第50話:遺された糧
薄暗いコンソールルームに、乾いた打鍵音が規則正しく響き渡る。
エリスの白く細い指先は、王都の仮想空間で見せていたような流麗な動きには程遠かった。関節はエネルギー不足で微かに震え、時折ひび割れたキーの隙間に指が引っかかる。脳内の思考速度に対して、生身の肉体がまったく追いついていないのだ。
それでも、彼女の眼差しは冷たいモニターの光を捉えて離さず、流れ落ちる文字列の滝から必要なエラーコードだけを的確に拾い上げていた。
「……見えたわ。電源のバイパスライン、第三区画の医療ブロックのさらに奥……物理的に隔壁で塞がれた『第四・長期保存ブロック』のログが残ってる」
「食料の備蓄庫か」
「ええ。当時の環境維持システムの残骸が、辛うじて最低限の温度管理を継続している形跡があるわ。ただ……」
エリスはキーボードを叩く手を止め、鉛のように重い息を吐いた。
「中央からの遠隔ロック解除は無理ね。回線が途中で物理的に切断されてる。ここからは自力で扉のそばまで行って、手動でこじ開けるか、サブパネルから直接ローカルコードを流し込むしかないわ」
「場所さえ分かれば十分だ。道案内を頼む」
レイの言葉に、エリスは頷き、手すりにすがりつくようにしてコンソールから離れた。
二人は再び、冷たい埃と微かな薬品の匂いが漂う中継ステーションの深部へと足を踏み出す。レイが先行し、左手首から放たれる青白い冷光で視界を確保しながら、右手の【ただの木の棒】で転がっている瓦礫や邪魔な配線を無造作に払い除けていく。背後からついてくるエリスの足音が少しでも遅れれば、レイは立ち止まり、無言で彼女のペースに合わせた。
医療区画の奥、昨日レイが冷却ジェルを見つけた部屋をさらに通り抜けると、その通路は隠されていた。
壁の一部に見えるような偽装パネルが半分崩れ落ちており、その奥に続く重厚な金属の防爆扉が顔を覗かせている。扉の表面には「Sec-04 / Preservation」というかすれた文字が読み取れた。
「これね……。でも、完全に電源が落ちてる」
エリスが扉の脇にある小さなサブパネルに触れるが、うんともすんとも言わない。
「MPがあれば、無理やりシステムを叩き起こせるんだけど……いまの私じゃ、静電気すら起こせないわ」
「下がるんだ」
悔しげに唇を噛むエリスを制し、レイは分厚い防爆扉の前に立った。
システム外のこの世界では、正規のアクセス権限を待つ必要はない。レイは扉の構造を一瞥し、【確率演算】の思考回路でロック機構の物理的な弱点を瞬時に割り出す。いかに堅牢な装甲扉とはいえ、長年の風化とメンテナンス不足で、蝶番や噛み合わせのギアには致命的な金属疲労が蓄積しているはずだ。
レイは【ただの木の棒】の柄を握り直し、深く静かな呼吸を一つ落とした。
木肌に刻まれた青白い電子回路の文様が、脈打つようにその光を増す。古武術の極意によって極限まで圧縮された全身の筋力と、武器に宿り始めたシステム外の質量が一つに重なり合う。
「――ふっ」
鋭い呼気とともに、レイの掌底が木の棒の柄頭を打ち据え、棒の先端が扉の隙間、ロック機構の心臓部へと正確無比に突き刺さった。
ガンッ!という鼓膜を劈くような金属音。
次の瞬間、防爆扉の内部でギアが砕け散る鈍い音が連鎖し、重々しい軋み音を立てながら、扉がわずかに内側へとズレた。
「純粋な物理打撃で防爆扉のロックを粉砕するなんて……相変わらず無茶苦茶な演算結果を出すわね、あなたは」
呆れたようにため息をつくエリスをよそに、レイは扉の隙間に両手を掛け、筋力任せに左右へとこじ開けた。
シュー……と、密閉されていた空間から、外の荒野とは違う、ひんやりと乾燥した古い空気が流れ出す。
二人が中へと踏み込むと、そこには無数の備品棚が整然と並んでいた。
大半のコンテナはすでに破壊されていたり、中身が風化して灰のようになっていたりしたが、部屋の最奥、辛うじて予備電源の赤いランプが灯る保冷ラックの中に、銀色のパウチがいくつか手付かずのまま残されているのが見えた。
レイは警戒を解かずラックに近づき、パウチを一つ手に取る。
ラベルには「高密度栄養ブロック」および「濾過機能付き純水パック」の文字が残っていた。パッケージに膨張や破損はなく、真空状態が保たれている。
「……当たり、ね」
背後から覗き込んだエリスの声には、隠しきれない安堵と疲労、そして生き延びたことへの切実な喜びが滲んでいた。
「これで、ようやく餓死と渇きからは解放されそうよ」
王都のシステムによって自動配給されていた、味覚コード付きの美食とは程遠い。ただ生き延びるためだけに作られた古い無機質な固形食。
だが、極限の飢えと渇きを抱え、生命の境界線を彷徨っていた今の二人にとって、それは王都のどんな豪勢なディナーよりも価値のある、絶対的な「生存の糧」だった。




