一車線横の歩道を、十五分くらい歩くと喧騒はすっかり消える。裏道に入るとほぼ住居しか見えなくなり、白を基調にした我が家が目に入る。——この家も四角形だ。
燎太郎は指紋認証で門を開けると、さっと庭に潜り込む。そんなに広くはないが、芝とウッドデッキが張ってあり、いずれも庭師によって丁寧に手入れされていた。玄関を開けると、チャカチャカと足音を立てながら、ゴールドの毛色をした大きな犬が燎太郎の元に駆け寄ってくる。
「ただいま、エスカミーリョ。大人しくしてた?」
燎太郎がそのゴールデンレトリバーに声をかけると、彼は「ウォン」と元気よく返事をした。燎太郎は、人間のおやつを持っていることを思い出し、エスカミーリョにおすわりと、マテをさせると、素早くキッチンに入り、冷蔵庫にコンビニでの買い物を仕舞った。
燎太郎はエスカミーリョの元に戻ると、「よし、いい子いい子」と声をかけた、すると、金色の彼は燎太郎に擦り寄る。しばらく撫でると、燎太郎はコロナ禍のなごりで、シャワーを浴びた。
シャワーから上がり、自分の部屋に入ると、愛犬もついてきたので一緒に入れた。
ベッドに寄りかかるように座ると、壁紙をじっと見つめた。真っ赤な壁紙。小さい頃に張り替えてもらった。燎太郎は、笑い声を漏らすと、「落ち着かないよな、赤なんて」と冗談じみて独りごちた。エスカミーリョの柔らかい毛を撫でていると、うつらうつら、としてくる。ローテーブルの上、目の前で広げていたタロットカードをひとまとめにすると、顔を膝にうずめた。
中学一年生の頃、文化祭の出し物として、同じクラスの女子有志で〝戦う女性たち〟をテーマに、紙粘土製のフィギュアを展示することになった。
それには、神話からはアテナ、スカアハ。歴史からはジャンヌ・ダルクや巴御前。文学からは不思議の国のアリス。レ・ミゼラブルからエポニーヌ、更にはミュージカルからも、多岐に渡ったキャラクターが集まった。
みんな、既存のデザインは使わず、女生徒たち自身が思い描く姿をそのまま、デザインに起こした。学校内の口コミでこの企画が好評を呼び、他のクラスからも希望者が参加する形になった。
燎太郎は、空想の中で——カルメンを作った。想像の中で指先を動かし、粘土をこね。それは赤と黒のバイカラーのファルダを着て、カスタネットと、ファルダと同じ色のカーネーションを持っていた。薔薇というイメージも根強いが、燎太郎はスペインの国花と同じ、カーネーションをイメージしていた。目線はまっすぐ前を見て、やはり挑発的で怪しげな笑顔を浮かべていた。
燎太郎は、続々と集まってくる力作の邪魔にならないような隅っこに、頭の中でそっとカルメンを置いた。自己満足なのは分かっていた。
文化祭も前日になり、作品は勢揃いし、教室後方の特設ステージに飾られた。女生徒たちはそれを見届けると満足そうに下校した。
すると、男子生徒が、〝戦う女性たち〟の展示をチラチラ見ながらヒソヒソと、輪になって話し始めた。燎太郎は何か、嫌な気配を感じ、ひとり机に座り遠目に見張っていた。次第にヒソヒソ話はゲラゲラとした笑い声に変わった。
その頃になると、男子生徒たちは、燎太郎にも話を振るようになったが、彼は笑って適当に受け流した。やにわに、男子生徒のひとりが、大きな怪獣のフィギュアを取り出した。既製品である。
燎太郎は、これをどこに隠し持っていたのか、とギョッとした。
この頃の空気は、もはや熱狂を孕み、誰からともなく、女性たちのフィギュアの横に、ドン、と、怪獣フィギュアを置き、彼女たちがそれに怯えているように見える配置に変えた。燎太郎は、頭がガンガン痛み、吐き気で動けない。ついに誰かが、黒板に「女がどんなに戦おうと怪獣一匹でイチコロ」と書き加えた。燎太郎は全身から血の気が引いていくのを感じた。
それから、男子生徒たちは何やらしばらく盛り上がっていたが、やっと——本当にやっと、帰る気配を見せた。燎太郎は、具合が悪いからしばらく休ませてくれと、教室に残ることにした。実際に、顔が真っ青になっていたので疑うものがいなかったのが幸いだった。
燎太郎は、教室や廊下に人がいないことを、慎重に確認したら、怪獣のフィギュアをそっと取り除き、覚えている限り、女性たちを元通りの配置に戻した。もちろん、黒板の文字も消した。チョークの粉っぽさでまた吐きそうになる。
燎太郎は、四角い建物を縫うように走り抜けたら、怪獣フィギュアの持ち主の家でインターホンを押した。幸いにも、家族ではなく本人が出た。
スポーツバッグ(体操服を入れるバッグ)に入れた、例のフィギュアをそっと取り出すと、
「人が傷つくことをやっちゃダメだよ」
と、出来るだけ柔らかく声を出すように努め、こう言った。男子生徒は顔を顰めて、ひったくるようにフィギュアをつかむと、何も言わずに家の中に入って行った。ドアを閉める音が大きく響く。
次の日、燎太郎が学校に行き、文化祭が始まると〝戦う女性たち〟の展示は何事もなく開催されていて胸を撫で下ろす。
すると、ぼーっと突っ立ていた燎太郎はいきなり首元を掴まれた。そしてそのままあっという間に、人気のない場所に連れ込まれてしまった。
男子生徒たちは数人で燎太郎を取り囲み、眉間に皺を寄せ睨みつけていた。そのギラギラした目は、皮肉なことに、昨日、熱狂の最中にいた時と同じ色だった。
「どうして、せっかく女子のリアクションが見れると思ったのに、余計なことをしたんだ」「パニックで泣くヤツもいたかもしれないのに」「お前、男のくせに、女子が嫌がるとことか、泣くとことか、見たくないのかよ?」
——すべて、日本語のはずなのに、何を言っているか分からなかった。
頭の中に、カスタネットの音がガンガン響く。
言うだけ言ったらスッキリしたのかどうかは知らないが、暴力を振るわれなかったのは不幸中の幸いだった。——いや、幸いだろうか——。燎太郎はこの日から孤独を選ぶことにした。
教室に戻ると、お客さんと、戦う女性の企画参加者の間で、意見交換が盛り上がり、充実していたのが本当に幸いだった。
燎太郎はこの頃にはもう、自分がカルメンを演じることを諦めたのか、まだ諦めてなかったのか、思い出せなかった。
エスカミーリョの、クンクン言う声で目が覚める。燎太郎は、笑顔を浮かべ彼の顔を両手で包もうとするけど、涙が流れそうになって、背筋が凍る。
遼太郎は、両手で自分の体を包み、必死に涙を止めた。




