viajero ― 旅人 ―
早朝、日課の投げ網漁を終えて灯台へ戻ろうとした私を、漁師が呼び止めた。彼の家に寄って行けと言う。
初めてのことだったので戸惑いながらも、小さく曲がった後姿に付き従う。
漁師の自宅は広場の外れに位置していた。彼の佇まいに相応しく慎ましい作りで、居住空間にも磯の香りが漂っている。
壁一面が作り付けの工具棚になっていて、漁で使う細々とした道具や投げ網の修理に使う網針や目板が、乱雑にぶら下がっていた。
中に入れとも言われないまま、玄関先で待たされる。漁師は引き出しからゴムバンドで束ねた紙束を取り出して、私の胸先にそれを押し付けた。
「いきなりなんだよ、爺さん」
「今日までのお前の取り分だ。取っておけ」
「こんなに? 多過ぎるだろ」
「どうせ儂にはもう必要ない」とボソボソ言いながら、ジャケットのポケットに無理矢理ねじ込まれた。
その目尻に光る物が見えた気がして、オレはぎこちなく謝礼の言葉を伝えると早々に漁師の家を立ち去った。
通い慣れたはずの石段が、今朝は妙に余所余所しく感じられる。
――――――
灯台への帰路、丘の上に見慣れたシルエットがあった。
今朝は髪を束ねていないらしい。長い黒髪が海風になぶられて、好き放題に踊っている。
私の姿を認めると、さっと踵を返して細道を降りていく。
黙って付き従うことにした私を、ガブリエラは拒まなかった。
斜面の中程で不意にしゃがみ込んだかと思うと、路傍に咲く名も知れぬ花を手折り始める。彼女は茎を使ってそれを器用に縛り、小さな花束を作った。
下方に教会と民家を望む、斜面の一角。
余所者の私にとっては、初めて足を踏み入れる場所。
石垣で囲われ、十字を象った灰色の石が雑然と並ぶ。百基近くあるだろうか。そのうちのいくつかは十字架の背面に円環を背負ったケルト十字架だった。
対岸に英国を望むこの地の人々は、かつてここに暮らしたケルト民族の血を色濃く受け継いでいる。
風化した墓石の間を縫うように進む。途中、半壊したバラックの横を通った。墓地の利用者が共用の物置にでもしているのだろう。
開け放たれた扉の隙間から、放置された小さな棺桶が転がっているのが見えた。
虚しい空想に捕らわれそうになって、慌てて視線を引き剥がす。
――――――
まだ新しい墓石の前に膝を付いている彼女。その後ろに立つ。
「ここに眠るのは誰?」
「私の婚約者よ。漁師だったの」
それ以上の言葉はなかった。
だから、ただ眼を閉じて佇むことにする。
斜面を吹き上げる風が、聖句を刻む彼女の声を私の耳に届ける。それはこのまま風に乗って、天上へと召されていくのか。それとも、道半ばで海へと垂れて、波の泡沫に溶け込むのか。
いつまでそうしていただろう。
目を開いた私の正面に、彼女がいた。
細かく波打つ黒髪に覆われた小さな頭蓋骨を見下ろす。
彼女の左手が私のポケットの中の煙草を探った。てっきり自分で吸うのかと思ったら、抜き出した一本が私の唇に押し込まれる。
仕方なく火を付けると、浅黒い指が伸びてきてそれを奪っていった。背を折る彼女。笑っているのだと気付いて、私も唇を歪める。
右手が不意に伸びてきて、私の頬を打った。
パシン。
もう一度。パシンッ。
たまらず、その手を捕らえた。
鳶色の眼差しに見えた感情に怯んだ瞬間、うなじに掌の感触。下方へぐいと引き寄せられる。
唇に、乾いた感触が押し当てられた。
紫煙が舌に絡む。
波が崖下で数回砕けて、離れていった。
彼女の表情は、曇天と黒髪の陰に隠れて窺えない。
「祖父は夕方まで留守よ。街に用事があるって」
「そう」
「あのスープ作ったわ。持って行くから、お昼に食べましょう」
――――――
翌朝、教会前の広場に立つ。
見送りは灯台守の老人だけだった。
こんな場所にポツンと佇んでいる私と彼は、どんな関係に見えるのだろう。ふと想像して、口角が上がった。
そのまま、老人に話しかける。
「爺さん、世話になった」
「あぁ、そうだな」
「最後くらい、寂しそうな顔してくれても良いんじゃないのか」
「行く場所の当てはあるのか、宿無し」
この漁村からさほど離れていない、とある町の名前を告げる。ここよりはいくらか人口も多いだろうが、それでもせいぜい数百人といったところ。
辺境であることに変りはない。
思えばずっと、そこにたどり着くのを避けてきた。
だが、もういいだろう。
「そこに何がある」
「妻の墓が」
「……早く行ってやれ、chino」
岬の向こうにバスが見えた。真っ白に塗られた車体。妙に低い位置についたヘッドライトと、フロントピラーから両側に垂れたサイドミラーが犬を連想させる。
地方の都市間バスとしては奇抜なデザインに映ったが、目的地まで運んでくれるなら何でも良い。
広場の中央、枯れた噴水で戯れていた小鳥が数羽、逃げて行った。白銀と濃紺に染め分けられた細身の躯体。菱形の尾翼がタキシードを連想させる。
「なぁ、爺さん。あの鳥の名前、知ってるか」
「知らん。鳥は鳥だろう。それ以上でも、それ以下でもない」
最後まで、取り付く島もない。
差し出された右手が、乾いた皺の感触を私の手に残す。それだけで良かった。
運転手に行き先を告げて、料金を支払う。まばらな乗客から注がれる奇異の眼差しを受け流して、一人席に座る。
しばらく誰とも話したくなかった。
無造作に繋がれるクラッチ。車体がゆるゆると滑り始める。低速で流れる風景。ディーゼル特有の低いエンジン音にかき消されて、波の音はもう聞こえない。
この数ヶ月ですっかり見慣れた景色に、つい視線が誘われてしまう。
丘の上、潮風に舞う黒髪が見えた気がした。
(了)




