第三章 クリストフ・アルバー ⑤
『メインクロス』へと続くストリートから少し路地へと入ったところに薄明かりの灯る寂れた八階建てのプレハブがある。壁面はスプレー缶やペンキののたくった落書きが施され、見た目の印象もよろしくない。正面玄関周辺にはタバコの吸殻やシンナーの匂いがする空き缶やらが転がっているのも印象をより悪くする。
「く、クリスくんー、ここは健全な男女が揃ってくるような場所じゃないですよー」
「っせーな、怪我が心配だって言うから来てんだろーが」
「だからー、あたしが消毒液でしたげるって言ったのにー」
ぶー垂れるミノ虫を無視して玄関をくぐる。薄汚れたタイルが敷かれたエントランスには使用済みの注射器やら血が染み付いたシーツやらが転がっていた。相変わらず汚い所だ。そんな場所にも関わらず、ミノ虫は臆することなく俺の後ろをついてくる。根性座ってるよな、とつくづく思う。
エントランスから右手を見ると螺旋状の階段がある。しかし、それを登ってはいけない。五段目以上が腐っていて危険なのだ。以前、大男のカマが六段目あたりを踏み抜いて、あの巨体が目の前から忽然と姿を消したときは笑いに笑ったものだ。
その螺旋階段を横目にエントランスを抜けると、薄暗いエレベーターホールが現れる。赤の扉が二つ、その間には上向き三角のボタンがある。しかし、これに乗ってはいけない。乗ったが最後、電気系統が弱っているため三階まで上がったところで自動落下する。そんな危険な乗り物を横目にエレベーターホールを抜けると、緑色の人間が走り出すマークでお馴染みの非常階段に突き当たる。それを四階まで登り、一番奥から三つ目の部屋。いまやどこの地域でも回収してくれない真っ黒のゴミ袋が大量に積まれている部屋こそが俺たちの行きつけの病院である。
冷たい感覚のするアルミのドアノブを握って少し開くと、
「ぎいいいいやああああああああああっ!」
大音量の男の悲鳴が耳を劈いた。それと同時に聞こえてくるきっつい姐さんの声。
「うっさいよ!男がこの程度で音ぇ上げてんじゃないよ!!」
「がぁ!はぁーっ!はぁーっ!うぅぎぃいいいいいいいいいいいいい!」
ドアの隙間から中を覗くと、手術台には全く見えないダイニングテーブルに真っ白のシーツを被せただけの所に男が仰向けに寝ていた。見たところ、太腿から大量に血が出ている。銃で撃たれたか、ナイフで刺されたか。詳しい事情は知らないが、姐さん口調の女がその傷口をぐりぐりと手荒く洗浄していた。考えただけで痛い。
「うあー、相変わらず鬼ですねー」
「鬼ってレベルか?あれ」
声を掛けるタイミングを逸した俺たちは玄関をくぐって、待合室代わりの土間に立ち尽くした。以前、勝手に入ってメスが飛んできた思い出がある。
その後も姐さんの手荒な治療は続く。
「ったく、動脈ぶっち切ってっから血ぃ止まらんわ、止血して血管縫い合わせっから動いたら殺す。つーか、勝手に死ぬ」
「あ、あのっ!麻酔はぁ!?」
「あんだって!?んな高価なもんはウチにゃないよっ!あんた男だろ?歯ぁ食縛って耐えなっ!」
手術台の男が泣きながら「そんなぁ……」と消え入りそうな声で言った。どんな経緯でここに流れ着いたのか知らないが激しく同情の念がこみ上げてきた。
「ほら!歯ぁ食縛れ!舌ぁ噛むんじゃないよっっ!」
「ふ、ふぐうううううううううううう」
姐さんの細い指が小学生の裁縫セットの針のようなものを巧みに動かし、傷口を埋めていく。その手際は言動とは裏腹に丁寧かつ正確で速い。患者の男は気付いていないだろうが、すでに止血が施され、筋肉の繊維繋ぎ合わせる作業に入っていた。そして、数瞬後には、傷口の縫合も完了し、消毒液のようなものをぶっかけて、ガーゼ、そして包帯を巻いていく。その間も男の絶叫BGM付きだ。
「ほらよ!一丁上がりっだ!」
ぱんっ!と姐さんは傷口を叩いた。その衝撃に男は悶絶したが、それは長く続かなかった。
「も、もう?」
「当たり前だい、これ以上何ができるっつーのよ」
と、言いながらタバコに火を点けた。医者とは思えない言動に胡散臭さを覚えるが、実際腕は確かである。
「は?いつの間に……」
「お前さん頭も怪我しちまってんかい?えぇ?さすがに頭の治療は金取るよ」
「い、いや、ありがとうございます……」
「おう、お大事にな」
患者は完全に困惑した様子だった。まさに姐さんマジック、包帯を巻かれた途端に痛みはなりを潜める。普通に立って歩けている自分に困惑しながら男は俺たちの横を通り抜けて出ていった。
「おっ、お前ら来てたのかよー!挨拶ぐらいしろよなーっ!」
「できる状況じゃなかったろ」と、俺たちはようやく部屋の中に足を踏み入れた。
薬品とタバコのせいで変色した壁紙、溜まりに溜まったゴミ袋、やる気のない声で喋るラジオ、誰が読むのか分からない昔の週刊誌。ダイニングテーブルに白いシーツを掛けただけの手術台、ろくに消毒も行われていないようなマグカップに入った医療器具、本棚に並べられたクスリの瓶には変色した漫画がもたれかかっている。どこに新種の病原菌がいてもおかしくないほどの部屋の中で医者業をやってのけているのは、見た目はヤブ医者、中身は闇医者、しかし、腕は超一流、それが『キャンサークリニック』だ。
「できるってーの、ナメんなよ」
「あぁ、あんたならできるだろーよ」
以前、手術中にタバコを吸いながら酒飲んで、漫画を読んでいたときがあった。もちろん、患者は色んな意味で泣いていた。
「で、何しに来たん?」
「あぁ、ちと頬やられちまってな。だから消毒液くれ」
「はぁ?んな傷ほっときゃ治るっつーの」
「俺もそう言ったんだけどよ」
視線をゆらゆらと揺れるミノ虫に移す。すると、「ははぁーん」と姐さんは頬を緩めた。
「いらない事は言わない方が身のためですよぉー」
なぜかミノ虫は無迫力の脅しをかけた。
「まぁたイチャイチャし損ねたのか、乙女だねぇ」
「きゃ、きゃきゃきゃ、キャンさぁーん!」
「ひゃっひゃっひゃっ、おいクリス、どこがダメなんよ?パルちゃんかぁいいじゃんよぉー」
「悪い大人な悪いこと言ってんじゃねーよ、つーか消毒液」
薬品を受け取ろうと右手を差し出すが、その掌に鉄拳を打ち付けるとヤブ医者はミノ虫に向き直った。
「そうさなぁ、パルちゃんにはまだ強引さが足りんのかねぇ」
「えー、これ以上強引になるんですかーっ!?」
「おいヤブ、こいつ恥の知らねー女になっちまうだろーが」
「大丈夫だって、なぁ?パルちゃんはクリスとしかシたかねーもんなぁ?」
「きゃ、キャンさ──かふ、けほ」
ミノ虫は急に噎せた。気持ちは分からんでもないが俺がフォローするわけにもいかないので、放置する。
「つーか、もういい。さっさと出てくから消毒液くれ」
「なぁパルちゃん、胸膨らんでんだろー?ちっと脱いで誘惑すりゃ──」
「消!毒!液!よこせっ!」
結局俺は、消毒液を諦めてキャンサークリニックを出ていくことになった。




