神社
夏休みに入って三日目の朝、僕は一人で電車に乗っていた。
窓の外では、濃い緑色の田んぼが流れていく。都会の住宅街とは違って、建物はまばらで、遠くの山がよく見えた。鈍行列車は二両編成で、古い扇風機が天井で回っている。冷房はついているはずなのに、どこか熱気が残っていて、座席に座っているだけでじっとり汗ばんだ。人は自分を含めて5人程度。これぞ電車と言ったようなガタンゴトンという音だけ響く。作られてから何十年経っただろうか。座席の日焼け、薄く濁った吊り革がボロ…いや、年季が詰まっていた。しかし悪い気はしなかった。
母は改札まで見送りに来て、「乗り過ごさないでよ」と何度も念を押してくれた。やはり心配なのだろう。気持ちは分かるがいつまでも子供だと思われることは舐められているように感じる。父は仕事で来られず、昨夜、「冒険だな」と笑っていた。
冒険。
その言葉が、ずっと頭の中に残っていた。
小学六年生にもなると、一人で電車に乗ることくらい珍しくはないのかもしれない。けれど僕にとっては十分すぎるほど特別だった。知らない土地へ向かう。親はいない。自分だけで行く。たったそれだけのことで、世界が少し広くなった気がした。
祖母の家がある町は、駅名も聞き慣れない場所だった。降り立った瞬間、むわっとした熱気が顔にまとわりつく。蝉の声が、ホームの屋根を震わせるほど鳴いていた。
改札の向こうで、祖母が手を振っている。
「おーい、悠真」
白髪混じりの髪を後ろで束ね、日焼けした腕を大きく振っていた。僕は少し恥ずかしくなりながらも手を振り返し、改札を抜けた。
「ちゃんと来れたねえ」
「子供じゃないんだから」
「その割に顔がにやけてるよ」
ごめん、やはり母の通りだ。やっと着いた。わくわくと怯えのなかここまで来て確かな安心感があった。
祖母の家までは車で二十分ほどだった。道中、田んぼと畑ばかりが続き、ときどき小さな商店やガソリンスタンドが現れる。信号はほとんどない。空がやたら広かった。祖母の家は山際に建っていた。平屋の大きな木造家屋で、瓦屋根が陽炎に揺れている。庭には風鈴が吊るされ、軒先には朝顔が咲いていた。
そして家の裏手には、森があった。森というより山の入口に近い。深い緑が重なり合い、昼なのに奥の方は薄暗い。風が吹くたびに葉が擦れ合い、ざわざわと波のような音を立てていた。
「悠真、あんまり奥まで行っちゃだめだからね」
荷物を置いていると、祖母が言った。
「あそこ、昔から迷いやすいんだよ」
「ふーん」
返事をしながらも僕の視線は窓の外の森に吸い寄せられていた。
学校と習い事、それが人生の大半である僕にとって森は異物だった。そこそこの都会で育った僕にとって正直本当にあるのかさえ分からない、ドラゴンとか河童とかと同じようなものだった。
トトロで見たことある。何かあるのではないか。
秘密とか、冒険とか、子供だけが見つけられるものとか。
その日の夕方、僕は近所を散歩した。知らない町を歩くだけでも面白い。小さな川が流れていて、古い駄菓子屋があり、自販機の横には使われなくなった電話ボックスが残っていた。けれど一番気になったのは、やはり森だった。祖母の家の裏手から伸びる細い獣道。そこだけ、空気が違って見えた。
翌日、朝ごはんを食べ終えたあと、僕は虫かごと網を持って外に出た。
「カブトムシでも探してくる」
「あんまり奥行かないんだよ」
「分かってるって」
そう言って家を出たが、実際は最初から森へ行くつもりだった。だって黙っていられない。じっとしていると体が痒くなりそうだ。
森の入口は、昼間でも少し薄暗かった。湿った土の匂いがする。足元には枯れ枝が散らばり、歩くたびにぱきぱき音が鳴った。蝉の声が近い。いつもはうるさいだけだが今日の蝉は凛々しく力強いように見えた。時折、どこかで鳥が羽ばたく音も聞こえる。
最初のうちは、普通の雑木林だった。
そういえばカブトムシもいるのかな。僕はカブトムシと縁遠い。いや、自然の姿のカブトムシと言った方が正しいか。見たことがあるのは小洒落たスーパーに売ってるプラの容器に入ったものだけだった。気持ちばかりの木屑とカピカピに乾いた昆虫ゼリー、そして覇気無く動く黒いもの。みんな何に惹かれるのか分からなかった。あんなのゴキブリの従兄弟かなんかでしょ。
しかし不思議なものでそんなカブトムシを探してしまう。木の幹にカブトムシがいないか探しながら歩く。樹液の匂いを辿り、倒木を跨ぎ、草を掻き分けて進んだ。予想通りの一般的森。うん楽しい。
実際、小さなノコギリクワガタを一匹見つけた。それだけでさらに楽しい。もっと奥には、もっと大きいのがいるかもしれない。クヌギ?って木に来るって聞いたことがある。たしか樹液の強い匂いに反応してくるんだよな。だから昆虫ゼリー置いとくだけだと全然意味ないらしい。こんなことならトラップでも作っとくんだったな。たしかバナナと焼酎をうまいこと…
……あれ?
来た道が分からない。
立ち止まる。
さっきまで見えていたはずの空が、木々に覆われている。獣道もいつの間にか消えていた。振り返っても同じような木ばかりで、どちらから来たのか分からない。胸の奥が少し冷えた。
「……やば」
声に出してみると、急に現実味が増した。
とりあえず戻ろうと思い、適当に歩き始めたが、景色はますます知らないものになっていく。湿気が濃くなり、風も止んでいた。蝉の声すら遠い。代わりに、自分の足音だけがやけに大きく聞こえた。
とりあえず歩こう。黙ってて解決する問題じゃない。
靴が汚れていく。
分からない。
下山の方向にいけばどうにかなるか。
違った。知らない景色がより一層知らなくなっていく。
やばいやばいやばい
不意に視界が開けた。
森の中に、小さな空間があった。
そこに神社が建っていた。
古びた神社だった。
鳥居は色が剥げ、石段には苔が生えている。社殿は小さいが、不思議と崩れてはいなかった。誰も手入れしていないように見えるのに、静かにそこに存在している。風が吹く。木々が揺れる。けれど、それ以外の音が何もなかった。人の気配がない。動物の気配もない。森の中なのに、そこだけ切り取られたように静まり返っていた。
なんだここは。
僕は恐る恐る鳥居をくぐった。境内には落ち葉が積もっている。手水舎には水がなく、石灯籠にはひびが入っていた。でも妙に綺麗だった。荒れているのに、汚れていない。
「……すげえ」
思わず呟く。秘密基地を見つけた気分だった。僕は社殿の裏へ回ったり、石段を上ったりしながら探索した。木の根が地面を盛り上げ、古い狛犬は片方だけ首が欠けていた。
そのときだった。
「何してるの?」
声がした。
飛び上がりそうになって振り返った。
女の子が立っていた。




