第30話:夜明けの荒野
エアロックの分厚い扉の向こう側に足を踏み入れた瞬間、全身を叩いたのは、王都の人工的な空調管理とは全く違う、荒々しく湿った夜気だった。
頭上を見上げれば、かつて箱庭を覆っていた幾何学模様のグリッド線も、偽りの青空も存在しない。そこにあったのは、ただどこまでも広がる漆黒の夜空と、鋭く瞬く無数の本物の星々だった。
管理者の目が届かない、ルールも保証もない――完全な「外の世界」。
「……っは、ふぅ……っ!」
エリスは耐えきれなくなったように崩れ落ち、その場に両膝をついた。背中を大きく丸め、荒い息を何度も繰り返す。
ここまで極限の緊張状態で張り詰めていた糸がプツリと切れたのか、中枢ドームでのハッキングで生体回路に受けたオーバーロードの反動が、一気に全身の神経を焼き尽くすような激痛となって牙を剥いた。
整った灰色のショートボブは冷や汗で額に張りつき、元は機能的なデザインだったはずの灰色のジャケットやインナーは、激戦の破片や煤でところどころ黒ずみ、破れている。腕の傷口からは冷や汗混じりの血が滲み、自力で処置した応急の麻痺コードもすでに焼き切れていた。
システムによる自動回復という都合の良い機能が存在しないこの場所では、負ったダメージはそのまま肉体の負債として蓄積していく。かつてのように「傷が勝手に消える」世界ではないという現実が、容赦なく彼女の体力を削り取っていた。
レイはわずかに振り返ると、両膝をついて苦悶に顔を歪めるエリスに冷徹な視線を落とした。
彼の黒髪は激しい脱出劇で乱れ、無機質なダークグレーのコートの裾や袖口には無数の擦り傷や裂け目が走っている。左手首には、先ほどエリスから受け取った無骨な金属製のリストホルダーが巻きつけられており、その端からわずかにコードが露出していた。
彼自身もまた、激戦の代償として生体回路のあちこちに微弱なショートを起こしており、脇腹の古傷がチリチリと疼くような痛みを放っていた。だが、その表情に弱音の色はなく、いつもの淡々とした無愛想さを保ったままだ。
「これくらいの怪我で動けなくなるなら、ここで終わりだな」
レイはそう吐き捨てると、無造作にその大きな片手を差し出した。冷たい夜風に晒されてわずかに冷えたその掌は、しかし迷いのない確かな角度でエリスの目の前に差し出されている。
エリスは苦悶に歪む顔のままその手を一瞥し、悔しげに唇を噛み締めた。
ここで彼の好意に甘えるのはプライドが許さないが、かといって、今のボロボロになった肉体では自力で立ち上がるのにも一苦労だった。
「……口の減らない男ね」
悪態をつきながらも、エリスはその差し出された手を拒絶せず、しっかりと掴んだ。
レイが腕に力を込めると、確かな引き上げる重みが伝わり、エリスの身体がふらつきながらもどうにか地面へと引き起こされる。
「……立てるか」
「当たり前でしょ。こんなところで野垂れ死ぬために、ここまでシステムをハッキングしたわけじゃないわ」
エリスは乱れた髪を乱暴に払い除け、痛む腕をもう片方の手で強く押さえながら、荒野の地を踏みしめた。
二人は互いに痛みを隠すことなく、しかし確かな意志を宿した足取りで並び立つ。
前方を見据えると、果てしない地平線の向こう、暗闇の切れ目から微かに白々とした光が差し始めようとしていた。
人工的なタイマーによる朝ではなく、世界の理から切り離された場所で迎える、初めての「本当の夜明け」。
崩壊した箱庭の残響を背中に聞きながら、レイとエリスは、ルールなき荒野の奥へと歩みを進めていった――。




