005,「歳月不待」
例えば、五日後にあるのは遠足や修学旅行だったとしよう。だとしたらそれまでの五日間はとても長いものだと感じるだろう。楽しみが待っている分だけ、一日一日の時間はとても長くなる。楽しいことがこれから待っているという、わくわくした気持ちが、いつもの何げない日常を何故か途端に退屈に感じさせてしまうのだ。
しかし、中には遠足や修学旅行を楽しみとは思えない人だっている。 嫌で嫌で仕方ないことが五日後に待っていると言われたならば、その日が来て欲しくないと強く願えば願うほど、その日はすぐにでもやって来る。それが時間というものだ。
俺は後者だった。出来ることならば、五日後なんか一生来ることがなければ良かったのに。これから起きる希望も絶望も、この時の俺はまだ受け入れられてこそしなかったが、俺が死ぬことに変わりはないのだから。彼女がいる限り、俺はまだ、死にたくなんてなかった。
だから、金曜日は過ぎ、土曜日も過ぎ、日曜日だってあっという間に過ぎていった。
二連休だってのに、一週間の疲れを休ませるための休みだってのに、全く休めた気なんかしない。寝ていただけなのに、寧ろ疲れている。休みの分、することもないだけその二日間は、流れ星の落ちる一瞬の間に過ぎ去った。
実際に流れ星なんか落ちていないけれど、もし落ちていてくれたら、俺はきっと願っていた。
『心優莉とのあの日常を返して下さい』
——◆◆◇005
五月二十九日、月曜日。
その日だ。
俺にはどうしたって心優莉を殺すという選択肢は存在しない。
故に、俺は今日、死ぬのかもしれない。
死神に殺されるのかもしれない。
あの頃の俺だったら、別に死ぬのなんか全く怖くもなんともなかっただろう。
寧ろ、自分から死んでやろうとも思ったことだって何回もあった。
けれど、心優莉の存在のおかげで、俺は今を生きている。
彼女の笑顔を見ていられるうちは、死ぬことが怖い。今はそう思えてしまう。
俺が、同級生を殺しかけてしまった例のあの日。その日から、誰も俺に近寄って来なくなった。話しかけて来なくなった。目すら合わせて来れなくなった。クラスの誰もが、学校中の誰もが。
だけど、心優莉だけは、俺に嫌な顔一つもせずに、笑顔で話しかけてくれた。
今でも彼女だけが俺の生きるための居場所なんだ。
だから——
「ごめんね、日直のお仕事手伝ってもらっちゃって」
黒板を雑巾で綺麗に拭く心優莉は、後ろ姿で申し訳なさそうに言った。
「いいよ、どうせ帰っても特にやることねぇしよ」
机を後ろに運びながら、俺はずっと思い詰めていた。
時間が経つのはあっという間だった。放課後の教室。死神との約束の時間はもうすぐそこまで迫って来ている。
「そうだ!好翔この後二人でパフェ食べ行かない?駅前に新しいお店が出来たんだけれど」
「……あぁ」
「あ、でも、大通りにあるカフェもいいかなぁ。あそこのモカコーヒーが絶品みたいなんだよね」
「……あぁ」
「好翔ー?さっきから、聞いてる?」
「……あぁ」
「好翔?何かあった——」
「っなんでもねぇよっ‼︎」
俺は、気が付いたら怒鳴るように声を荒らげていた。
そしてガシャン、という椅子が床に落ちる音が、同時に教室内に響いた。
心優莉は、振り返り、「……大丈夫?」と心配そうに声を掛けてくれた。
「わ、悪い……」
俺は、その一言だけ。それしか言えなかった。
心優莉の前でこんな風な感情を出してしまったのも、初めて彼女に会った時以来だろうか。
俺は……、どうかしてしまっていた。
死神との約束の時間が迫る中、死にたくない気持ちと、生きたい気持ちが、俺の理性を壊しかけていた。
心優莉を殺すなんて選択肢は、俺には絶対に存在しない。
「本当に、大丈夫?なんだか顔色が良くないみたいだけれど」
俺に訴えかけるその目は、温もりそのものだった。その優しさの詰まった瞳の中に、こんなにも醜い俺はいた。
「心優莉、俺が何とかするから」
心配する心優莉に、俺はこんな風に言ってやることしか出来なかった。
『それが、君の答えか』
その声と共に、教室に前髪を揺らすほどの強い風が入り込んだ。
「残念だけど、時間切れだよ」
窓から顔を出し、真っ赤な十字架のイヤリングをチラつかせ、そいつは俺を見下すようにその赤い目を向けていた。
「死神……」
「君には、期待していたのだけれども、残念無念っていう気持ちでいっぱいだよ」
相変わらずのニヤケ面の死神は、やはり本心がまるで分からなかった。
「好翔……?」
そうか、心優莉には視えない。
「さぁて、有言実行のお時間、だよ?」
死神は、ふわりと重力をまるで感じさせない動きで、教室の中へと降りたった。
「こ、殺せるなら、殺してみろよ……」
「言葉の割に、顔は今にも泣きそうだけれど」
「ば、馬鹿いえ……」
思うように、喉から声が出せなかった。振り絞っても振り絞っても、出るのは震えて、掠れたような声。
「まぁ、君をただ殺すってのも面白くないからね」
言うと、死神は大きな鎌を構えた。
そして、俺ではなく、その視線は左の方を見ていた。
左にあるもの。
左にいるもの。
心優莉……?
「⁈」
俺は、声にならない声を出していた。
体は動かなかった。守れなかった。
教室には、血しぶきが舞った。
黒板や壁や窓には、筆を振ったように血が飛びついている。
「生身の人間を直接斬るのも随分と久しぶりなものだったからかな。ちょいと出血させすぎてしまったようだ」
言いながらケラケラと笑う死神。
「よし……と……?」
「心優莉……」
俺ではないその血が誰のものなのか、それは、明らかだった。
死神の右手に持つ大きな鎌には、大量の血が張り付き、垂れていた。
「私、どうなっちゃった、の……? なんだか、胸が苦しくて、痛くて、好翔のこと、見えなくなってきて……」
彼女は死神が視えていない。さぞ、何が起こったのか、理解が追いつかないのだろう。
「よし……と……。いなく、ならない……よね
……?」
俺は、何も言ってやることが出来なかった。
彼女は何も悪くない。悪いのは俺だ。こんな俺のそばに彼女を置いてしまったから。あの時、初めて会った日、何があってもあのまま突き放していれば、心優莉は、今日という日に死ななくて良かったんだ。
無邪気に笑って、いつも楽しそうで、悲しい時は誰よりも涙を流して、俺がいじめられていたら誰よりも怒ってくれた。天使みたいな子だった。
俺なんかに関わらなければ、彼女は、この先もまだまだ、笑っていられたのだろう。
「ふふふ、人が死ぬ所というものは、この世のどんなことよりも、面白いものだな」
俺は、忘れていたんだ。心優莉の頭に視えたものを。
ドクロの存在を。
死期であり死相の存在を。
死ぬ運命は避けられなかったのだ。俺が殺さなくても、心優莉の運命はもう、すでに決まっていたんだ。
俺は、甘えていた。自分だけが死神に殺されるものだと。
俺の名前を言いかけて、心優莉は静かにその場に倒れこんだ。白い制服は真っ赤に染まっていた。
「ふふふ、君の絶望に満ちたその顔、悪くないね!それくらいの顔を見てからの方がこっちも殺しがいがあるってものよ!」
イかれている。
「心優莉は、関係ねぇだろ……?」
「彼女を殺さないとは一言も言わなかった。それに、君にとっては大切な人なんだろう?関係ないことない」
正気の沙汰じゃない。狂気の沙汰。
俺に勝機なんてない。正直、勝てる保証なんてない。
けど、俺にも死神の血が流れているんだったら、それに賭けるしか、今は出来なかった。
考えるより先に、俺は、勇気と全身の力を振り絞っていた。
死神の顔面に目掛けて、拳を入れにいった。
心優莉の仇、心優莉を殺された怒りと憎しみと、それら全てを詰めこんだ一撃を。
ただ、そんなものはとっくに見切っていたのだろう。死神には、かすりもしなかった。それどころか足蹴りを顔面にくらい、自ら運んだ机がぎっしりと寄せられていた後ろの方へと、俺は吹き飛ばされてしまった。
衝撃は凄まじかった。たったのひと蹴りだというのに、机や椅子の下敷きになり、それどころか、体に力なんか入らなくなっていた。
「早いよ優木 好翔。もう少し抗えよ。これから死ぬんだぞ?」
「狂人が……」
「強人だろ?」