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41・エピローグ3

 学校近くの公園は、初夏の夕暮れ特有の、オレンジ色をさらに濃く煮詰めたような西日に包まれていた。


 放課後の喧騒からは少しだけ切り離されたその場所で、蝉時雨が本格的に始まる前の、どこか物憂げな静寂が木々の間に溜まっている。


 ベンチに並んで座る俺たちの影は、アスファルトの上で細長く、そして不器用に重なり合っていた。


「はい、悟君。あーん」


 さやか先輩が、プラスチックのスプーンを俺の口元に差し出した。


 そこに乗っているのは、駅前のコンビニで一つだけ買った、少し高めのカスタードプリンだ。あの日、彼女の部屋に持ち込んだ「六個のプリン」のような悲壮感は、どこにもない。


 俺は、一瞬だけ周囲を気にして視線を泳がせた。


 数メートル先を通りがかった仕事帰りらしい男性が、俺たちの姿を一瞥して、何とも言えない気まずそうな顔で歩を早めていく。さらにその向こうでは、散歩中の親子連れがいた。三歳くらいだろうか、おませそうな女の子が「ねえ、なにしてるのー?」と無邪気にこちらへ近づこうとしたが、母親が血相を変えて「邪魔しちゃいけません!」と言わんばかりにその手を強く引き、足早に去っていった。


 客観的に見れば、俺たちは今、紛れもない「バカップル」として世界から浮いている。


 かつての俺なら、その視線に耐えきれず、合理性を盾にしてこの状況を拒絶していただろう。だが今は、その羞恥心さえもが、どこか心地よい熱を持って胸の奥に居座っていた。


「……いただきます」


 俺は観念して、さやか先輩が差し出したスプーンを口に含んだ。


 舌の上で溶ける濃厚な甘み。それは、あの日彼女が独りで抱えていた焦燥や、俺が隠し持っていた不誠実な後ろめたさを、優しく塗り潰していくような味がした。


「おいしい?」

「……はい。すごく」


 俺の短い返事に、さやか先輩は花が綻ぶような満面の笑みを浮かべた。


 その笑顔を見ているだけで、視神経を通じて脳内に甘い痺れが走る。


 すると、さやか先輩が少しだけ上目遣いになり、頬を朱に染めて口を開いた。


「ねえ、悟君……今度は、私にも……『あーん』、して欲しいな」


 その言葉に、俺の心臓が跳ねた。


 これまでの彼女なら、そんなことは口にしなかったはずだ。彼女にとっての愛とは、常に「与えること」と同義だったから。甘すぎる卵焼きを詰め、プリンを運び、自分の限界を超えてまで練習に励む。そうやって自分を削って「与える側」に回ることでしか、彼女は自分の存在価値を証明できなかった。


 けれど今、彼女は「与えられる側」に回ることを強請っている。


 自分が愛され、何かを受け取るに値する存在なのだと、彼女が自分自身を許し始めた証拠だった。


「……分かりました。……行きますよ」


 俺は震える手でスプーンを持ち、残りのプリンを慎重に掬い上げた。


 まるで壊れやすい宝石を運ぶような手つきで、ゆっくりと彼女の唇へと運ぶ。


 さやか先輩は、期待に胸を膨らませる雛鳥のように、愛らしく目を細めて口を開けた。この時俺がさやか先輩から感じたのは、本日二回目となる間接キスへの初々しくて激しい興奮ではなかった。彼女からは「与えてもらう」ことに対しての、静かで落ち着いた、それでいて自信に満ちた余裕が溢れていた。


 スプーンが彼女の口内に吸い込まれ、彼女がそれをゆっくりと味わう。その一連の動作を、俺は瞬きも忘れて見つめていた。


「……えへへ、悟君の手から食べると、もっと美味しいね」


 照れ隠しのように笑う彼女を見て、俺は深い安堵に包まれた。


 今のさやか先輩には、かつての「尽くさなければ捨てられる」という悲痛な必死さも、自分を「ダメな子」と断じる絶望も、もう感じられない。


 完璧ではない自分。失敗し、迷い、それでも愛する人の隣にいようと足掻く自分。


 そんな「ありのままの自分」を、彼女がようやく受け入れ始めていることを、俺は肌で感じていた。


 能力を意識的に使わなくても、周囲の雑音が遠のいていくのが分かった。


 さやか先輩から溢れ出す、早鐘のような鼓動。


 そして、それに応えるように、俺自身の胸の奥で激しく打ち鳴らされる心臓の音。


 それはもう、どちらがどちらの音なのか判別がつかないほどに重なり合い、共鳴していた。


 俺は、自覚せざるを得なかった。


 超能力で心を覗く必要なんて、最初からないのだ。


 この胸の痛み、この体温の昂ぶり、そして目の前の少女と共に、明日を、未来を「共に高め合いたい」と願うこの静かな情熱。


 俺は、この「さやか先輩」という一人の少女に、跡形もなく惚れ抜いている。


 やがて、空のプリンカップを袋に片付けると、さやか先輩がふと思い出したように俺の顔を覗き込んできた。


「ねえ、悟君。……夏休みは、どうしようか?」


 その問いかけに、俺は少しだけ虚を突かれた。


 期末試験という巨大な嵐が過ぎ去り、俺たちの前には、学生にとっての長く、そして自由な聖域——夏休みが目前に迫っていた。


「……そうですね。いろいろ、考えないといけませんね」


 俺は、初夏の夕暮れの日差しの中で、ゆっくりと視線を上げた。


 やりたい事はいくらでも思いつく。海、祭り、花火、あるいは勉強。


 俺は、隣に座るさやか先輩の、少しだけ熱を帯びた指先に自分の指を絡めた。


 さやか先輩が驚いたように肩を震わせ、それから嬉しそうに、俺の指をぎゅっと握り返してくる。


 不純な俺と、不器用な彼女。


 俺たちは、この七月の夕闇が降りてくる公園で、どこまでも広がる「二人の夏」という未知の季節に思いを馳せ始めた。


 もう、心の声を聞く必要はない。


 絡め合った指先から伝わってくる、この確かな拍動だけが、俺たちにとっての唯一の正解なのだから。


「……色々行きたいところはありますが、まず、今すぐ行きたいところがあります」

「えっ、どこ?……今すぐ?」


 驚きつつも期待で目を輝かせるさやか先輩に、俺は少しだけ真面目な顔をして答えた。


「ついて来てください。こっちです」


 その言葉に、さやか先輩もピンときたらしい。


 行き先を告げない「ついて来て欲しい」という言葉。けれど、その足取りが向かう先は、この学校近くの公園から歩いて行ける距離にある、特定の場所を指していた。


 西日に引き延ばされた二つの影が、アスファルトの上で寄り添いながら進んでいく。


 一歩、また一歩と、終わろうとしている今日という時間を惜しむように、俺たちはあえてゆっくりとした歩調を刻んだ。


 角を曲がり、見慣れた景色が重なり合うたびに、さやか先輩の瞳に確信が灯っていく。


 その先に待っているのは、あの日——俺たちのすべてが始まった、あの「初めてのデート」の場所だった。


 かつては偽りの言葉で塗り固めていたその場所に、今はただ、ありのままの二人の足音が響いている。


 美容院という口実を抱えたまま、俺は隣を歩く彼女の温もりを、その指先から伝わる確かな拍動を、一秒でも長く感じていたかった。

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