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409『鶴岡山の激突・十 猛虎の反撃、逃げる光秀、立ちはだかる稲葉一鉄(カケルのターン)』

 明智光秀が、鶴岡山に火をかけた。炎はジリジリと山裾から広がり始めた。


「さあて、どう出る赤備えの謎の男よ」


 光秀は、側に控えた家老の斎藤利三にだけ聞こえるように漏らした。


 比叡山焼き討ちの進言を織田信長にしたのも明智光秀だ。この時代の名のある寺社仏閣の主には天皇家ゆかりの者や摂関公家の血筋の者が務めた。


 光秀は、それすらお構いなしに、信長が掲げた「天下布武」の旗印に従って、神をも恐れぬ冷酷な助言をしたのだ。


(我が、主ながらこのお方の先は……)


 ふと利三の頭によぎった懸念は、次の瞬間にはかき消された。黒煙の中から芥子色の甲冑と槍を振るう“鶴岡山の猛虎“下条智猛が水色桔梗の旗印を次々に薙ぎ倒して、明智の本陣へ乗り込んで来たのだ。


「お前か、明智光秀は!」


 顔に返り血を浴びた血に飢えた虎がそこにいた。真っすぐ光秀をその眼に捉え、今にも飛び掛からんばかりだ。


 光秀は、一瞬、智猛と視線を合わせると、逸らさずに、利三に目配せして自分の周りを側近たちで固めさせた。


「こいつは危険だ。利三、後は任せた」


 そう言って、光秀は陣を捨て逃げ出した。


「待て、明智光秀!」


 怒りに狂う智猛の咆哮が、木霊した。



 北面の山岡では、“武田の赤備え”の猛攻を受けて、汚名挽回と意気をあげる池田隊粘り強くが善戦している。


 南面の吉良見では、秋山虎繁が、捕らえた河尻秀隆の嫡男・秀長を見世物にして、秀隆と友軍の長谷川秀一の前を通り、織田信忠が陣を構える八王子神社へ進んで行く。


 鶴岡山を巡る攻防は、兵に勝る織田軍の方が山県昌景の薫陶を受けた漢たちによって押し込まれている。


 しかし、この混戦を極める織田家の戦場においてただ一人、冷静に静観している漢がいる。稲葉一鉄その人だ。


 一鉄は、信忠への援軍のていを取ってはいるが信長から密命を帯びている。


「明智光秀の首を獲れ!」


 それは、カケルと左近が心身転生し、戦国時代と現代で入れ替わり、現代にいた左近が奈良の信貴山に己の出自を辿って訪れた時、時空を開いてこの時代に持ち込んだ歴史の教科書を信長が手に入れ“本能寺の変”を知ったためだ。


 だが、信長は己が野望天下静謐には、まだまだ、汚れ役を厭わない明智光秀の才格は欠かせないと承知している。

 左近が持ち込んだ歴史の教科書が理由で、織田家の宿老格の明智光秀をそれだけの理由で討ったと言えば、信長の権威に傷がつき他の臣下の心が離れる。


 そこで、跡継ぎの信忠が総大将を務める鶴岡山攻略戦に、援軍として稲葉一鉄と長谷川秀一、そして、嶋左近カケルを派遣したのだ。


「戦のどさくさに紛れて、“光秀の首を獲れ!”との密命を与えて――」



「今だ!」


 一鉄は、智猛に崩され、陣を下げつつある明智光秀の動きを見逃さず采配を振るった。


 それは、明智の撤退を支援するように見せかけて、稲葉の兵を混ぜ込むように――。


 稲葉一鉄は、家族の結束を第一に考える漢だ。その結束あればこそ、金ケ崎の撤退戦も無事に返れたし、伊勢一向一揆の混乱も切り抜けた。


 そんな稲葉家の結束を乱した男がいる。それが同じ織田家にある明智光秀だ。一鉄の用兵術の要である娘婿・利三を引き抜いたのだ。


 光秀が、どんな条件で利三を引き抜いたかは知らない。稲葉家は信長の親衛隊的位置づけで与力の立場を出ないし、それ以上を一鉄は望まない。


 明智家は、光秀が足利将軍家から織田に鞍替えしてからはメキメキと頭角を現し、林秀政、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀に次ぐ譜代家老を除くと筆頭の立場だ。


 利三も一鉄と反りが合わないとか、自分の立場に特別不満があったわけではないが、光秀が囁いた。


「明智に来れば、天下取りの陣に加えてやる。稲葉に居ては、一国一城の主には一生なれぬぞ。明智ならそれができる」


 利三は、舅・一鉄の元で学んだ用兵術が天下取りにどこまで通用するかの誘惑に駆られた。男である以上、天下に名を轟かすのは夢だ。そこを光秀にくすぐられた。


 利三、明智へ出奔の報を聞いた一鉄は、烈火の如く起こって、あの信長をしても宥めるのに手を焼いた。稲葉一鉄と言う漢は、“頑固一徹”の代名詞になるほどの人物であるから、家族の結束の信念を曲げないのだ。


 信長は正月の大評定で、一鉄に詰め寄られたが、その時、明智家に渡辺勘兵衛を名乗って仕えていた島左近と交換することで一鉄の体面を保った。


 そのこともあって、一鉄は光秀には忸怩じくじたる物がある。この度、信長から得た密命「光秀の首を獲れ!」はまさに適任なのだ。


 その機会が来た。明智軍撤退の中に、稲葉の兵を混じり合わせて、一鉄は光秀を探した。


 光秀は、徒士で雑兵たちに混じって混乱の中を信忠のいる八王子神社を目指して逃げて行く。


 光秀を目で捉えた一鉄は、騎馬を近づけた。そして、槍を振るって、その首を刈った。


 ブンッ!


 光秀は、幸いに草履の鼻緒が切れて、一鉄の槍を交わした。自分に向けられた槍の切っ先に目を見開いた。逃げようともしない。


「稲葉殿、ワシを討てと大殿の命令か?」


 光秀は、あべこべに一鉄の密命を読み取っていた。


「御免!」


 すぐに、一鉄は二合目を放つが、今度は、光秀も腰の刀を引き抜いて防いだ。


「稲葉殿、誤解じゃ。大殿が持っていた書物はワシが献上したのだ。ワシは将来“本能寺の変”などは、もう起さぬ。誰が好き好んで、三日天下であの“猿”に天下をくれてやらねばならぬのか」


 光秀の言葉に、一鉄は槍を放つ手を止めた。


「明智殿は、大殿亡き後は、お前ではのうて羽柴殿が天下を獲ると言うのか」


 光秀は、大きく頷いた。


「そうだ、悔しいが、あの書物に寄れば、俺に味方する者は居らなんだ。何が悲しゅうて俺は自分の死の道を歩まねばならんのだ。そこまで俺は阿呆ではない」


「では、どうする?」


 光秀は、実直な一鉄の問いに答えた。


「俺は、あの本に在った“猿”の次、徳川殿に賭けるよ。どうだ、稲葉殿俺に乗らんか?」


 光秀に取引を仕掛けられた一鉄は、突き立てた槍を握りなおして、力を込めて光秀目掛けて振り下ろした。


「稲葉殿、わからぬのか!」


 光秀の叫びとも嘆きとも取れる声を討ち取るように一鉄は容赦ない。


「ワシには、誰が天下を獲ろうが関係ない。曽根の地に、稲葉の家が在り、そこでいつまでも家族と共に暮らす事こそ大事!」


 さすが、頑固一徹。光秀の取引になど応じない。だからこそ、信長は一鉄に命じたのだ。


 ヒューッ!


 一鉄と光秀の間に、鶴岡山・山岡の方から矢が飛んできた。


 見るとそこには小隊だが見慣れぬ六文銭の旗印が翻っていた。鶴岡山の頂で戦局を見極める智猛の嫡男・智林の伝令が動かしたのだ。


 これ、幸い。光秀は、この隙に逃れ来る己が兵を押しのけて紛れ込み身を隠し逃亡した。


「明智光秀悪運強い男だ」


 と、一鉄は光秀を見送って、はためく六文銭を睨んで振り返り、馬首を返し槍を握りなおした。


 つづく


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