9 火災
一行の馬車行列は無事に湖畔の別荘に到着した。すぐさま警護の者が先乗りしていた同僚と地元セービン市の警備隊と一緒に別荘の周囲を確認した。
スタニスワフは勢いよく馬車から飛び降りた。
「ここは隠し部屋もあるんだよ、こっち来て!」
婚約者を案内しようとする彼の前に、ロステン夫人が立ちはだかった。
「殿下、カトレイン様は長旅でお疲れですよ。別荘の探検なら式典が終わった後でも出来ますから」
残念そうにしながらも、王太子は彼女の言葉に従った。
「じゃあ、また夕食の時に」
「はい、スタシェク様」
少年と別れ用意された私室に入ると、さすがに一日以上も汽車に揺られた疲れが出てきた。長椅子に座るカトレインを、侍女たちが手早く部屋着に着替えさせた。
「お嬢様、お疲れでしょう」
「夕食が済めばゆっくりお休みになれますからね」
「ありがとう」
楽なドレスで彼女は窓からの景色を楽しんだ。湖畔に建てられた別荘は湖とそれを取り巻く山並みが最も美しく見えるように工夫され、夕日に刻々と色彩を変える様子は見飽きることがなかった。
「素敵な別荘ね」
見とれる公爵令嬢に、侍女頭が説明した。
「このスロカ荘は、実は三代前の国王陛下が王妃の目を盗んで愛人と逢瀬を楽しむため作らせたのですよ。色々な仕掛けは踏み込まれた時にすぐに逃げられるようにするためだとか」
「……そうだったの」
美しい景色とは対照的な生臭い事情を聞かされ、カトレインはどう言えばいいのか分からなかった。
気を取り直して反対側の窓に目を向けるとセービンの町が遠くに見えた。綺麗に飾り付けられた駅舎は明日の式典本番に備えて更に華やかになるのだろうと、彼女は考えた。
「ローディン語の挨拶を復習しておこうかしら」
原稿を取り出し幾度も繰り返すうちに日は暮れていった。
セービンの町は明日の式典を前に飾り付けや予行演習に大忙しで、特に駅付近は大賑わいだった。
「王太子殿下は素直で利発そうな方だったな」
「婚約者の御一門のお姫様も控えめで可愛いじゃないか」
「年上でも仲がよさそうだったし」
人々は楽しげに準備に取りかかっていた。
主催者たちはその光景を駅舎から眺めた。
「準備期間が短くて冷や冷やしたが、どうにか間に合って良かった」
セービン市長が安堵の溜め息をついた。駅長たちも同様の表情で、駅長室の窓際に立っている人物に声をかけた。
「ご協力に感謝します、グレツキ氏。おかげで必要な物資を手に入れることが出来ました」
「我々もこの街とはホテルの件で懇意になりたかったので、渡りに船でしたよ」
笑顔で振り向くのはグレツキ商会の会頭モリス・グレツキだった。彼の言葉に市長も関心を示した。
「駅前の再計画にホテルの誘致を提案されたときは驚きましたが」
「ここは王国鉄道の三本の路線が集中する、いわば東部の一大拠点です。鉄道利用者は確実に見込めますよ」
その頭の中で様々な計算をしているらしい商人は共栄共存を掲げ、どこまでもにこやかだった。
夜になり街灯がともる中、翌日の飾り付け用品を抱えた男が密かに線路脇の倉庫街に忍び込んだ。
各倉庫を巡り、男は綿花などの可燃物が多く貯蔵された建物に接近した。手にした棒で窓ガラスを叩き割り、下げていた灯油ランプを中に放り込む。砕けたランプは灯油を燃焼促進剤にしてすぐに周囲の可燃物に燃え移った。倉庫の窓ガラスが次々に赤く染まる。
男は惨状を確認すると走り去った。行く先には数頭の馬と警備隊の濃紺の制服の男たちがいた。一人が彼に言った。
「首尾は?」
「あのとおりさ」
男は煙が上がる倉庫を指さした。手早く濃紺の制服に着替え馬に乗ると、彼は仲間と供に移動した。行く手には湖とその岸の瀟洒な別荘があった。
晩餐の時刻が迫り、カトレインは正装に着替えて侍女たちと迎えを待った。若草色のドレスと同系色の宝石がはめ込まれた簪形の髪飾りが鹿毛色の髪を彩っている。
婚約以来、彼女の衣装は常に王太子と並んだ時を考えて作られるようになった。あまり大人びて見えないよう、さりとて不自然なほど子供っぽくならないよう、と侍女たちは気を配ってきた。
努力の結果を王太子に披露するのを心待ちにしていた彼女たちは異変に気付いた。
「何でしょう、町の方が騒がしいようですが」
侍女頭が不審そうに窓からセービンの方を見た。確かに、町の一角が妙に明るい。階下で慌ただしい足音が聞こえた。
「見て参ります」
侍女の一人が出て行き、間もなく戻ってきた。
「町で火災が発生したとか。怪我人も多く、消火に手間取っているためここの人間を応援にやるようです」
「そうなの。死傷者が出なければ良いのだけど」
不安そうなカトレインの言葉に大きな物音が重なった。侍女たちは顔を見合わせた。
「高貴なお方がおられるというのに騒々しい」
眉間に皺を寄せた侍女頭が、注意してこようと扉を開けた。それと同時に、男性が扉にもたれかかるようにして室内に入ってきた。
彼の顔や服は血で汚れ、侍女頭は非礼を咎めることも忘れて支えた。男は王太子の侍従の一人だった。
「……お逃げください……」
それだけ言うと侍従は床に崩れ落ちた。
「しっかりなさい! 何があったのです!?」
侍女たちが彼を介抱する中、階下の物音は明らかな争いに変わっていた。銃声を聞き、カトレインは反射的に部屋を飛び出した。
「スタシェク様!」
公爵令嬢は背後から引き留める声を振りきり、婚約者の元へとひた走った。
吹き抜けのホールには数人が倒れていた。侍従のお仕着せの者もいれば、警備隊の濃紺の制服もある。階段で侍従や警護の人々が侵入者を食い止めようとしているのが分かった。
信じられないことに、侵入者はセービン警備隊の制服を着ていた。カトレインは二階西翼の王太子の部屋に急いだ。
その時、小さな声が彼女を呼び止めた。
「カトラ、こっち」
階段下の物置の扉が細く開き、青灰色の目が覗いていた。
「スタシェク様」
公爵令嬢は広がるドレスを両手で押さえ、狭い物置に苦労しながら入った。スタニスワフは怯えてはおらず、怪我もないようだった。
「どうしてこんな所に…」
「侍従が隠れていろって言ったから」
「私の元にも来てくれました」
怪我をしていた侍従の無事を願ううち、階下の銃声が途絶えた。やがて物置前の廊下を荒々しく行き来する何人もの足音がした。しばらく息を潜めるうちにそれも聞こえなくなり、声は別荘の外に移ったようだった。
「行ったのかな」
スタニスワフが物置から廊下に出た。彼に続いたカトレインは用心深く廊下を見回した。その時、一つの部屋の扉が開いた。出てきたのは濃紺の制服を着た警備隊の男だった。
男は王太子を見るなりつかつかと近寄り手を伸ばした。
「こんなとこにいたのか」
その間にカトレインが割って入った。
「下がりなさい! 無礼者!!」
スタニスワフを隠すように両手を広げる彼女に気圧され、一瞬戸惑った男は鼻を鳴らした。
「どいてろ」
少女の手首を男が掴むと、王太子が飛びかかった。
「カトラを離せ!」
男は少年を振り払った。
「スタシェク様!」
カトレインの脳裏に兄に教わったことが甦った。公爵令嬢は簪型の髪飾りを引き抜くと、男の手首に突き立てた。
「いてっ! こいつ…」
逆上する男の顔をめがけて、カトレインは髪飾りを振りかぶった。
「わっ」
反射的に両手で目を庇い、後ずさった男は足をもつれさせて尻餅をつくように転んだ。それに見向きもせずに、彼女はスタニスワフの手を引いて走り出した。
最初驚いていた王太子は、すぐに婚約者を追い抜く速度で走った。
「こっち!」
二人は三階に駆け上がった。無人の廊下をスタニスワフは壁の額縁を数えながら走った。
「一、二、三…ここだ」
床付近の壁を少年は思いきり蹴飛ばした。すると壁は人ひとり分の幅で回転した。王太子と婚約者はその中に駆け込んだ。
「ガキどもはこっちだ! 探せ!」
怒鳴り声を聞きながら彼らは身を寄せ合った。