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 アーニラン直筆の置き手紙をのこして駒井宅を早朝に抜け出した二人は、まず七戸町の坪集落へ向かった。

「このあたりは、『白金』『金木』『黄金』といった金属に関する地名が多いんだ。」

「ここの住民は、みんなお金持ちだったのかなぁ。」

というアーニランに、「んなこたぁない!」と軽いツッコミをいれながら、二人は「原子」という錆びついたバス停の前に立った。

「これ、なんて読む?」

「原子力発電の『げんし』かなぁ。」

航介は、首を振った。

「じゃあ、『はらこ』かなぁ。」

「この前、『つぼ』とは女性器のことだって言ったよね。胎児がいるところを、『壷』という隠語で表したはずなんだよ。」

「じゃあ、この『はらこ』は『腹子』と書くべきかもね。」

航介は微笑んで、福井生まれ金沢育ちのアーニランの訛りを、大げさに真似した。

「大当たりですぅ。」

 二人は、八幡岳(1020m)を源流とする坪川沿いに道なき道を歩み、次なる聖地を目指した。航介は、羅経盤と地形図を頼りに、「戸」地名を設定した貴人の順路を想いながら歩を進めていた。彼は僧侶なのだろうか。それとも軍人なのだろうか。武を理解しようとする航介は、初代の征夷大将軍を参考にして、その貴人を「星秀麻呂(ほしのひでまろ)」と命名した。しかし、彼は軍団を従えながらも刀を差していない。髭を蓄えているわけではなく、墨を入れているわけでもない。華奢で品があるその姿は武人とは言い難く、高尚なインテリの雰囲気を醸し出しているのだ。

 鬼門に怯える桓武天皇の思い過ごしから、はるか奥州に遠征することになった坂上田村麻呂将軍は、朝廷に刃向かう反乱分子を圧倒的な軍事力によって鎮圧したことになっている。国家統一のために。しかし、はたしてその歴史解釈は正解なのだろうか。航介の推測では、桓武から田村麻呂に与えられた役割は、必ずしも軍事ではないはずだと考えていた。

「田村麻呂は人を殺していないはずだ」

いや、特に根拠はなかった。駒井に指摘されるまでもなく、たしかに最近の航介は、常識とされる解釈に対して、ことごとく疑問を持つようになっていた。自らを押さえつけ、不自由にさせる権威的なものに対抗することで力試しをしたがっていたのだ。

 しかし、現状に満足することなく、自分や環境を変えていくという日々の生活の反復は、ある冒険者を大きく成長させていく試練の坂道だともいえる。峠へ最初に到達することができさえすれば、眼下に広がる絶景を、その冒険者だけが独り占めできるにちがいないのだ。

 航介は、それを狙っていた。

 底冷えする師走のはりつめた空気は、明けの明星の輝きが増す環境を美しく整えているようだった。凍るに凍れない坪川の底に、それら地名の由来になった鉱物が転がっていることも気づかずに、二人は六戸へ向かっていた。まだ、航介の嗅覚では、この金気混じりの川の水を嗅ぎわけることも味見することもできなかった。

 その一方で、川面を伝う風の冷たさに気がついた航介は、のろのろとついてくるアーニランをいたわり、彼女の冷え切った右手をダウンベストのポケットに入れて、歩むスピードを落とした。ポケットのなかでは、航介の五本の指すべてで、アーニランの五本の指が、しっかりと絡められていた。


 ようやく六戸町(青森県上北郡)に入ったとき、まだ夜明けていないというのに、多くの民家で酒盛りをしている様子が窺えた。

「今日は、平日だよねぇ。」

アーニランの目には、平日の早朝から酒盛りをする光景は異質に映ったようだ。

「これは、『庚申待(こうしんまち)』というお祭りなんだ。」

 庚申待は日本各地で行なわれていた民間信仰で、六十日に一度巡ってくる「庚申日」に徹夜をして夜を明かすだけの祭りだ。道教に由来すると考えられているが、詳しいことはわかっていない。

 航介は、垂れ下がってきた前髪を手櫛で整えた。

「オレは、庚申日の翌日、辛酉日に注目してる。」

航介はおもむろに羅経盤を出して、アーニランに六十干支の簡単な説明をした。甲子から癸亥までの干支は、方位という「空間」を示すだけではなく年月日や時刻といった「時」も示す万能な知恵であるという説明に、アーニランは感銘を受けたようだった。航介は羅経盤の「辛酉」の位置を指して、

「辛酉というのは、真西に位置するよね。陰陽五行説という道教のパラダイムでは、この辛酉はもっとも殺気盛んな性格を持っているんだ。」

航介は、ふたたび手櫛で髪を梳いた。どうやら、クセになっている。

「日本では、辛酉年には改元をすることになっていた。菅原道真が左遷された年から明治維新まで、ずっとおこなわれてきた。これは、道教の辛酉革命説に基づくものだが、中国ではおこなわれていない。」

「日本独特のものなのね。」

「世の中を革めるっていうのは、相当なエネルギーを必要とする。六十干支のなかで、もっとも革命が成功する可能性がある時というのが辛酉の時なんだ。革命家はその時を待ち、為政者は、その力を殺ぐために自ら改元をし政策をする。つまり、庚申待とは、次の日の辛酉日に人民を革命へ参加させないための為政者の知恵だと思うんだ。徹夜明けに、戦争なんかできると思う?」

 航介は、自分の目を見て、子供っぽくうんうんとうなずくアーニランをいっそう愛しくなった。七戸から六戸までの長い道のりを、弱音を吐くこともなくついてきたアーニランのけなげな姿に、航介は本能を揺さぶられそうになっていた。

 そのとき、朝焼けのせいで消え失せた金星が鷲の印の戦闘機へと転生し、二人の頭上で爆音を轟かせた。アメリカ軍三沢基地を飛びたった優秀なパイロットは、航介の心を偵察し、時が満つることを勧めたのである。


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