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保守系の国会議員の私設秘書として駆けずり回ってきた三浦守は、貧しい青森県のために力を尽くしてきたと自負していた。朝鮮動乱の混乱時に、韓国から渡ってきた親から産まれた在日韓国人二世の三浦は、ヘルメットやマスク、そしてサングラスで顔を覆い隠しながらシュプレヒコールをあげているいかがわしい左翼勢力を取り締まることに、この数十年自らの暴力性をぶつけてきた。出自にコンプレックスをもつ三浦にとって、不安定になりがちな精神状態から解放され、正義の立場で民を高所から見下せるのは、政権に順応しているからだけだった。用心棒気取りである。事実、武蔵坊弁慶が心の師だった。
左翼を倒すためという目的で、右翼活動家は、いわゆる五十五年体制以後の政権によって特に重用された。中選挙区制という選挙制度が政権交代を難しくしていたために、三浦のような在日韓国人なども、右翼をなのって政治に関わり続けることがみられた。いや、そういう身分の人間が自称右翼の大半である。これをエセ右翼といった。事実、三浦も広域暴力団の幹部である。
高度成長期に端緒が付けられた大規模工業団地開発であるむつ小川原開発は、オイルショックにより当初の計画が頓挫し迷走を続けた。青森県は、昭和三二年(一九五七)に財政再建団体へ転落したこともあって、国家プロジェクトである原子燃料サイクル施設を昭和六十年(一九八五)に受け入れるに至った。被曝や風評被害を怖れる地主や漁師を中心に、当たり前の反対運動がおこったものの、地元には関係がない左翼系の団体が介入してきたこともあって、保守系の政党や経済団体、そして自称右翼が熱心に事業者を後援することになった。
国と事業者は莫大な金の力を背景に、メディアをはじめ、地域社会を分断する工作をおこなってきた。その過程で恩恵をもっとも受けたのが、三浦のような自称右翼であり暴力団組員だった。いわゆる地上げ行為や諜報活動、そして示威運動は、彼らの得意とするところである。都内や横浜、仙台などで培ってきたノウハウが十分に活かされた。
「三浦ちゃん、市野沢とかいう男の記憶ある?」
三浦のもとに、インターネット・プロバイダー会社の社長から一本の電話があった。役場への電子メールは、合法的に、三浦のもとに集められることになっていた。この会社は、役場も出資している半官企業であったが、広域暴力団と結びついているパターンは、全国各地でよく見られるようになっている。
三浦は、すでに航介を知っていた。インターネット技術が開発されるまでは、教育現場からの報告が諜報活動の草刈り場だった。とくに、成績優秀な人間、荒くれ者の問題児、そして異性から人気のある子供の情報は、小学生の頃からいくつかのルートで集まることになっていた。なぜなら、若い芽こそがボスにとっても三浦にとっても、最大の脅威となり得るからである。
「市野沢…。どうせ赤旗でも振っているんだろう」
三浦は、航介の人となりは、反体制的で一匹狼的な要素があると聞いていた。実家もそれほど裕福ではない航介などは、青年期になれば日本の赤化運動に手を染めるだろうと考えていた。これまでに蓄積してきた「傾向と対策」は、三浦の宝である。
「そいつがどうかしたのか。」
「地名がどうたら、この辺りの首長たちに文章を送り付けてきたらしい。」
三浦は、先日の投稿記事を思い出した。
「あれか…」
三浦にとって、赤旗を振るような連中には万全の対応が可能になっている。すでに、細かく整理された家宝ともいうべきマニュアルが備わっているからだ。柔剛に陰陽、いろんなケンカの仕方がある。
しかし、三浦は好奇心をくすぐられていた。
「市野沢とやらは、うちのせがれの同級生だった…」
三浦は、航介をスケープゴートにすることを考えた。息子の目の前で、自分の腕力を見せつけることを企んだ。そこには、たるんできた後援会組織の引き締めという建前の裏に、父親としての威厳を息子に再確認させようとする本音が隠されていた。
三浦は、飼い犬を足下に呼び、真っ黒な毛並みを手入れした。その犬は、流行りの血統書付きではなく、河原で拾い、子犬から育てた雑種だった。