第3章*「注文の多い料理店」その6 完
「てめえら……!」
男は懐に手を突っ込み、何やら小さな光るものを出した。
政治郎は、それが折り畳み式のナイフだとわかり、とっさに目の前のテーブルを足で勢い良くひっくり返した。
男は地面に腰をつけて倒れたが、すぐさま立ち上がるとこちらに大声を上げ飛びかかってきた。
刃が剥き出しになったナイフが両手で握られている。
色はとっさにその男を体ごと受け止めた。
政治郎が加勢しようと体を向けた刹那、色は声にならない声を上げ男を後ろに投げ飛ばしたのだ。
狭い部屋の中である。壁にぶち当たった男は顔面に非常な衝撃を受け、床に大きな音を立てて落下した。
色の痩躯からは想像も出来ない所行に、政治郎は目を見張ったのは言うまでもない。それに気が付いた色は政治郎の顔を見て言った。
「……全国をまわるものですから、護身術は多少心得があるのです」
すると、普段通りの温和そうな表情に戻った。
床に伸びた男が、うにゃうにゃと何やら呻いているのが聞こえる。政治郎は急いで男の背中に乗り両腕を抑えた。
そのとき、激しく扉が開いたかと思うと怒濤のごとく大勢の人間が入ってきた。
音無警部とサーベルを携えた警官隊である。
伸びている男を見ると音無は「遅くなって申し訳ない!」と、二人に頭を下げたのだった。
店の外に、ふらふらと千鳥足になった男が引っ張り出されて行く。
「お二人共、ご無事でございますか……!」
桜子がパタパタとかけてきた。
「まあ……お怪我が」
色の右手の親指と一差し指の間から一筋血が流れている。
それを見た桜子は、袂からハンカチを出すと色の手にぐるりと巻いた。
「大変、申し訳有りません……」
桜子が深く頭を下げた。
「貴女のためなら、どんな協力も惜しみませんよ」
そう言って色は笑顔を見せた。それはそれは優しげな面持ちだった。
桜子が手当出来るものはないか、音無のところへ聞きに行くと言いその場を離れていく。
そのとき。
政治郎の横を通った桜子から、覚えのある甘い香りがほのかに香ったような気がした。
「おかげさまで行方知れずの田岡も見つかり、桜子さんには何とお礼を言っていいのか」
色は、桜子の後ろ姿を目で追いながら独り言のように言った。
田岡久志は別の所で監禁されているということが、男の証言からわかったのだ。
『くれない 前後』
これは、この店で食事の『前』と『後』に市民には非常に高価な『紅茶』を注文することが、アヘン取引への合図だということだ。
男も言っていたが、アヘンは香辛料や茶葉などと一緒に日本へ持ち込んでいたという。
アヘンは、店中に飾られた面や木彫りの人形などの中に隠して運ばれたのだ。椿が店を訪れた際、それらの品物に小さな穴が開けられていたことで疑いを持ったのである。
田岡本人はというと、賞与もあってたまたま懐具合も良く、自身が英国文化に大変関心があるということが重なり、思いも寄らない事件に巻き込まれてしまった。
店としても、間違いであっても内情を知られてはよろしくない。しかし、殺しをするのはあまりに危険を伴い部が悪い。
おかげで、行方不明人を生きて取り返すことが出来たというわけだ。
政治郎は色の顔をじっと見た。
それに気が付いた色は、桜子のハンカチに巻かれた手にそっと片手を当てる。
「倉田さん、どうかしましたか」
色は至って変わらぬ様子だ。
「あ……いえ」
今回の件で桜子に対する色への振る舞いに、政治郎は多少の違和感を覚えたのだ。
親類、恩人……またそれとは異なるような。
色は政治郎の心のうちを見透かすように視線を合わせた後、雲から抜けたばかりの月に目をやった。
「僕は、桜子さんの元婚約者なのですよ」
色はそう言ったまま、月から目を離さなかった。
第3章 完




