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夏跡  作者: 南野李茶
19/28

私は

 側溝を流れる水の音は穏やかだ。あでやかな緑の葉がゆらゆら、時折大きな石につまずきながらのんきそうに消えてった。水面に、眩しいくらいの青空が溢れていた。

 あの日も、こんな空だった。あんな入道雲も、あったっけ。


 俯いてしまった。そんな場合じゃないのに。


 駆けていたはずの足は、いつのまにか止まってしまっていた。大丈夫と自信を持った唇は、もう震えてしまった。

 ユウキに言った言葉は嘘じゃない。私は、ユウキは本当は、颯太の居場所を知ってることを、知ってる。確証はない。だけど。




「……おれは大丈夫だから」


 ――私は、もうとっくに、颯太の中で『千崎さん』になってしまっている。そんなことはずっとわかってた。

 だからこそ、あの日の屋上でユウキを『有川』と呼ぶ颯太の横顔が、昔と何も変わっていなかったことに、酷く困惑したのだ。本当は、何も変わっていなかったのかな、そんな風に有り得ない思考を巡らせて、私はあの時、何を考えたのだろう。


「きっと、ユウキもシイも忘れない。ずっと、三人で」


 『颯太』の、あの日の『颯太』の言葉をゆっくり呟く。

 ね、大丈夫だよ。心の中で呟いた。私はまだ忘れてない。きっとまだ大丈夫。


「止まったら、だめ」


 ぐっと奥歯を噛み締める。泣かないように深呼吸を繰り返して、また前に進みたかった。……ばかみたい、さっきは背中を押したのに。

 大丈夫だよ、ユウキ。自信を持っていいんだよ。ね、あなたが今、向かうべき所は、ずっと前から決まっていたはずだから。どうか、怯えないで。


「だめ、なのに、なぁ……」


 願う。心から。だって今は、これしか。

 太陽を見上げた。瞑った瞼の隙間からきらきら光が漏れて、目が、痛くて。

 熱を孕んだ風が、髪を流した。首筋が熱くて、なんだかくすぐったい。手の甲で、首元に残っていた髪の束を振り払うと、少し指に絡まって、それを少しの力を込めて解いた。

 大好きな歌を口ずさむ。幼いユウキのバイオリンを必死に思い出して、途中でくすっと笑った。緑の風、森のにおい、セミの声……思い出。全部憶えてる。まるで、颯太の代わりみたいに、しっかりと焼きついている。



 颯太は、少しずつ少しずつ、いろんなことを忘れていく。まるで何もなかったみたいに。

 小学生最後の夏休み。はじまりは、あまりに唐突だった。ユウキが最初に気がついた時にはもう、その不思議な病は、颯太をすっかり変えてしまっていた。


「だいじょうぶ、じゃない。誰も、だいじょうぶなんかじゃ、ないよ。ねぇ、颯太」


 泣かない。私は、泣かない。絶対。そう決めたんだ。


「ユウキのこと、憶えていて欲しかったの。それだけで、よかったよ」


 颯太を責めたいわけじゃない。颯太は何も、本当に何も悪くない。

 だけどあの時、不安げなユウキの表情を見たら、わからなくなった。わからないから、私は何もかも傷つけてしまった。

 悪ものは私。だから、忘れてしまっていいんだ。忘れることが正しい、そう思った。

 わたしが、色、着けるの。着けたい。だめかな。初めて言えた願いに、彼は笑って叶えてくれた。涙が出そうだった。嬉しくて、切なくて。


「私のことを、最初に忘れてしまってって、ずっと……」


 あなたの変わらない優しさのせいで、私はまた望んでしまった。思い出してよ、なんて。

 謝りたい、って。


「そうしたら、さ。きっと、誰も悲しくないから」


 せめて今、罪滅ぼしさせてよ。『千崎』で、いいからさ。


 歌う声が震えて、途切れた。指先が震えた。

 手のひらを見つめる。ぎゅっと握って、胸に当てると、ひんやりと冷たかった。昔からそうだった。彼はこの手を、好きと言ってくれた。酷く熱かった彼の手のひらは、確かに繋いでくれた。それが、私に出来る精一杯だった。

 だったら、今の私に出来ることは何もないじゃないか。この答えは、決して突飛なものじゃない。それでも、私は。




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