10 脱出
隠し部屋は埃臭く、暗がりに慣れてきた目で見ると意外に細長いのが分かった。
外では男たちの焦ったようなやりとりがあった。
「いないぞ、どの部屋も空だ」
「そんなはずないだろ、確かにこの階に上がっていったんだ」
「外への階段は?」
「バルコニーは見たのか?」
王太子と彼の婚約者がどこにもいないと判明したとき、男たちの苛立ちは頂点に来ていた。一人が八つ当たり気味に壁を叩く。そこはスタニスワフとカトレインの潜んでいる隠し部屋の壁だった。
二人はびくりと固まった。廊下では異常を察した声がする。
「おい、そこの壁、音が変じゃないか」
別の場所を叩いて隠し部屋の壁と比べた男たちは慌ただしく動き出した。
「斧を持ってこい!」
すぐに壁を破壊する音が聞こえてきた。強度があるためか一撃で崩れるようなことはなかったが、それでも斧を振り下ろす音がするたびに廊下からの光が細い筋となって隠し部屋にこぼれた。
カトレインは少しでも斧から王太子を遠ざけようときつく抱き寄せた。その感触に戸惑う少年は、彼女の髪が一方向に流れるのに気付いた。
「……風?」
光の筋が次第に太くなる中、彼は婚約者を引っぱり外壁側へと移動した。壁を押してみて、微かに動く箇所を見つけ出す。スタニスワフはこの部屋に入ったとき同様に床付近の壁を蹴った。
かちりと音がして、外壁が開いた。二人は湖からの風を受けてスロカ荘の外を見た。しかし、出口には梯子も何もない。
カトレインは斧が振り下ろされる箇所を振り返り、覚悟を決めた。身軽な少年だけなら脱出できるかもしれない。
「スタシェク様だけでもお逃げください」
背中を押された王太子は婚約者の手を握った。そして、近くから覚えのある動物の匂いと物音を感じ取った。
「厩舎……、そうか」
彼は公爵令嬢の手をひっぱつた。
「……え?」
混乱する彼女を少年は促した。
「飛ぶよ、カトラ」
「ええっ!?」
答える間もなくスタニスワフは床を蹴り、二人は三階から落下した。浮遊感の後に地面に叩きつけられることを覚悟し、カトレインはきつく目をつむった。だが、着地の感触は予想外のものだった。
何か柔らかいものに触れたと思うとその中に突っ込み、彼らはさほど衝撃のないまま別荘の庭園に降りていた。
スタニスワフは嬉しそうに言った。
「ほら、そこに厩舎があるから藁山がわざわざ作ってあるんだ。ここに飛び降りて馬で逃げるようになってるんだよ」
どうやら、浮気の現場から脱出する経路のようだ。
全身藁まみれにならながら王太子と公爵令嬢は藁山から這い出し、厩舎に向かった。追っ手が来るかと思ったが隠し部屋からは誰も出てこない。代わりに新たな蹄音と銃声がした。子供たちは急いだ。
そこに、ランプを持った人影が現れた。二人は厩舎の陰に隠れようとしたが、誰何する声は覚えのあるものだった。
「……殿下?」
王太子の忠実な乳母ロステン夫人が彼を探していたのだ。
「まあ、カトレイン様まで。ご安心ください、公爵家の領軍が駆けつけて賊を制圧してくださいました」
言われて耳をすましたカトレインは、領軍の指揮を執る長兄エドムンドの声を聞き分けた。
「追撃を出せ、黒幕を吐かせるんだ!」
統制のとれた公領軍が逃げた襲撃者を追って湖畔を駆けていく。ようやくカトレインはロステン夫人の言葉を実感できた。
「……助かったのね…」
全身から力が抜け、公爵令嬢はその場に座り込んだ。無意識に身体が震え始める。
「カトラ、寒いの?」
スタニスワフが上着を脱いで肩に掛けてくれた。服から伝わった温もりが、一歩間違えれば目の前の彼を失っていた可能性を浮かび上がらせた。彼女の目に涙が浮かんだ。
急激に押し寄せる恐怖に揺さぶられるように涙は止まらない。
「……ご無事で、良かった……」
それ以外は言葉にならず泣き続ける婚約者を前にして、王太子はひたすら狼狽した。
「…あの、どこか痛い? あ、ドレスが汚れちゃったよね、ごめんね…」
どうすれば良いのか分からず、昔母親がしてくれたように少女の頭をそっと撫でることしかできない。ロステン夫人はそんな二人を泣き笑いの顔で見守った。
やがて、公爵家の長男が彼らの元にやってきた。
「殿下、ご無事で」
下馬したエドムンドは王太子の前に跪いた。そして、スタニスワフが泣いている婚約者を前におろおろするのに気付き、口元を緩めた。彼は妹に手を貸した。
「もう大丈夫だ」
「……お兄様」
長兄の胸にもたれて泣く彼女を見て、スタニスワフは微妙な表情だった。彼らの周囲に無事だった使用人たちが集まってきた。
「殿下!」
「お嬢様、ご無事でしたか」
エドムンドは悲惨な状況になったスロカ荘を目にして別の問題に直面した。
「ここは使えないな。しかし、殿下をどこかに移すにしても…」
思案にくれる彼らの前に、聞いたこともない騒音を立てるものが現れた。迎撃態勢をとる公領軍に、のんびりした声がかけられた。
「ポニャトフスキ公の若様じゃないですか」
得体の知れない機械からから降りてきたのは飄々とした印象の老人だった。彼は公領軍を相手に臆する様子もなく自己紹介した。
「ミハウ・グレツキと申します。先代の公爵様には懇意にしていただきました」
「グレツキ商会の…」
「はい、今度息子が開業するホテルの様子を見に来たついでに、こいつを慣らし運転してたらこっちの方で物騒な物音がするんで何事かと思いましてね」
彼が運転してきた物――大きな釜のような物と座席が付いている機械に王太子が興味を示した。
「これは?」
「蒸気車ですよ、殿下」
「蒸気で動くの? 汽車みたいに?」
「原理は似たようなもんですか。まあ、やたらとうるさいのと時々動かなくなるのを除けば楽しい玩具ですよ」
王国一の商会の先代は、死体が運び出される別荘と藁まみれの王太子を見ても眉一つ動かさず提案した。
「事情は聞きませんが、よろしければうちの系列のホテルを利用しませんか。開業前で一般客はいませんし、すぐにでも宿泊できますよ」
「いいのか?」
胡散臭そうな公爵家の長男に、グレツキ商会の先代会頭は口元を歪めて笑った。
「なーに、『王太子殿下御宿泊』の看板を出せるなら、何泊していただいてもおつりが来るってもんで」
軽薄そうな言動に公領軍の者は懐疑的だったが、エドムンドは頷いた。
「採算はとれる訳か。なら信用して良さそうだな」
「そうこなくっちゃ。じゃ、早速行きましょう。殿下、こちらに乗ってみますか?」
スタニスワフはひどく心を動かされた様子だったが、ロステン夫人たちがいかめしい顔で首を振るのを見て諦めた。
運び込んだばかりの荷物を慌ただしくまとめ、王太子一行はセービンの街に新たに出来たホテルへと移動した。
夏バテが胃腸に来てエラい目に遭いました。やっと固形物が食べられるようになったんで更新頻度を上げていきたいです。




