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三章 静かな力強さ。「ローズマリー」

残り――――二十九日


十月十六日、午後。

東京メトロ霞ヶ関駅の階段を上り、地上に出ると、そこは官庁街特有の無機質で整然とした空気に包まれていた。

道を行き交う人々は皆一様にダークスーツに身を包み、それぞれの目的意識に従って規則正しく歩幅を刻んでいる。

彼らの顔に、これから人の命や罪が裁かれる場所へ向かうというような感傷は見当たらない。

ここは、法律という名の巨大なアルゴリズムが、社会のバグを機械的に処理していくための巨大な工場のようなものだ。


僕たち三人は、その巨大な施設の一つ東京地方裁判所の前に立っていた。

日本の司法制度において、最も多くの民事および刑事事件が処理される、冷たいコンクリートの巨大建築。

正面玄関を抜けると、空港のような厳重な手荷物検査と金属探知機のゲートが待ち構えている。

僕と葵は一般の傍聴人として荷物をトレイに乗せ、無言でゲートをくぐった。

当然だが、半透明の姿をした北山紅葉は、警備員の目には映らないし、金属探知機に引っかかることもない。

彼女はゲートの横をすり抜け、どこか落ち着かない様子で僕たちを待っていた。


エレベーターに乗り込み、目的の法廷がある階へと向かう。

「本当に、お母さんに会えるんですよね」

エレベーターの隅で、紅葉が不安そうに葵を見上げて聞いた。

「ええ、間違いないわ。今日、この場所で、お母さんの裁判が行われるから」

葵が優しく頷く。

「裁判って……お母さん、どうなっちゃうんでしょうか」

「それは、裁判官が決めることよ。私たちはただ、あなたがやり残したことを果たすために、ここにいるの」

残酷な事実を直接伝えない葵の配慮は、死神というよりはソーシャルワーカーのそれに近かった。僕なら「殺人および死体遺棄の罪で実刑判決を受ける確率が極めて高い」と事実だけを述べていただろう。

だが、ここで彼女を絶望させることに合理的な意味はない。


指定された法廷の扉を開けると、そこは木目を基調とした厳粛な空間だった。

傍聴席にはすでに数人の一般人や、メモ帳を手にした司法記者のような人間が座っている。

僕たちは後方の空いている席に並んで座った。僕の右側に葵、左側に紅葉が座る。他の傍聴人から見れば、僕と葵の間には不自然な一人分の空間が空いているように見えるはずだが、誰も気にとめる様子はない。

正面の一段高い場所に裁判官が座る法壇があり、手前右側に検察官、左側に弁護人が座る席が配置されている。中央には証言台。やがて、開廷の時刻が迫り、法廷内にピリッとした緊張感が漂い始めた。


「それでは、開廷いたします」

黒い法服に身を包んだ裁判官が三名、法壇に現れた。中央に座る裁判長が、冷徹で事務的な声を響かせる。

傍聴人を含む法廷内の全員が起立し、一礼する。今日開かれているのは、これまでの審理を終え、最終的な判断を下す「判決公判」だ。


廷吏に促され、被告人用の扉から手錠と腰縄をつけられた一人の女が入廷してきた。

証言台の前に立ったその女は、ひどく痩せこけていた。髪は乱れ、肌はかさつき、焦点の定まらない虚ろな目をしている。とても一人の人間の命を意図的に奪った凶悪犯には見えない。ただの、どこにでもいる疲れ切った中年女性だ。

しかし、僕の隣に座る紅葉は、その女を見た瞬間、確かに「お母さん」と小さく呟き、半透明の身体を震わせた。


「これより、判決を言い渡します。被告人は証言台の前へ」

裁判長の指示を受け、母親がゆっくりと前に進み出る。法廷内が水を打ったように静まり返る。傍聴席の誰もが、あるいは紅葉さえも、息を呑んでその瞬間を待っていた。

「主文。被告人を懲役十年の刑に処す」

重い静寂の中、裁判官が刑期を言い渡した。

懲役十年。人を一人殺した罪の対価としては、これが妥当なのかどうか、僕には分からない。

しかし、少なくとも彼女は今後十年間、社会から隔離されることが確定した。

母親は、その宣告を聞いても表情一つ変えず、ただ虚空を見つめている。

続いて、その量刑に至った客観的な事実と証拠の評価、すなわち「判決理由」の読み上げが始まった。

「被告人は先月中旬、被害者である実の娘、北山紅葉さんを自宅から約百八十キロメートル離れた桜ノ山へ車で連れ出し、深夜の山中に置き去りにしました。途中のサービスエリア等の防犯カメラ映像や、スマートフォンの位置情報履歴からも、その事実は明白です。結果、被害者は重度の栄養失調と衰弱により、保護されたのち病院で死亡に至りました」

検察側がこれまでの公判で提示してきたであろう事実関係が、裁判官の口から冷淡なトーンで語られていく。

「また、これまでの公判において被告人は、被害者の身体にあった無数の傷を『学校でついたものだ』『ただのしつけだった』などと不合理な弁解に終始しました。

さらには『娘が、私を殺そうと企む元夫に味方したからだ』という、客観的証拠に反する被害妄想に基づく責任転嫁を繰り返し、実の娘を死に至らしめたことへの真摯な反省は見られません」

裁判官がそこまで読み上げた瞬間だった。

それまで無表情で俯いていた母親が、突然顔をバッと上げ、法廷に響き渡る甲高い声で叫び出したのだ。

「違います! 私は悪くないのよ! 全部あの子が悪いのよ! なんで私を裏切ったあの子じゃなく、私がこんな目に合わなくちゃいけないのよ!」

「被告人、不規則発言はやめなさい」

裁判長が厳しく制止するが、彼女のヒステリックな叫びは止まらない。

「あの男は保険金目当てで私を殺そうとしていたのよ! なのにあの子は……あいつにすり寄って……!」

慌てて弁護人が母親をなだめようと肩を掴むが、母親はそれを振り払うように身をよじる。

これまでの公判で、弁護側はおそらく、彼女の重度の精神疾患と被害妄想を理由に、心神耗弱による寛大な処分を主張していたのだろう。

しかし裁判所は、完全な責任能力を認めつつも、その精神状態を一部考慮しての懲役十年という判決を下した。それが彼女には納得できないのだ。

証言台で泣き崩れながら、自分の罪をすべて死んだ娘のせいだと喚き散らす母親の姿は、あまりにも身勝手で醜悪だった。


「……これでもまだ、母親に会いたいか?」

僕は隣に座る半透明の少女に問いかけた。

自分を殺したことを反省するどころか、すべてお前のせいだと大勢の人間がいる法廷で喚き散らす狂気。こんなものを目の当たりにして、それでもなお愛情を抱き続けることなど、論理的にあり得ない。

人間はメリットのない対象から離れるようにプログラムされているはずだ。


「会いたい。会って、どうしても伝えたいことがあるんです」

「でも紅葉ちゃんの姿はもちろん、声も相手には聞こえないんだよ。それに、彼女は君の存在そのものを否定している。それでも……」

それ以上は聞かなくても分かった。彼女の目は本気だった。本気で母親に会いたいのだ。

僕にはどうしても分からない。あんな酷い言葉を投げつけられ、命まで奪われたというのに、なお会いたいだなんて。

もしかしたら、僕も過去の記憶を失っていなければ、両親と過ごした温かい記憶のデータが脳内に残っていれば、こんな風に理屈を超えた感情を持つことができたのだろうか。胸の傷が、奥底から鈍く疼いた。まるで、失われた感情の欠片が、紅葉の思いに共鳴して泣いているかのように。


「これにて閉廷いたします」

裁判長の言葉とともに、廷吏が母親の両腕を掴む。傍聴人たちが次々と席を立ち、法廷を後にし始めた。


「ほら、紅葉ちゃん。お母さんに会うなら、今しかないよ」

葵が静かに促す。

「はい。それでは行ってきます」

紅葉は僕たちに深くお辞儀をすると、手錠をかけられ、警務官に連行されようとしている母親の元へと駆け寄った。彼女の背中を見送りながら、僕はどうしてか、その小さな背中をどこかで見たことがあるような、奇妙な既視感に囚われていた。失くしたはずの記憶の断片が、一瞬だけ脳裏を掠める。


「お母さん。私だよ、紅葉だよ。お母さんには見えていないと思うけど、私はここにいるんだよ」

紅葉は母親の正面に立ち、両手を胸の前で組んで語りかけ始めた。もちろん、母親の目には何も映っていないし、声も届いていない。母親はただ、ブツブツと誰かに対する恨み言をこぼしているだけだ。


「本当はお母さんのこと、山に捨てられた時、とても恨んでいた。痛かったし、寒かったし、すごく苦しかったから。でも……今のお母さんを見ていると、どうしてかそんな気にはなれなかった。やっぱり私は、お母さんのことが大好きなのかな」

紅葉の言葉には、嘘や偽りは一切なかった。ただ純粋な、狂気すら孕んだ愛情の吐露だった。


「どんなにひどいことを言われても、どんなに叩かれても、誰もいない山に置いていかれても、私はお母さんの娘だから。大好きだから。お母さんが怒るのも無理はないんだよね、だって、私がお母さんの言うことを聞けない、悪い子だったから」

自己犠牲とも呼べる、あまりにも純粋な愛情。自分が悪いと思い込むことで、母親を正当化しようとする防衛機制。


「でも、これだけは言っておきたいの。あの日、私がお父さんに会いに行ったのは、お母さんを裏切ったからじゃないの。来月のお母さんの誕生日、どうやって一緒にお祝いしようか、お父さんに相談して、プレゼントを一緒に選んでもらうためだったんだ。だから、私はお母さんを裏切ったわけじゃないんだよ」

法廷の空気が、微かに揺らいだような気がした。光の屈折率が変わり、部屋の温度がわずかに下がったような錯覚。


「生きている時も死んでいる時も、これからも、私が大好きなのはやっぱりお母さんだから。最後に一つだけ。こんな私を生んでくれて、育ててくれて……ありがとうございました」

紅葉ちゃんは精一杯、母親に向けて頭を下げた。どんな虐待を受けようとも、彼女にとってはどこまでいっても母親は母親なのだと、僕は客観的な事実として認めざるを得なかった。人間の感情というものは、時に物理法則や論理的思考を完全に凌駕する。


「……どうかしましたか?」

不意に、被告人を連行しようとしていた警務官が声をかけた。

見えているはずもない。聞こえているはずもない。

なのになぜか、手錠をかけられた母親が急に足を止め、その目から大粒の涙が次々と溢れ出していたのだ。

「あ……ああ……」

もしかしたら、届いたのかもしれない。死という物理的な断絶よりも強い、彼女の思いという情報が、量子的な揺らぎか何かを介して、母親の脳裏に直接干渉したのだ。それ以外に、論理的な説明がつかない。


母親は崩れ落ちるようにその場に座り込み、ずっと、ずっと、誰もいない虚空に向かって繰り返し謝り始めた。

「ごめんね……ごめんね……。もう一度やり直せるなら……。もう一度、あなたがチャンスをくれるなら……紅葉……!」

自分の妄想と狂気で娘を殺した女の、遅すぎる後悔。紅葉ちゃんが法廷から僕たちの元へ戻ってきた後も、母親の慟哭は無機質な法廷内に響き渡っていた。


「やり残したことはないですか?」

葵が優しく問いかける。

「はい。もう十分です。最後にお母さんの顔が見られてよかった。こんなに良くしてもらい、ありがとうございました」

「いえ、これが私たちの仕事ですから」

「これで、なんの未練もなく旅立てます」

紅葉の半透明の身体が、足元から少しずつ光の粒子となって分解され始めていた。これが成仏というシステムのエンドフェーズなのだろう。足先から徐々に透明度が増し、空間に溶けていく。


「紅葉ちゃん。もし生まれかわったら。次は良い人生が送れるといいね」

僕が不器用な言葉をかけると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「大丈夫だろ。紅葉っていう名前には、『美しい変化』や『大切な思い出』という花言葉があるくらいだからな。今度はきっと、その名前に見合った人生になるはずだ」

僕の言葉に、葵が少し驚いたように目を見開く。

「詳しいんですね。少し意外です」

紅葉だけでなく葵にも言われたが、僕が花言葉を知っていたらそんなに意外なのだろうか。本屋でバイトしていれば、その程度の知識は自然と蓄積される。


「それより、こんないい名前を付けてくれた両親に感謝だな。少なくとも、名前を付けた瞬間だけは、純粋な愛情があった証拠だから」

「本当にその通りですね。感謝してもしきれないくらいです。それでは、そろそろ行きますね」

紅葉の身体は、もう胸から上しか残っていなかった。

「じゃあね。紅葉ちゃん」

「お兄さんも」

「ああ」

「……お姉さんを、悲しませちゃダメだよ」

「どういう意味だよ」

彼女は最後にいたずらっぽく笑うと、夕日が差し込む法廷の空気の中へと、完全に溶けて消えていった。


「少し一緒にいただけなのに、いなくなると何だか寂しいね」

誰もいなくなった法廷の廊下を歩きながら、葵がぽつりと言った。

「ああ、そうだな。質量が消滅しただけのはずなのに、不思議な感覚だ」

裁判所の外に出ると、すっかり日は落ち、街は夜のネオンに包まれていた。行き交う人々は、先ほどまで法廷で繰り広げられていた命のやり取りなど知る由もなく、それぞれの日常を歩いている。

「初仕事の方はどうだった?」

「そうだな……感情の不合理さに直面させられたが、事象の因果関係を整理し、結果として未練というエラーを解消できた。意外とやりがいがある仕事、だったかな」

「まぁそうだよね、初めてだったらそんなものか。これから、この仕事のことがだんだんわかってくると思うよ」

「それってどういう――」

「さーて、明日から休日だからしっかり体を休めて、また月曜日から仕事を頑張ろうね!」

聞き損ねてしまった。葵の言葉の裏にある含み。そして、紅葉が最後に残した「お姉さんを悲しませちゃダメだよ」という言葉。お姉さんとは誰のことだ。葵のことか、それとも僕の失われた記憶の中にいる誰かのことなのか。

謎は深まるばかりだが、今はただ、疲労した脳髄を休ませる必要があった。

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