上手くいった
それから、私の手首を強引に引っ張った。まるで、何か焦っているみたいに。
「ユウキ、痛い。いたいよ」
手首から伝わるユウキの体温はとても熱くて、私は怖くなって何度も呼び止めた。本当は痛くなんてなかった。私は、そう言ったらユウキが立ち止まってくれることを知っていた。
「……ごめん」
いつもは静かで冷たい滝の、水音がそう感じさせなくする。沈黙を突き破るように、激しい音が耳をつんざく。水飛沫が頬の上で跳ねて、私はそれを邪魔気にする。
ユウキは、静かに手を解いた。ぎこちなく、その手はその手はそのままぶら下げて、へらっと笑った。そうして、また、先を歩いていった。
「シイはさ、いつまでこの町にいるの」
今度は私の歩調に合わせてくれる。森を降り始めてからここまで、一言も話さなかったユウキが、いつも通りの声のままそう言った。強い力も、焦ったような横顔も、熱も、無かったことにするみたいに笑っているのは、一目瞭然だった。
「わかんない」
「転校してくるの」
「わかんない」
「どうして」
泣いてしまいたかった私も、だから笑った。
「わたしが決めることじゃないから」
ユウキを見つめた目線をそらした私は、葉と葉の間に見える青空をふと見つめた。そうして、何も怖くないさと言い聞かせてみる。泣き出しそうな目を一瞬だけ瞑って、唇をしっかりと結んだ。
「どうして」
ユウキはそう繰り返した。
「どうして自分のことなのに曖昧なんだよ。そうやって適当にして、満足なのかよ」
時折冷たい風が突き抜ける。今にもしたたりそうな深い緑が、赤く色づいてきた陽の光に照らされながらゆっくりと揺れる。そんな景色を見つめながら、視線を落とした。
すごく静かな声だ。でも穏やかじゃない。ずっと感じていたユウキの違和感を、定着させるみたいにユウキは私と視線を合わせた。足も、止まった。
「シイは、ほんとにそれでいいと思ってる?」
どうかな、と私は答える。それから、ふっと小さく笑ってみた。もうユウキは、笑い返してはくれなかった。
ユウキが今、どうしてこんな話をするのかはわからなかったけど、本当のことを言ったらいけないことはわかった。優しいから、きっと傷つける。背負ってしまう。もう、これ以上、頑張って欲しくない。そう思った。
今は弱くなっては駄目だ。そう思ったんだ。
「でも、我慢すれば、誰も傷つかないよ」
「なに?」
「誰にも、迷惑かけないよ」
もういいよ。ね、だから早く、行こ。
ユウキの目頭が少しだけ赤く色づいていたのに気づいてしまって、私はユウキの手のひらを掴んだ。いっぱい笑って、今度は私が引っ張った。涙の訳を聞けないまま、混乱したまま、私は前だけを見てた。
「今日はいい天気だね。風が気持ちいいな。颯太も、来れば良かったのにね」
ユウキの責めるような目を初めて見た。ユウキは誤魔化す時、手のひらが熱くなることも、初めて知った。ユウキの涙を見たのも、初めてだ。そう、私はこの人のことを何も知らない。きっと、颯太のことだって。
なのに今、何も知らない振りのまま、どうにか傷ついて欲しくないと願ってる。
唇を強く噛んだ。じわじわと広がる鉄の味が、なんだか懐かしくて、また苦しくなる。
「颯太にさ」
何か押し殺したみたいな声で、ユウキは私の言葉を遮った。鼻をすする音と、強い声に焦ってしまって、手を離しそうになって、慌てて握り直した。
「颯太にさ、同じこと、聞いたんだ」
「え」
「最後に会った日に」
立ち止まりそうになった足を、必死に動かした。一歩ずつ、動け動けと念じながら、恐る恐る言葉を返す。
「颯太は、なんて答えたの?」
「……お前ら、似てるよ。ほんと」
私の予想とは反した、ユウキ自身の答えが、一瞬理解出来なかった。
「ほんと」
だからまた、黙って笑って誤魔化した。
ユウキが言葉を反芻する。二度繰り返された『本当』に、また曖昧な返事を返すつもりだった。その時だった。
ユウキは、私の手を振り払った。
「ふざけんな」
驚いて振り返った時、一瞬だけぼろぼろ零れ落ちる涙が見えた。途切れかけた乱暴な言葉に、一瞬、息が詰まった。ユウキはそれを腕で雑に拭って、それから崩れるように座り込んだ。
小さな嗚咽が、静かな森には響いて、瞬時に間違えたと思った。
◇◇◇
今思えば、あの時、おもいきり泣いてわめいてしまった方がよかったのかもしれない。そうしたら、きっと、もうちょっと上手くいった。




