私は
側溝を流れる水の音は穏やかだ。艶やかな緑の葉がゆらゆら、時折大きな石につまずきながらのんきそうに消えてった。水面に、眩しいくらいの青空が溢れていた。
あの日も、こんな空だった。あんな入道雲も、あったっけ。
俯いてしまった。そんな場合じゃないのに。
駆けていたはずの足は、いつのまにか止まってしまっていた。大丈夫と自信を持った唇は、もう震えてしまった。
ユウキに言った言葉は嘘じゃない。私は、ユウキは本当は、颯太の居場所を知ってることを、知ってる。確証はない。だけど。
「……おれは大丈夫だから」
――私は、もうとっくに、颯太の中で『千崎さん』になってしまっている。そんなことはずっとわかってた。
だからこそ、あの日の屋上でユウキを『有川』と呼ぶ颯太の横顔が、昔と何も変わっていなかったことに、酷く困惑したのだ。本当は、何も変わっていなかったのかな、そんな風に有り得ない思考を巡らせて、私はあの時、何を考えたのだろう。
「きっと、ユウキもシイも忘れない。ずっと、三人で」
『颯太』の、あの日の『颯太』の言葉をゆっくり呟く。
ね、大丈夫だよ。心の中で呟いた。私はまだ忘れてない。きっとまだ大丈夫。
「止まったら、だめ」
ぐっと奥歯を噛み締める。泣かないように深呼吸を繰り返して、また前に進みたかった。……ばかみたい、さっきは背中を押したのに。
大丈夫だよ、ユウキ。自信を持っていいんだよ。ね、あなたが今、向かうべき所は、ずっと前から決まっていたはずだから。どうか、怯えないで。
「だめ、なのに、なぁ……」
願う。心から。だって今は、これしか。
太陽を見上げた。瞑った瞼の隙間からきらきら光が漏れて、目が、痛くて。
熱を孕んだ風が、髪を流した。首筋が熱くて、なんだかくすぐったい。手の甲で、首元に残っていた髪の束を振り払うと、少し指に絡まって、それを少しの力を込めて解いた。
大好きな歌を口ずさむ。幼いユウキのバイオリンを必死に思い出して、途中でくすっと笑った。緑の風、森のにおい、セミの声……思い出。全部憶えてる。まるで、颯太の代わりみたいに、しっかりと焼きついている。
颯太は、少しずつ少しずつ、いろんなことを忘れていく。まるで何もなかったみたいに。
小学生最後の夏休み。はじまりは、あまりに唐突だった。ユウキが最初に気がついた時にはもう、その不思議な病は、颯太をすっかり変えてしまっていた。
「だいじょうぶ、じゃない。誰も、だいじょうぶなんかじゃ、ないよ。ねぇ、颯太」
泣かない。私は、泣かない。絶対。そう決めたんだ。
「ユウキのこと、憶えていて欲しかったの。それだけで、よかったよ」
颯太を責めたいわけじゃない。颯太は何も、本当に何も悪くない。
だけどあの時、不安げなユウキの表情を見たら、わからなくなった。わからないから、私は何もかも傷つけてしまった。
悪ものは私。だから、忘れてしまっていいんだ。忘れることが正しい、そう思った。
わたしが、色、着けるの。着けたい。だめかな。初めて言えた願いに、彼は笑って叶えてくれた。涙が出そうだった。嬉しくて、切なくて。
「私のことを、最初に忘れてしまってって、ずっと……」
あなたの変わらない優しさのせいで、私はまた望んでしまった。思い出してよ、なんて。
謝りたい、って。
「そうしたら、さ。きっと、誰も悲しくないから」
せめて今、罪滅ぼしさせてよ。『千崎』で、いいからさ。
歌う声が震えて、途切れた。指先が震えた。
手のひらを見つめる。ぎゅっと握って、胸に当てると、ひんやりと冷たかった。昔からそうだった。彼はこの手を、好きと言ってくれた。酷く熱かった彼の手のひらは、確かに繋いでくれた。それが、私に出来る精一杯だった。
だったら、今の私に出来ることは何もないじゃないか。この答えは、決して突飛なものじゃない。それでも、私は。