18話 ありがとう
心がこれ以上にない程疼きを上げ、目の前の存在を否定する。
それほどまでに異形の怪物は恐ろしかった。
「──」
シルヴィアも何も言えない。
目の前で変わる青年──怪物に畏怖を抱く。
『フオオオオオオオオ!!!』
闇が世界を覆い、光を遮る中で怪物が雄叫びを上げる。
「な、にが……?」
シュウの呆然とした声が場に響いた。
「魔族……? いや、魔物?」
シルヴィアは目の前の存在を自らの知識に当てはめ、もはや人でない事を悟る。
村でのミノタウロス。
あの時のおぞましさがかわいく思えるほどの絶望が背中を駆け巡る。
世界を揺らす咆哮がシュウの心を震わせ、王都に波紋を呼んでいく。
『ウグ、アアアオオオオ!!!!』
化け物の叫びとともに異形の形が浮かびあがり、覆う闇が払われその体の輪郭が露になった。
全長4メートル。
無くなったはずの腕は回復し禍々しい角が、羽が、尻尾が嫌悪感を抱かせてくる。
「ど、どうする、シルヴィア!? こんなのが王都にでも行ったら……」
類を見ないほどの魔物。
ただでさえ魔物に敏感な彼らに魔物が王都内で見つかったとなれば最早混乱どころでは済まない。
王都の通信状態は途絶し、的確な判断は不可能。
また、騎士たちがあの怪物に対抗できるとは限らない。
つまりは、ここで倒さなければならない。
シルヴィアという最大の戦力がいる間に、この魔物を討伐するのだ。
──だが、心は。
「──ぐっ」
心が、魂が悲鳴を上げる。
自らの魂は知っているのだ。
苗床となった青年はもう戻ることがない、と。本能で悟った。
つまりは使い捨て。捨て駒に過ぎない。
彼らが味わった苦痛も、彼が選んだ道も何もかもが誘導され、育てられてきた。
一人の青年の想いを無下にした誰かの嘲笑が手に取るように思い浮かんで、激しい憤りを覚える。
「──」
シルヴィアもそう思ったらしく、唇を強く噛んでいる。
「シュウ。我が儘を言っていい?」
何を思ったのか、シルヴィアはシュウに向け、口を開く。
「なんだ?」
「あの魔物には、手を出さないでほしいの」
シルヴィアから発せられた言葉に、唖然として。
すぐに笑う。
「な、なんで笑ってるの?」
「い、いや。なんでも。──いいよ、ぶちまかしてくれ」
シルヴィアの想いを悟り、拳を突き出し、後押しをする。
──最初から、その予定だったではないか。
これはシルヴィアの物語。
シュウが無駄なことをする余地は何一つない。
だから。もう一度、仕切り直しだ。
立ち向かえ。自らが残した禍根に決着をつけるために。
完成された異形。
見る者が震えあがる姿に、一人の少女が、『英雄』が立ち向かう。
最早、人の意思など残ってすらいない化け物に終止符を打つために。
一歩、また一歩と進んでいく。
『オオオオオオオオ!!!』
目の前に映る至高の存在に、怪物が震える。
先手を切ったのは、シルヴィアだった。
霞むほどの速度で、怪物に肉薄しその体を刻み付け──。
「──っ」
効かない。
効いていない。
圧倒的なほどの固さを誇る胸板に押され、剣は通らなかった。
対して怪物は。
シルヴィアの動きとは正反対で、ゆっくりと腕を天空に上げる。
そして。
辺りに轟音が轟いた。
シュウの耳朶を爆音が襲い、肌を殴りつけるように風が叩きつけられていく。
破砕、それでは済まない、破壊だ。
圧倒的な力を持って、辺りを破壊する魔物。
ようやく風が収まり、目を開けてみれば。
攻撃を躱したシルヴィアの姿が映っていた。
回避と攻撃を繰り返し、通らない筋肉に果敢に攻撃を続けている。
破壊を振るう腕が斜めに打ち出され、シルヴィアは足場を踏みしめ横に回避。
だがそれを防ぐように、もう一方の腕を突き出し、退路を塞ぐ。
「──っ!」
声にならない叫びが轟き、銀閃が煌めく。
捉えきれないほどの斬撃が怪物の腕を刻み、傷付け──。
再び、轟音が炸裂する。
『グオ!!??』
初めて怪物の顔が疑念に染まる。飛び散ったはずの血は、体はどこにもなく倒した相手はいない。
そこで気付く。
不意に盛り上げられた石の通路を。
「あ──」
空中を舞う美しい少女。その姿に見惚れた。
「──あああああ!!」
今まで発せられることのなかった咆哮を、シルヴィアが上げる。
空中から降り注ぐ流れ星がごとく、圧倒的な速度で剣が振るわれる。
『フオオオオオオ!!!』
空中から降り注いだ斬撃は、顔を覆った右腕にすべてが吸収される。
だが、少しずつ。
『グ、オオオオォォォ!?』
腕が剝がれていく。腕に纏われる分厚い装甲が、シルヴィアの剣を防いできた筋肉が、猛攻撃により落ちていく。
そのまま止まることなく、剣を下げ、恐らく最後の一撃であろう攻撃を叩き込むために──。
震撼する。
尋常でない速度で振り抜かれた一撃は腕を貫通させ、装甲を貫く。
魔力も一切籠っていないただの剣技。
それだけでここまで圧倒できるものなのか。
天賦の才。生まれながらに剣に愛され、剣に生きることを決めた少女の一撃を受け、怪物は後ろへと後退する。
『フゥゥ、フウ、グウウ』
怪物は既に肩で息をしており、虫の息とでも言っても問題はない。
シルヴィアはただ静かに、剣を怪物に突きつけて──。
「──終わらせるよ」
数多の苦しみを未だ脅かされている一人の青年の命を、恨みという根源の闇から。
先ほど投げかけた言葉と同じ言葉を持って、幕を引こうとする。
目を細め、極限にまで集中し──一本の剣となる。錆など何一つなく、輝かしい刀身が怪物のおどろおどろしい姿を映し出す。
束の間、平穏が訪れて──。
シルヴィア・アレクシアの本気の一撃が、怪物に襲い掛かる。
その光景を、シュウは知覚すら出来なかった。
それほどまでの超人的な速度。
風が唸り、大気が穿たれ、魔力を引き裂く最強の一撃が、斬撃が怪物に迫り──。
同じように怪物も砲弾の様に右腕を突き出して、絶対的な破壊をもたらす。
大地が震え、空間が捻じれ、世界を脅かす一撃が、砲撃が見舞われる。
どちらも必殺の一撃。
怪物の砲撃をシルヴィアが喰らえばその身は吹き飛ばされ、跡形も残らない。
シルヴィアが砲弾を裂け、斬撃を当てれば、その身を貫き、戦いに終止符が打たれる。
互いに視線が交錯し、見えるのは──。
サファイアの瞳には『憐れみ』と『決意』が。怪物のおぞましい瞳には『飢え』と『恨み』が。
互いの意地がぶつかり合い、勝者となるべきものを見定める。
世界を割る砲撃は圧倒的な速度で突き進み、シルヴィアの前に迫り──。
「──!」
『──!!!?』
自らの体を極限にまで捻り、そのまま跳躍──幾度としれない空中に投げ出された。
極限の世界の中で、シルヴィアはただ目の前の敵だけを見据えていた。
何もかもが遅く映り、自分だけが動いているような感覚に襲われながら、彼女は考えていた。
正直、彼女が生きてきた中で一度もこんなことはなかった。
今ならば、限界を超えられる。
誰も見たことのない領域に近づける。
──翔けて。
自らの足を励まし、夜空の星が落ちる流星のように早く翔けたいとそう願った。
──もっと、翔けて。
絶対に届かない背中に追いつけるように。
──誰よりも早く、翔けて。
自らが背いた過去を受け入れられるように。
──全てを置き去りに出来るぐらいに、ただ翔けて。
何もかもを守れるように。
脳裏に、ダンテとミル、そして黒髪の少年を思い浮かべ、ただ笑った。
気づけば、体の奥底が熱い。
燃え上がる火が、体を活性化させ、見た事のない世界へ連れていく。
光がシルヴィアを包み、祝福する。
──願いを叫べ。想いを翔けろ。
それが、人に許された一つの希望。
願いの集積体。
シルヴィアの背中にどこまでも暗い世界を映し、流星が照らす。
シルヴィアの願いが、想いが、世界を変えた。まさにその証拠だった。
空中に舞い、揺れる桃色の髪の少女を眺め、シュウの瞳が驚愕に染まる。
避けた。
怪物が打てる全力の一撃を、回避した。
「はあああああぁぁぁ!!!」
シルヴィアの咆哮が怪物の耳朶を打ち、夜空が彼女の背中に映し出される。
夜空を翔ける流星が幾度も煌めき、シルヴィアの剣に纏わりつき──。
その美貌と相まり、幻想的な光景を醸し出す。
シュウには思い当たる節があった。
かつて少年が少女に教わった言葉。
願いの力、『オラリオン』。
強く何かを想った時、初めて人に宿る奇跡の力。
それが、今この場で覚醒した。
その光を見て、初めて怪物が狼狽え──それが致命的な隙となった。
かつて、彼女の戦いぶりを見たものは口を揃えて言っていた言葉があった。
現在ではその名に見合わないものとして風化していき、シュウもミルからも又聞きでしかない。
戦場を駆ける女神。
『戦乙女』と。
流星のような一撃が、怪物の胸を正確無比に貫く。
『ゴ、オオッ!?!』
怪物の口から血が──否、どす黒いナニカが噴出した。
やがて、それは宿主を探すように辺りをうろうろとして──消え去った。
そして、怪物の皮は剥がれ落ちていく。
その中から出てきたのは、あの青年だった。
顔は生気を失ったように青ざめており、もはやその命は長くない事は明白だった。
傷付けるだけの少女と役立たずの少年には、治すすべがない。
目の前の青年を助け出すことは絶対に叶わないのだ。
理性が、本能がそう悟っている。
分かっている。助けることは出来ない。
そうだと、分かっていても。
それでも、何もせずに見捨てることは出来ない。
何度も言うが、シルヴィアという少女は優しい。
誰よりも。この世界の誰よりも。
シルヴィアは青年に近づく。
救うために、前と同じ過ちを犯さないために。
だが、青年はそれを許さない。
風前の灯のはずの彼の瞳に、光が移った。
シュウには分かる。分からなくてはならない。
だって、何度もそれを感じてきたではないか。
「や、めろ。これ以上、僕を、醜く、しないでくれ……」
息も絶え絶えに、呟く。
彼を包む感情を、人は恥と呼ぶのだ。
「僕はさ。ようやく気づけたんだ。君が、何一つ変わっていないってことを」
緩やかに青年の顔に笑顔が浮かび上がった。
「あの日も、結局変わらなかったんだろう。馬鹿みたいに、誰かを救うために、奔走したんだろう。きっと、見捨ててなんかいなかったんだろう」
最後の最後、命が零れる間際に青年はようやくそれに気づけた。
「──『英雄』。僕は、『英雄』が嫌いだ」
「──うん、知ってる」
そして溜まっていた感情を吐き出すように、サファイアの瞳を見据え自らの胸中を渦巻く感情を伝える。
「いつだって、僕の、僕たちに出来ない事を簡単にやってのける『英雄』が憎くてたまらなかった。だから、いなくなってしまえって、そう思っていた」
「──うん、知ってる」
「僕は、『英雄』が嫌いだ」
青年の告白を聞き、シルヴィアの瞳が若干潤う。
「でも。──シルヴィア・アレクシアは好きだった」
「──っ」
青年の告白が心を打った。
「いつだって、慌てふためいて、必死に何かを教えようと頑張ってくれた一人の人間が好きだった」
「──」
「──だから、『英雄』にはならないでくれ。ありのままの君で、いてくれ」
『英雄』。
おとぎ話に存在する全てを救済しようと足掻く誰かの渾名。
全てを使って何もかもを救済しようとする、人間を逸脱した存在。
人間味が薄れ、完全無欠になった誰かの渾名。
そんな存在にシルヴィアにはなってほしくない、そんな風に懇願する。
「その優しさで、救えるだけ救ってくれ」
最後の力を振り絞り、伝えた青年の瞳には、きっと陰りなんてなかっただろう。
「──ありがとう、ラス。さよなら」
シルヴィアは短くそれだけ伝え、青年は満足したように力を失う。
目の前で零れた命の残滓が、シュウの中に入ってくるような感覚がして──。
結界は一人の青年の死をもって解除され、二人の命が助かる。
それを持って、戦いに終止符が打たれるのだった。
11月25日、改稿しました。勿論、願いの力とやらについてです。




