使いと仇討ち
―― 3月5日 大坂
家康は、三河国で生まれた。最初の名前は松平元信。徳川家は駿河・遠江を領する今川家の家臣筋で、若い頃の家康は今川家の人質として駿府で日々を過ごした。
よく家康の生涯は忍耐の連続である言われる。しかしそれと同時に、家康の人生は幸運の連続でもあった。
それは当の家康が最も実感している。
まずは松平家に生まれ、優秀で律儀な家臣を得たこと。もしかしたら尾張の織田家の人質になったことも幸運と言えるかもしれない。
今川家の人質時代も、太原雪斎という聡明な僧に師事することで、家康は成長できた。
不遇の時代と言われる頃でも、幸運に恵まれていた。
家康の転換点。それは尾張の織田信長に今川義元が討たれた桶狭間の戦いだ。
この戦いで今川家当主を失ったからこそ家康は独立し、全国に割拠する群雄の一人となれたのだ。
家康が支配する三河が一向一揆の拠点となったことも、東海道に武田信玄率いる上洛軍がなだれ込んできたことも、全て後の徳川軍の強化につながっている。
そして最大の幸運は……本能寺の変で信長が討たれたこと。
信長が死ななければ、小さな同盟国に過ぎない家康は織田家に飲み込まれていた。
その後の伊賀越えも、天正壬午の乱も、小牧・長久手の戦いも、小田原の役も。
全て家康が智謀と武力を駆使して、絶大な幸運を掴み取ったからこその出来事だ。
そして今、家康は豊臣秀吉の死という人生最高の幸運に恵まれた。
運と知勇を持ち合わせ、領土も広く、人望がある。
家康は既に日本最強の武将だ。
今の儂なら再び荒れ始めた天下を統一し、亡き信長公の夢に近づくことができる。そう家康は考えていた。
「殿。藤田殿が到着しました」
家康に耳打ちしたのは側近の本多正信だ。
最も信頼する参謀の言葉を聞いて、家康は座り直した。
「通せ」
家康の前に現れた藤田信吉は疲れ切った顔をしていた。
髷は乱れ、服の裾ははだけ汚れている。
「藤田殿、ご足労でござった。栗田殿はお元気かな」
家康に声を掛けられると、畳に平伏した信吉の体がわなわなと震える。信吉は歯を食いしばって言葉をひねり出した。
「栗田刑部国時は、陸奥伏拝で、兼続が放った草の者の手にかかり、切り死にを、遂げましたッ……」
「そうか……栗田殿が兼続に」
家康は暫く目を隠すようにして顔を覆っていたが、突如立ち上がり信吉の両肩に手をかけた。
「藤田殿、気を落としている場合ではござらぬ。兼続が栗田殿を討ったことは、我らに対して宣戦布告したということ。兼続は亡き太閤殿下の意に逆らい、日ノ本に再び戦乱を呼び戻そうとしておる」
信吉は涙と鼻水で滅茶苦茶な顔を上げ、家康の言葉に聞き入った。
その様子を見て家康は感慨を覚えたのか、感情の籠った声で続ける。
「栗田殿の思いを継ぎましょうぞ。栗田殿とそなたが懇意にあったことは儂も知っておる。儂にもかつてそのような友がおった」
二人の男の熱い感情のぶつかり合いに堪えかねて、傍にいた正信も顔を覆った。
「そなたの気持ちはよく分かる。兼続を討ち取り、栗田殿や乱世で散った者たちが夢見た天下静謐を叶えよう。それが……彼らにとっての最大の供養だ。藤田殿、わしと共に戦ってくれい!!」
「はッ!勿論でございます!」
家康と信吉は燃えるような瞳を交わし合った。
家康の小姓の肩を借りて立ち上がった信吉は、家康と正信に対し礼をすると謁見の間から出た。
友の仇討の準備のために。
「行ったかのう?」
「あ、こっちを振り向きましたね」
二人は平静を装う
「行った?」
「はい、行きましたね」
場に残された家康と正信は暫くの間黙りこくっていたが、遂に耐え切れなくなって笑い始めてしまった。
「ククッ、クハハハハハハハハ!」
「アハハハハハハ!」
二人の笑い声だけが、大坂の家康の屋敷に響き渡る。
信吉の耳には聞こえないだろうが、屋敷に居る下働きとしてはいい迷惑である。
「ハア……、名演技でしたな」
笑いが収まったのか正信が口を開いた。
その顔は未だに嬉しそうで。ニヤつきを隠そうともしない。
「新たな特技を発見した気がするのう。前々から敵には冷たいと言われてきおったから、信吉殿には効果てきめんだったじゃろう」
「藤田殿、終始感動して泣いておりましたな。肩に手を置くだけならまだしも、両肩にバン!ですからな。忠勝が嫉妬で泣き狂うかもしれませぬ」
正信の言葉に家康は苦笑を浮かべる。
二人は親友であった。
それも今川家の人質時代の頃から。
三河一向一揆で正信は一揆側につき、家康と敵対することになった時もあったが、帰参して以降正信は家康のブレーンとして活躍している。
言うならば、正信は家康と最も親しい人物の一人であって、その中でも一の側近なのだ。
「殿の演技が迫真過ぎて、途中、笑ってしまいました」
「顔を覆ったのはそういうことか……」
「ええ、――『わしと共に戦ってくれい!!』クククッ」
「『彼らにとって最大の供養だ』ブハハハハ!」
それから二人はひとしきり大笑いすると、信吉を送り終えた小姓に命じて茶を持ってこさせた。
「感情で攻める。殿の策には参りましたわ」
「……藤田殿は人一番感情で動く。扱いやすい男だが、面白い。なかなか見ない男じゃ……」
「忠勝と同じではありませぬか?」
「奴は例外じゃ。よく見るしの」
家康は一息ついて天井を見上げた。
シミ一つない。
家康が屋敷を構える大坂城西ノ丸は、元々秀吉の正室・北政所が住んでいた場所である。
秀吉の死後、北政所が大坂城を出て京で出家すると、家康はこの地に新たな御殿を建てた。
この屋敷は主君の秀頼が住まう本丸御殿よりも、豪華な建物だった。
「かつて、殿にも『そのような友』がいたのですな」
「……」
「聞かない方が良さそうですな」
正信はゆるりと立ち上がり、信吉と同じように場を後にしようとする。
しかし家康はそれを呼び止めた。
「なあ、正信。儂は天下を奪るぞ。天下静謐、このような大きな目的を持って生きれば、志半ばで死んでも多少満足じゃろう。」
正信は振り返り、いつも通りの冷静な目で家康を見据えた。
家康の目は相変わらず天を向いていた。
「信長公、見ていてくだされ。儂があなたの夢を叶えます」
その時確かに、正信は若き日の家康の姿が見えたような気がした。
お読みいただきありがとうございました。
藤田殿の本名は藤田能登守信吉です。
たぶんもう出てこない( ;∀;)




