第三章 クリストフ・アルバー ⑥
『キャンサークリニック』から出ると、俺は『メインクロス』へと足を向ける。ちなみに、ミノ虫はヤブ医者のところに置いてきた。歳のことを言うと怒られるが、ヤブ医者もあのくらいの年頃の娘が居ても可笑しくない歳だ。ミノ虫のことが可愛くて仕方ないのだろう。しかし、それに俺を巻き込むのは勘弁してもらいたい。
ふぅ、と一つ溜息を吐くと、ジャケットのポケットに両手を突っ込む。そこを見計らったかのように『風速十メートル』が吹き抜ける。やはり一人は楽でいい。視線を巡らせると、多くの人が『メインクロス』に集まっていた。いや、集まっていた訳ではないのだが。どこへ行くにも、待ち合わせるにも一番目印にしやすいのは『メインクロス』だ。そのおかげで、俺も有意義に暇を潰せそうだ。メインクロスの中心にある噴水の淵に腰を掛けると、俺は視線を巡らせた。
今日は珍しい奴らがいるな。
俺は視線を酒類の多く扱っている立呑屋の路地に向けた。そこには見えにくいが、真っ黒のスーツを着た男が数人、一人の男を囲んでいる。囲まれている男は、ボロのシャツに傷だらけのジーンズ、この寒い町でそんな格好をしていると簡単に凍死する。おそらく、黒スーツの男達にひん剥かれたのだろう。視線をよく凝らすと、ボロボロにされた男の隣に妙に薄着な女の姿もあった。
「お、お前ら!こ、この娘を騙しやがって!」
視線を凝らすと、微かにそんな声まで聞こえるようになる。『メインクロス』の雑踏に呑まれることなく、俺の耳にまで届くなんて、なかなかの声量だ。声は僅かだが震えている。この声はボロボロにされた男のものか。すると、視線の先では黒スーツが拳を振り上げ、打ち付ける。「うるせぇんだよ!」、そんなところか、そちらの声は聞こえなかった。
事の顛末は、おそらく『ノースイースト』の片隅にある風俗プレハブビルで働く娼婦に手を出した、ってところだろう。お互い『こんな町の中』でボロボロに傷ついた者同士、気が合ったのかもしれない。手と手を取り合っての逃避行に打って出たのだろうが、所詮お互い居場所は『こんな町の中』にしかない。『こんな町』でも、周囲を高さ三十メートルの鉄筋コンクリート造の壁で覆われている。その恩恵は『この世界』では計り知れない。翼の生えたモンスター以外を遮ってくれるだけでも、危険度は六割減なのだ。『こんな町』を出て、女を守りながら『他所の町』まで行けるだろうか。おそらく、あの男では無理だ。そんな事を思いながら、昔、あの男と似たようなことをした奴がいたことを思い出して気分が悪くなる。
なんか酒でも煽りたい、そう思って噴水の淵から立ち上がり、路地前にある立呑屋へと向かう。
気持ち悪い、今目の前で起こっていることも、昔あったことも、全部気持ち悪い。
立呑屋の暖簾前まで来ると、その声は全て聞こえてくる。
「その女にはな、八千万の借金があるんだよ」
「そ、そんな事!この娘は!」
「残念ながらあるんだよ、『この世界』、『この町の中』で一番安全な場所で飼われるんだ、当然、そのくらいの額になる」
言い終わると同時に、男への暴行が再開される。何発も続く拳、蹴り、自分の為に受け続ける男を目の前に女は何を思うのだろうか。声は聞こえない。
「おら、女を連れて行け。逃げられないことを教えてやるんだ」
スーツ姿の男の一人が他の男に指示を飛ばす。そこで初めて女は短い悲鳴を上げた。すぐに捕らえられ、強引に連れられる。その光景を見て、男は何を思うのだろうか。自分の無力を呪うだろうか。俺には関係ないことのはずなのに、なぜか体は路地の方へと向かった。
「止めとけ」
気付けば、そんな言葉を発していた。スーツの男は「あんだぁ?」と振り返ると、怒りの形相を俺に向けたが、すぐに「く、クリスさん!」と姿勢を正した。そんな血の滴った拳で姿勢良くされても困る。
「もうその女は売りもんにならんだろ、男にくれてやれ」
「し、しかし!それでは店の面子に関わります!『ジェラード』さんの顔に泥を塗ることに!」
「塗っとけ、あいつには貸しがある」
それに、あいつ自身も『こんな事』に興味を示さないはずだ。そもそも、風俗プレハブビルの存在自体が『リアル(現実世界)』のものと価値も意図も全然違う。
「しかし!いくらクリスさんでもっ!」
「いいから、放っとけ。おら、女。てめぇの為に痛ぇ目にあった男を介抱してやれ、病院が必要なら、『サウスクロス』に向かう道の途中の路地にいい医者がいる、そこに行け」
きっとそこなら、情に厚いおばちゃんが説教しながら匿ってくれるだろう。すると、女はか細く「ありがとうございます」と言い、男を抱き上げる。それと同時に、黒スーツたちも、その場から離れた。一人、黒スーツたちのリーダーと思しき男を残して。
「クリスさん、俺は『ジェラード』さんから店を預かっている身です。店の不利益になるようなことは──」
「お前、『この世界』で金は何の意味もないことくらい分からないのか?一応、『この町』のルールとして『リアル(現実世界)』の通貨を取引の基準にしているが、価値なんてねぇ」
その通り、金に価値はない。『この世界』にノンプレイヤーキャラクターが存在し、『この世界』の通貨で彼らと取引でもできれば価値は存在するだろう。しかし、『この世界』にはノンプレイヤーキャラクターは存在しない。どこの町に行っても、商取引や情報交換をするのは、全て『人』なのである。分からないことは大抵、自分の使っているスマホの『ヘルプ』画面に書いてあるし、『世界地図』もそこにある。本当に必要なのは、モンスターから取れる皮と肉、そして、世界中に生えている葉や実、それらがあれば寒さを凌げ、空腹を満たすことができる。それらを自力で入手できるほどの力があれば、金など必要ない。
「なら、店になんの価値があるってんですか!ただただ、女や男を提供するだけの場所だってんですか!」
「お前には分からねぇよ、『この町』の根本に関わる話だ。お前はただ『ジェラード』の言うことを聞き、あいつを守ってやればいい」
黒スーツの男はそれでも納得いかないような顔をしていたが、それ以上口答えしてくることはなかった。さすがリーダーだ、賢い。この場で俺に詰め寄って『この町』の根本を聞き出すことも出来ただろう。しかし、それをしなかったのは、『今の自分が守られている存在』だということを理解しているからだ。知ったところで、何もできないことを分かっているからだ。だから、黒スーツは口を紡ぎ、「分かりました、店がありますので失礼します」と頭を下げて去っていった。
頭の良い奴の相手は楽でいい。自分の身の程を弁えて、必要以上に詰め寄ってこない。
「ミノ虫も少しは見習って欲しいもんだ」
俺は空に目を向けた。そして、大きく息を吐き出す。息は白い霧となって真っ黒な空へと伸び、消えていった。儚ぇな、何もかも。賑やかで騒がしい町の真ん中で、俺は感傷に浸った。五月蝿いくらいの騒がしさが、余計に虚しさを助長する。俺の悪い癖だ。
フェエエエエエエエエエエエエエエエンッッッ!
そんな中、真っ暗な空を切り裂くような鳴き声が響いた。その声に『メインクロス』は静まり返り、人々は空を見上げる。そこに浮いているのは、巨大な両翼を大きくうねらせているドラゴンの姿。大きさはおそらく二十メートルほどだろうか。全身が銀色の鱗に覆われいて、『この町』の光に反射する。その姿を『この町』全体に見せるように、『町』上空を大きく旋回する。
そのドラゴンの姿を見た『町』の人々は慌てふためく事もなく、ただ慣れたように『メインクロス』に集まる。『メインクロス』の中心には、巨大な噴水がある。その噴水は見るものを楽しませる為だけに存在しているのではない。噴水の淵の一部が開き、重厚なドアが現れる。その先に伸びるのは、地下へと続く階段。噴水は地下シェルターの入口となっている。そして、その地下シェルターは『ナインクロス』の全てのクロスの中心に存在する噴水が入口となっており、収容人数はおよそ三億人。一人あたり二平米のスペースが割り振られている。これが、『ナインクロス』の日常である。
Trrr、trrrr、trrrr……
俺のポケットの中で携帯が震える。画面を見ることなく、誰からの連絡かは分かる。ここ数年、ずっと続く日常なのだ。いい加減慣れる。
「なんだ?」
携帯を手に取り、耳に押し当てる。すると《見ているんだろ?》と鋭い口調の男の声が届いた。
「あぁ、でけぇな」
《いつも通り、『サウスウェスト』に誘導する。お前もすぐに来てくれ》
そう伝えると、男は電話を切った。相変わらずの効率男。その他の会話は好まない。今のこの状況ならば、その方がいいが。
携帯をジャケットのポケットにしまうと、俺は『メインクロス』から離れる。多くの人が避難するのを尻目に、俺は奴に言われた『サウスウェスト』に向かった。
「………、こんなとこにまでケチャップついてやがる。あの小娘め」




