29 はじまりの円舞曲
新年を迎え、ロウィニア王都パデレシチは白一色の雪景色になっていた。
善良な人々は今年最初のミサが行われる聖光輪教会に足を運んだ。大聖堂を始め都の各地区にある教会は朝から荘厳な雰囲気に包まれていた。
町の目抜き通りや各商店は人出が少なく、スヴェアルト宮殿近くにある王立公園も人影はまばらだった。
池の中で泳ぐ白鳥を眺めていた青年の隣に一人の老人が並んだ。
「こんな寒い中を白鳥見物ですか」
「グロースの雪はこんなものではなかったはずだ」
答える青年はポニャトフスキ公爵家次男テオドルだった。老人――グレツキ商会先代会頭ミハウ・グレツキは厚いコートを着ていても寒そうに身震いした。
挨拶も何もなく、テオドルは用件を話し始めた。
「人員が増えるばかりの後宮の御用品納入業者はグレツキ商会系列に決まった」
「それは光栄ですな」
好々爺めいた笑顔でミハウは礼を言い、表情の読めないテオドルに尋ねた。
「それで、見返りは何をお望みで?」
「無用だ」
公爵家の次男は突き放すように答え、底冷えのする視線を先代会頭に向けた。
「ただ、出入りの者から後宮の女たちに聞かれるままに教えてやればいい」
「何をでしょうか」
「ありのままだ。陛下が誰の元に何日通い、どの貴族が誰の後ろ盾につき、どの女に懐妊の兆候があるか」
「事実に勝る武器は無し、ですか」
感心したようにあごひげをいじり、老人は何気なく付け加えた。
「後宮は血みどろの戦場になるでしょうな」
「選ぶのはあそこに入った者自身だ」
同情のかけらもない声でテオドルは答え、ミハウに念を押した。
「この件は他言無用だ。父や兄、殿下や妹にも」
それだけ言うと、公爵子息は歩み去った。彼の後ろ姿を目で追い、老人は呟いた。
「影を一人で引き受けなさるか」
雨月初旬十曜日、スヴェアルト宮殿での新年舞踏会が開催された。主立った貴族のほぼ全員が参加し、この日に社交界デビューを果たす令嬢たちを祝う催しである。
王太子妃扱いで宮殿に控えの間を持つことになったカトレインは侍女たちの手によって支度をすませた。
「本当に素晴らしいお衣装ですわ」
「結い上げた御髪もお似合いで」
「今日から公的に妃殿下と呼ばれるお方ですもの」
彼女たちの賛辞を聞きながら、王太子妃という地位を形だけだと誹る者もいるだろうとカトレインは考えた。正式な婚姻はまだ先でも、ロウィニア王太子妃と国の内外に認められるかはこれからの自分にかかっている。
少女の緊張をほぐすようにジュワウスキ伯爵夫人が言った。
「デビュタントの段取りはそれほど複雑ではありません。身分の順に国王陛下のお言葉を賜り、大広間に入場してご挨拶とダンスをすればいいだけですから」
頷いていると小さなノックの音と共に控えの間の扉が開き、ひょっこりと王太子が顔を覗かせた。
婚約者に会うのが待ちきれなくてやってきた少年を侍女たちは咎めなかった。スタニスワフはデビュタントドレス姿のカトレインに感嘆の眼差しを向けた。
「凄く綺麗だね、カトラ」
肩と胸元を出したドレスに正装用の宝飾品を身につけた公爵令嬢は、どこか見知らぬ貴婦人のようだった。
「今日からあなたのお妃として認められる方ですよ。よろしいですね、殿下」
ロステン夫人が指摘すると、スタニスワフは戸惑った顔で婚約者の周りをぐるぐる回った。
小さく笑うと、カトレインは彼に言った。
「ここではいつもどおりになさって大丈夫ですわ、スタシェク様」
王太子の方も礼服姿だった。小さな紳士だ、可愛らしいと朝から侍女に言われ続けで、いささか忸怩たるものを抱えていたのだ。彼の婚約者には別の見方があるようだった。
「礼装もとてもご立派です」
王太子は途端に機嫌を直し、胸ポケットを指し示した。
「これ、分かる?」
ポケットにはハンカチが挿されている。スタニスワフは少しだけそれを引っ張った。ハンカチに施された刺繍が覗いた。
「私が差し上げたものですか?」
「そうだよ。公式の場には身につけるんだ」
年若い婚約者たちの無邪気な愛情表現に、控えの間の侍女たちは自然と微笑んでいた。
やがて扉がノックされた。
「王太子殿下、妃殿下。謁見の間にどうぞ」
デビュタントたちを取り仕切る女官長が二人を先導した。
謁見の間では国王と侍従たちが彼らを待っていた。
最敬礼をする幼い王太子と大人の仲間入りをする王太子妃を前にして、国王リシャルドは少し枯れた声で祝福した。
「王太子妃は多くの公務をこなしてもらうことになる。王太子と共に精励してほしい」
「ご期待に添えるよう尽力いたします」
公爵令嬢の答えに幾度も頷き、国王は息子とその婚約者を下がらせた。
女官長は二人を大広間に通じる回廊に導いた。この日デビューする令嬢たちの中で最高位となるカトレインはスタニスワフにエスコートされて先頭に立つことが決まっている。彼女の後ろには次々と令嬢たちが並んだ。
ファンファーレが大広間に響き、典礼官が入場する者の名を読み上げた。
「ロウィニア王太子妃殿下、カトレイン・ポニャトフスカ様」
行こうとスタニスワフが彼女の手を取った。公爵令嬢は滑るように大広間中央へと歩き出した。
居並ぶ貴族顕官たちがどよめいた。カトレインのドレスは形だけを見れば至って簡素なものだった。装飾と言えばわずかに胸元の小さなレースがあるくらいだ。
しかし使用された布地は誰も見たことがない物だった。『黄金の繭』と呼ばれるコパ地方原産の生糸を使用し、更に金糸を加えた織り模様がある。それは光の当たり方によって純白の上に淡い黄金色をまとい模様を浮かび上がらせた。
「あの模様は?」
「公爵家の紋でも王家の紋でもないな」
「…糸車か?」
カトレインが斜めに掛けた深紅のサッシュには聖ヨアンナ褒章が付けられていた。その形である糸車なのだと大広間に集った者は理解した。このドレスが芸術的な絹織物を生かすためにデザインされた物であることも。
公爵令嬢の胸元にはダイヤの花が連なるネックレスが煌めき、結い上げられた鹿毛色の髪には無数のダイヤをちりばめたココシュニックティアラが光の帯のように輝いている。
御一門の財力と権勢を誇示しながらも気品を損なわない美麗な装いだった。
ポニャトフスキ公爵夫妻は、大勢の貴族に囲まれ祝いの言葉をかけられていた。
「何て美しいのでしょう、まさに王国第一の貴婦人ですわ」
「あの絹織物は公爵家で作られましたの?」
「ええ、いずれ製品化も考えておりますの」
大広間の反対側に苦虫をかみつぶしたようなチャルトルィスキ侯爵がいるのを扇越しに見て、公爵夫人は満足げに答えた。貴婦人たちは歓声を上げ是非購入したいと申し出る者が相次いだ。一人が若い婚約者たちを眺めて微笑ましげに言った。
「殿下もさぞかし誇らしいでしょうね」
この言葉はスタニスワフの心境を正確に推察していた。王太子は婚約者の輝くような姿にうっとりとした目を向け、胸を躍らせた。
令嬢たちは玉座の国王と賓客に礼をし、宮廷楽団が楽器を手にした。最初の円舞曲が始まった。
まだ婚約者よりも背の低い王太子は、今はそれよりも彼女をきちんとリードすることで頭が一杯だった。
手を取り、背中に片腕を回し、三拍子の音楽に乗ってステップを踏み出す。二人の踊りは練習の成果を充分に見せていた。
周囲の令嬢たちはみな大人の男性と踊っている。それでも二人で取り組んだステップを決めていくうちに練習の記憶が甦り、彼らは笑い合った。
「次の舞踏会ではもっと大きくなって上手になるから、我慢してね」
スタニスワフの言葉にカトレインは首を振った。
「今のスタシェク様と踊れるのは今しかないのですから。それに、そんなに急いで大人になってしまわれたら置いて行かれるような気分になりますわ」
「そんなことない」
婚約者を抱く腕に力を込め、スタニスワフは否定した。
「せっかく頑張って大人になっても、カトラがいないと何にもならない」
目を瞠り、公爵令嬢は真剣な青灰色の瞳を見つめた。どんな時にも自分を支えてくれた目だと思い、彼女は幸福そうに微笑んだ。
「それなら、楽しみにしています」
「うん」
まだ歩幅も揃わないステップでも、他人からどんなに不釣り合いに見えても、自分たちは二人でこの先も手を取り生きていく。王太子と婚約者は楽しげに踊り続けた。
* *
八年後、牧草月中旬一曜日。スヴェアルト宮殿大広間。
一足ごとにドレスとヴェールが揺れる。内外の賓客を集めた中でひと組の男女が踊っていた。
この日、パデレシチ大聖堂で結婚式を挙げたばかりのスタニスワフ王太子とカトレイン・ボニャトフスカ王太子妃だ。夫妻は市内のパレードを経て宮殿での披露宴を催し、来賓の前で最初の円舞曲を披露したのだ。
八年前は婚約者の肩くらいしかなかった王太子は、今は妻が見上げるほどに成長した。
あれから二人は公務と勉学に明け暮れ、その間にも後宮を始めとする王宮内の歪な権力闘争に決着を付けるべく奔走した。
その結果、毒殺が横行する伏魔殿と成り果てた後宮は解体された。スタニスワフの十三人に及ぶ異母妹たちは保護され王女としての教育を受けて王家の一員となっている。
王太子の幼馴染みは有能な側近となり、彼らの伴侶たちはカトレインの腹心となった。
大広間には二人に力を貸してくれた者たちが揃っている。王太子の大勢の妹を始めとした王族と御一門の人々、スタニスワフの側近たち、その婚約者たち、グレツキ商会の人々、遠くグロースから駆けつけてくれた聖ツェツィリア修道院の院長以下の面々。
国家機密漏洩事件に連座したチャルトルィスキ侯爵は没落し、監視付きで領地に軟禁状態になっている。彼の傀儡同様だったブラウエンシュテット公爵も鄙びた領地に引きこもった。
今、ここにいるのは二人を祝福してくれる人ばかりだ。豪華な婚礼衣装の重さを感じさせない軽やかさでカトレインは踊り、幼い頃は出来なかったしっかりとした保持でスタニスワフはリードした。
神の御前で正式に夫婦となったばかりの彼らは、世界で最も美しく愛おしい互いの姿のみをその目に映し踊り続けた。
やがて円舞曲は終わり、本日の主役に向けて惜しみない拍手が贈られた。喝采の中、二人はそっとくちづけた。
最後まで読んでくださってありがとうございます。これでロウィニアのお話は終わりです。評価、ブックマーク、感想、誤字報告感謝します。敵国となっているザハリアス帝国の月の竜の話は「セレニウス -銀月の竜-」(https://ncode.syosetu.com/n2458gj/)で書きました。翼竜使いの運び屋の少女と根暗陰険少年皇帝のお話です。
2024.2.7加筆修正




