18
完結です。ありがとうございました!
「それは私と彼女の問題であって、王女殿下には関係のないことです。率直に申し上げてしまって大変申し訳ありませんが、私が彼女を許そうと許さまいと、私があなたを愛することはどの人生でもありませんから」
フィニアスはいっそ冷酷ともとれる声で王女の問いをはねつけた。
王女は答えを期待していなかったのか、それほど傷ついた表情はせずにフィニアスの前から退いた。
「最初から……そうやってはっきり言ってくれれば良かったのよ。あなたのことを本気で好きなのに、小手先で対応されたら逆に執着してしまって諦められないもの」
「私は……王女殿下の人となりの認識を間違っていたようです」
フィニアスは王女に礼をとってから横を通り過ぎる。
王女はフィニアスに縋るように一瞥したものの、実際に縋りはせずに呆然としていた侍女を促して馬車のある方へ行ってしまった。
王女が遠ざかって、フィニアスが近づいてくる。
エリーとヴァルターはなぜか目配せして、もう暴れていないミストを二人がかりで受け取るとささっと声が聞こえない辺りにまで下がった。
ミストはフィニアスのことを睨んでいるものの、手出しはしないようだ。
フィニアスは私の前までやってくると、黙って私の頬を撫でながら腹に視線を落とした。
前回が私にとって前世になるのかは怪しいが、フィニアスたちにとっては前世において、先ほどの王女のように私もフィニアスと会話さえしていればこんなことにならなかったのだろうか。
「エルフリーデはすべて思い出したのか?」
「……フィニアスに死を迫ったことは覚えている。天界を追放されたことも。でも、なぜフィニアスの屋敷にいたのかと、あとこれについては本当に全く思い出せない」
私は出ている腹を撫でる。中でまた胎児がうごめく感触がまたあった。今日はよく動いている。
フィニアスは腹を撫でる私の手の上に自身の手を重ねた。
「私はフィニアス以外とはこういうことなどしていないと、言い切りたいのだがな。こうなってはとても信じられないだろう」
沈黙がしばしの間落ちる。木々の葉のこすれる音だけがしばらく聞こえた。
「あなたが天界から追放されたのは……私を戦争で死なせなかったからか」
「そうだ、フィニアスはあの戦争で死ぬはずだった。私が勝手に阻止した。ただそれだけだ」
フィニアスの翡翠色の目がずっと私を捉えている。頬のあたりに焼けつくような視線を感じるのだ。
前回、フィニアスはいつもこんな目で私を見ていた。
「どうしてエルフリーデは……私の屋敷の庭に記憶喪失の妊婦として現れたのだろうとずっと考えていた。神が与えてくれたのか、それともあなたが私を忘れられないからなのか。それとも逆か」
「私は記憶喪失だったぞ。すっかりフィニアスのことを忘れていた。それに、フィニーなんて呼んだことはないじゃないか。あれは私を試したのか」
フィニアスが首を傾げる気配がする。
この狩猟大会に向かう馬車の中での会話だ。フィニアスがやがてふっと笑う気配がする。
「いや、一度だけある。寝ぼけてあなたは私をそう呼んだ」
「それは覚えていないな。やっぱりまだすべては思い出していないな」
私は昼寝などしない。妊婦の場合は別だが。
だから、フィニアスの言う寝ぼけているはそういういかがわしい意味だ。
フィニアスとは目を合わせずに、私は自分の腹を撫で続ける。
「でも、エルフリーデは何も変わらない。今回も私に魔術を教えて……あなたは記憶を失っていても何一つ変わらない。いつも自信に溢れていて強くて、私のことは隣に必要ないのではないかと不安になる」
予想外の言葉に視線を上げた。
フィニアスの目とやっと視線がぶつかる。
「おそらく、その弱さに付け込まれたんだろう。でも、私も記憶を失ってもエルフリーデのことを思い出した。あなただってそうだろう。私の香りを懐かしいと嗅いでいた。外的要因で忘れても、心の中にはお互いがずっといたんじゃないか」
忘れていても、なぜかフィニアスは気にかかった。懐かしかった。
フィニアスも私を放り出すことはなかった。
死ねと強要した女なのに。
「それでも、今回私は妊娠している。フィニアス、私はお前を裏切ったのだろう。私はお前が他の女と結婚したことさえ許せなかった。だからお前も私を許す必要などない」
フィニアスの手が腹からまた私の頬に戻る。
微かに震える指は頬を撫でてから私の唇に触れた。
前回は、ずっとこの男と一緒にいるのだと夢見たこともある。
だからこそ、私はフィニアスの裏切りを許せなかった。それほど深く愛したから。
「火に飛び込めと言われたら飛び込むぞ。フィニアスが決めろ」
「……せっかく会えたのに、またあなたを失えと言うのか?」
「こんな私を許せないだろう?」
「関係ない。あなたがいないなら生きている意味がない」
フィニアスは顔を近づけ、私の額に自身の額を合わせた。
前回よくやっていた仕草だ。
「どんなエルフリーデも愛している」
「……本気か? 誰の子供かもわからないのに?」
「本気だ。あなたが私を要らぬと言わない限り。ずっと……なぜあれほど愛したあなたを忘れられたのかと後悔していた。もし再び会えたなら、もう決して手放さないと決めている」
人間に恋などするはずがないと思っていた。
弱くて愚かな人間に。
でも前回に引っ張られていたとしても、記憶を抜かれても再びフィニアスに惹かれたのだ。
「我々ワルキューレは、生まれ変わっても同じ男を愛すらしい」
彼の屋敷の庭に記憶喪失の妊婦として現れたのもきっと、そのせいだろう。
神に記憶を抜かれても、私は彼を心の奥底で求めていた。
ずっと知りたかった、なぜ私は裏切られたのか。
そして私も彼を裏切って分かった。
やっぱり、愛している。たとえ何度忘れても。
「エルフリーデ。あなたに今一度永遠を誓っていいだろうか」
時間をどれほど超えても、私はフィニアスの元を選んだ。
今回同じことが起きても、また何度でも繰り返すだろう。
「強くてふてぶてしい記憶喪失気味の妊婦でいいのなら」
「私は何度でもエルフリーデに惹かれるだろう。敷地内に現れた不審者で記憶喪失の妊婦でも。私が隣にいらないほど強くても」
「私は……フィニアスだから好きになった」
フィニアスの唇がそっと私のものを塞いだ。
今日の狩猟大会が始まる前にもこうやってキスをした。
その時は苦しかったが、今は失っていたものを取り戻したような甘やかな感覚が胸をぐるりと満たす。
キスを終えると、ミストがいつの間にか側に立っていた。
翼をすでに背から出している。
「はぁ……やってらんない。エル姉さままで人間の男と恋に落ちるなんて」
ミストは現れた時は一緒に帰ろうと私に言ってくれていた。
「ミスト、私は帰らないぞ」
「姉さん、その子供産んだらもう人間ですからね。はぁ……ここでその男に手ひどく罵られれば姉さんを取り返せたのに。記憶を取り戻してそういうアツい展開待ちだったのに、なんだってそんな男がいいんですか……」
ミストは可愛く頬を膨らませている。
この子なりに心配してくれていたことは伝わってきた。私だってフィニアスに出会う前なら思っただろう。なぜそんなに弱い人間に恋などするのかと。愛してしまって愚かな姉だと。
「産んだら私は人間というのは、この子供は人間との子供ということか」
神と神の間の子供であれば、その子供も自動的に神である。だからこの場合は私が人間になるということはない。
ただし、人間の男と完全に結ばれた場合はワルキューレは普通の人間の女性になると言われている。
「そりゃ、姉さん。天界から追放されるときにその男との子供を身ごもってましたから。それが分かっていた神は、姉さんが神を裏切った罰として記憶を奪ってお腹の子と一緒に人間界に堕としたんですよ。人間界と天界で時空が歪んでるんで、その男とかは生まれ変わってるわけですけど」
ミストの言葉を咀嚼してから、慌ててフィニアスを見上げる。
フィニアスも驚いたように私を見つめていた。視線が絡んで、フィニアスはそのまま私の腹をおそるおそる撫でる。
「では……私はフィニアスを裏切っていなかったのか」
「姉さんが裏切ったのは最初から神だけですよ。だからちょっと怒った神はその男を試したんです。はぁ……しかもその男さぁ……神の『記憶喪失の妊婦を愛せよ』なんて試練を乗り越えるなんて思わないじゃないですかぁ。普通『他の男と関係持ちやがって、裏切ったな!』って怒るとこですよ。その男が乗り越えられなかったら姉さんを連れて帰れたのに。その時はお腹の子供もなかったことになるけど」
フィニアスがミストの恐ろしい言葉に反応して、私を抱きこむ。
ミストはその動作さえも面白くないらしく顔を酷く歪めた。
狩猟大会が始まったのは昼過ぎだったが、騒ぎのせいですでに日が傾きかけている。雲間から一筋の光が現れて、ミストや私たちの体を夕陽色に染めた。
「姉さんはこの弱っちい男で本当にいいんですか? 人間になることを後悔しません? 今ならまだ戻れますよ」
フィニアスに抱き込まれながら、私はミストの膨らんだ頬をつつく。
「私は何度繰り返してもフィニアスを選ぶだろう。報われない運命が報われるその時まで。私は同じことを繰り返して分かったのだ、何度同じことがあってもフィニアスを愛すと」
「……三の姉さまも、同じこと言ってました。嫌ですね、人間を愛したワルキューレってのは。運命って響きは良いけどむしろ呪われているみたい」
ミストは呆れたような泣きそうな表情で翼を使って少し浮き上がる。
「どうかどうか、エル姉さまに勝利が宿りますように」
「あぁ、私の可愛い妹のミストに勝利が宿るように」
ここでの「勝利が宿るように」は「戦争に勝て」という意味ではない。「どうかあなたが幸せに長く生きてください」という意味だ。
ミストは夕陽色に染まる空に舞い上がる。
フィニアスはその美しい光景を見上げながら呟いた。
「私があなたにしたのと同じ目に遭って、そしてどう行動するかを見られていたのか」
「試されて嫌になったか?」
私の記憶を奪って人間界に堕とすまでは、神が決めたことだ。
だが私がどこに堕とされるかまでは……神は細かいことまでは考えないから、私の心がフィニアスを求めたのだ。
フィニアスは私を背後から抱きしめる。
「もう、あなたを忘れて失わないならそれでいい。たとえ、あなたが記憶喪失の妊婦でも」
「これからはずっとともにいよう。それに、人間になるなら私は文字を失う。フィニアスに守ってもらえる女になれるな」
「それでも、あなたはきっと強いだろう」
「まぁな。まずはこの子だな。忘れていて大層心配をかけてしまった。フィニアスが側にいるとよく動いている。きっと強い子供になる」
フィニアスが私を抱きしめたまま、ことさら丁寧に腹を撫でる。
人間界に堕とされる前、私にあったのはフィニアスに裏切られたという悲しみと憎悪だった。
しかし今、夕暮れに染められているのは穏やかで甘い愛だった。
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