撫でた
あきらめないよ。そう呟いて見上げた空が、一瞬だけ翳った。鷲が遠くで鳴いた。
私がこの町にいられる時間は、もうきっと、長くない。だから早く。
逃げろ。あの日私は、そう強く望んで消えた。逃げたんだ。だから、早く。
早く。
「ごめんね」
今度こそ、間違えないようにしよう。
頬を叩く。こんなにも熱い陽を浴びてもなお冷たい私の手は、汗を弾いた。引きつった音が、気持ち悪く喉を震わせた。怖くて。
少し歩いて、深く息を吸い込んでから思い切り地面を蹴った。苦しいくらい暑い風の塊を、切って走る。走る。風が背と髪を引き剥がす。まるで、私を引き止めるみたいに髪は流れていく。それに逆らうせいでどんどんと乱れていくような気がして、髪留めを思い切り引っ張って解いた。
甘えてしまわないように、喉の奥から突き上げてくる嗚咽も必死に堪えた。乱れた息に掻き消した。
颯太はどこへ行ってしまったのか。ユウキはそれを知っている。私は知らない。
いつか、こんな日がくるんじゃないかってずっと思ってた。颯太の記憶が混乱し始めた時、颯太は、きっと確かめに行くだろう。そう、わかってた。
記憶の屑が、颯太を責めるの。ずっと、ずっと、わかってたことだから私は、どうしても助けたかったんだ。
校門の前で立ち止まった。一度だけ、内緒で忍び込んだこの町の小学校。記憶よりも少し古ぼけたその外観が、それでも懐かしくてふと笑みが溢れた。
中を覗いて、様子を確認する。右も左もしんと静まり返った校内には、変わらず暑い陽が差し込んでいる。一歩足を踏み入れて、すっと肌寒いような感覚がしたのは、きっと気のせいだと思う。
ここから数えて、六本目の桜の木の下に。指を指して一本一本確かめた。六本目の木の下の景色は、昔と何も変わってはいなかった。この学校で一番大きな木なのだと、得意気に話す幼いユウキがよぎる。あの時はみんな笑っていた。
しゃがみこんで土の上に手をかぶせてみる。葉の陰になってひんやりと冷たい。土はほんのり湿っていて、爪を少し立てれば少しだけ埋まっていった。そのまま掻き出した。指を立てて、少しずつ、土を掘り起こしていく。
――タイムカプセル。この言葉を初めて知ったのはもっと幼い頃だけど、実物を見たのはあの夏だ。私たちのタイムカプセル。大人になったら掘り起こそうねって、そんな約束はしなかった。埋まったままだって良かったんだ。ただ、私たちはあの時、何もかもここに託した。
熱さに良く似た痛みが指に走る。やっぱり少し大変みたいだ。思ってたより土が硬いんだ。水でもかけてみようか。そう思って立ち上がった。
「あ、やっぱり、千崎さんだ。何してんの!」
遠くで声がした。陽炎で滲んでよく見えない。
「やだ、ちょっと、ほんと何してんの。土まみれじゃん」
同じ制服がひらひら揺れて、何となくわかった。彼女は手を目の上に翳し、大きく笑ってからゆっくりと近づいてくる。
「高田さん?」
「なんでちょっと疑問形なんだよ!」
彼女があんまり笑うので、身なりを見直してみれば、この白い制服も手も足も、まるで外で思い切り遊んで帰った子どもみたいに汚れてしまっていて、私もなんだか笑えてしまった。
「だめだよ、素手で。ああほら、血出てるし!」
◇◇◇
この町に来たばかりの私は、周りの大人たちについていくことに必死でひたすらに俯いていた。大人の足跡を、歩幅を、ずっと見つめていなければはぐれて置いていかれてしまいそうで怖かった。だから本当はよそ見なんてしてはいけなかったのだけど、いつの間にか忘れてしまっていた。違う。忘れてしまおうと思ったんだ。
夏の中盤、颯太が森に来なくなった。その頃から、祐樹のいたずらっ子のような笑顔もあまり見なくなった。
二人の間で、きっと何かあったんだ。すぐにわかった。わかったけど、何も聞けなかった。私はまだ、二人のことを何も知らなかったから、割って入っていくのは間違いだって、思った。待ってみようと思った。
祐樹は黙々とバイオリンをいじっている。前みたいに、好きなように、自由に、演奏するユウキの姿はここ何日か見ていない。それでも、私がスキャットを口ずさめば黙って伴奏を添えてくれる優しさは変わってなかった。ありがとうと言えばちゃんと返事が来ることも、少しだけ笑ってくれることも嬉しくて、私も笑った。少し前までなら、当たり前のことだったのに。早く、早く颯太が帰ってくればいいのに。そう、毎日思ってた。
毎日毎日、森の空気が冷たくなっていく。夏の終わりが近い。だけど、きっとそれだけのせいじゃない。
「ねぇ、シイ」
今日で、ちょうど七日目。風のない穏やかな日だった。ユウキが突然伴奏をやめた。
「颯太のとこ、行こう」
そう言ったユウキの表情は、少し怖くて、私はすぐには何も言えなかった。心臓の音が早くて大きくて苦しくて、深く吸い込んだ息を何度も呑み込んだ。慌ててそうだねと答えた。
本当は、もっと違うことを言うつもりだった。
「ごめんな、シイ。ちゃんと颯太、戻ってくるから」
だけどその前に、言おうとする前に、一瞬だけユウキが泣きそうな顔で笑ったから何も言えなくなった。何も、言ってはいけないと思った。
次にはもうユウキは、いつもの笑顔で、私の髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。




