第2章*「山月記」その2
「それはもう!恐ろしくて!」
一人目に話を聞いたのは、薬屋を生業にしている年配の男だった。
帰路の途中、蔵前を通りかかったところで虎を見たという。
「浅草に遊山の帰りです。多少引っかけて来たもんですから、ほんの少しほろ酔いでした。するとガス灯で照らされた建物の角から、あたしをじっと見ているもんがいたんです。不審に思い、目を凝らしてみると…爛々と目を輝やかした獣が!酒が入っていなけりゃ、あたしは恐怖で卒倒していましたよ!いくら酔っていたとは言え、見間違えたわけじゃありません!あれは血に飢えた虎でした!」
男は力の限り走り、その場を離れたというのである。
次に話を聞いたのは、女中通いの邸宅からの帰り、馬喰町で虎に遭遇したという初老の女だった。
「はい、確かにこの目で見ましたよ。酒を飲んでいたかって?とんでもない!あたしゃ下戸ですからね。何より奉公先からの帰りですから、決して飲むはずがございませんよ。夜道を急いでいるとき、誰もいないはずの背後から物音が響いたんです。カツ、カツッと地面に何かが当たったような。それで驚いて振り返ったら、見事な牙をちらつかせた大きな虎がいたんでございますよ。もう、驚嘆しまして…その場に腰を抜かしてしまいました」
混乱の末、気が付くと虎の姿は見えなくなったという。
「先ほどの二人の他に目撃した市民は多数おりますが、だいたい同じような話だったようです。ただ、距離が離れていたとの理由で夢かうつつかわからないようですね」
政治郎は手帳を見ながら言った。
「その方々は、連れは多かったのでしょうか?」
「いえ、そのような報告は受けておりませんね。どの件も一人だったとのことです」
「ところで政治郎様、警察の警邏の時間はご存知でしょうか?」
「時間ですか?把握しております。当初虎が出没したとされる20時と23時ですね」
政治郎は壁にかかった掛け時計に目をやった。
「承知いたしました。では、それ以外の時間に今夜わたくし達も行ってみましょう」
「わかりました。相手は猛獣です。夜までに何か、武器になるものを用意いたします」
「いえ。不要かと思われます。そうですね、ご用意いただくのは縄くらいでよろしいかと」
「それだけですか?」
「ええ」
桜子は笑みを浮かべた。
猛獣の虎と対峙するのに縄のみとは多少疑問に感じたが、彼女が言うのだから間違いないだろうと安堵の気持ちを抱いた。
夏の日は高い。
二人は完全に日が落ちてから、かつ警察の警邏時間以外に足を運ぶことになった。
蔵前。時刻は午後21時頃。
商店の灯りも消え、街は閑散としていた。
月明かりを頼りにしたいところだが雲がかかり気味のため、点々と照らされたガス灯の明かりだけである。
「政治郎様」
桜子は顔を上げた。
「ぜひ、わたくしから少し離れて歩いてくださいまし。ですが、目は離さず」
「え、あ、はい。承知しました」
桜子はゆっくりと闇夜の街を歩き出す。彼女の下駄の音が響いた。
ガス灯が当たらない箇所は大変暗い。政治郎は言われた通り、少し距離を開けてその後をついて行く。靴音が鳴らないようにしたのは、自然なことだった。
しばらく経った頃だ。
下駄の音が止まった。
「まあっ!」
桜子の叫び声が上がった。
そこには目を疑う光景が。
桜子から多少距離がある所…建物の角から虎が半身を覗かせていたのだ。
政治郎は走り出した。手には縄が握られている。
しかし、政治郎の靴音が暗闇に響いた途端、それはすっと引っ込んでしまった。
ガッ!!
外壁に何かが激突したのか、闇夜に大きな音が鳴り響いた。
政治郎は息せき切って角を曲がったが、そこに虎の姿はない。
呼吸が整わないまま、静まり帰った辺りを見渡した。
ガス灯に照らされたレンガの壁に何かを擦ったような跡を見つけた。ついで、その真下に落ちている物体に目がいく。
「布切れ?」
それは、掌くらいの大きさの薄汚れたボロ布であった。
「素材は…天竺木綿ですわね」
政治郎に追いついた桜子が顔を覗かせる。
天竺木綿とは明治維新頃、インドから輸入された綿織物であるため「天竺」という。通常の生地よりも厚めでシャツなどには使われることはない。
桜子が落ち着いている所を見ると、先ほどの悲鳴は政治郎への合図だったのだろう。
政治郎は自身の手中にある布切れをじっと見た。
赤茶っぽい汚れが付いている。
「桜子殿、これは何の汚れでしょう?」
桜子は受け取ると眼鏡を外し、それをじっと見た。
「土…ではないかしら」
明かりに照らされ、色が鮮明に見える。その布切れは淡褐色だった。
布の端の一端に何か模様が施されている。見える範囲はわずかではあるが黒地のウロコが横に繋がったような形であった。
***
次の日の午後。
「お呼びだてしまして、申し訳ありません」
桜子は政治郎へ丁寧に頭を下げた。
「とんでもありません!あの布切れのことで進展があったとのことですが」
桜子は「ふふふ」と微笑する。
「ご一緒いただければ、よろしいかと存じます」




