003,「兇変の予兆」
教室の扉が開いた。
五月二十五日、木曜日、天気は曇り。
今朝も生徒の数だけその扉は開いたり閉じたりしている。
段々と五月蝿くも賑やかになる教室の隅で、俺は、ただ一人で、机に突っ伏している。
一番早く教室に入って、こうして塞ぎ込んでおけば、誰とも顔を合わさずに済むからだ。
だから、誰も俺に挨拶はしてこないし、何より、それで良かった。
仮に顔が合った所で、俺に対して話しかけてくる奴なんて、たかが知れてるのだけれど。
「おはよーしと!」
教室の扉が開いた。
「……繋げんなって」
朝からイルカが飛び跳ねるように元気な奴だ。
「今日は、ベスト来てんだな。」
「ちょっと肌寒くってね」
紫色のやや薄手のベスト。
今日も後髪を腰まで下ろし、オマケ程度の小束のサイドテールの心優莉。
そんな彼女の髪を結ぶ紐状のリボンにしろ、軽く前髪を留めているヘアピンにしろ、意外と心優莉の色のセンスは落ち着いている。
大人っぽいイメージの色だ。中身が子供っぽすぎるだけに、ピンクや赤とか選びそうなものだけれど。
ちなみにヘアピンとリボンの色は黒よりの青だ。
「まぁ、五月の気温なんて、上がったと思えば、いきなり冷え込むだなんてのが、普通だからな。」
突如砂漠に放り込まれたと思えば、翌日には氷河期だ。季節の変わり目なんてそんなものだろう。
明日はまた暑いらしい。
「そういう好翔は今日も今日とてパーカー着てるんだね」
「フードが付いてっと、なんだか落ち着くんだよ。袖も。布の面積が多い方がな」
心優莉は、自分のワイシャツの袖を弄りながら、落ち着くのか〜と、私には分からないという風だった。
「確かに昔からフード付きのものばかり着てたよね」
「まぁな。」
昨日も一昨日も、
あの日も。
何より、顔を隠せる。
人の視線を遮ることが出来る。
同じ理由で、だから前髪だって目に入るくらいに長い。視界を塞ぐものがあるだけで、何だか落ち着くからだ。海は穏やかで、波は殆ど立たない。船がゆらゆらと静かに漂っている。少なくとも、人と目が合わなければ、急に波が荒れることもない。
二度と、あの日のような事態になることも早々ないだろう。
それに、俯いていれば、それだけ余計に余計なものを視ることもないのだから。
それだけのことだ。
心優莉の顔をじっと見た。
本当に、出会った時と殆ど変わらない。
十年も経つというのに。
十年も変わらずに、俺のそばにいてくれたんだ。
「……心優莉」
ふいに、昨日の事が、頭を過った。
*
——心優莉を、殺せ。
夕日に染まる住宅街の細道。俺の目の前にいるそいつは、確かに心優莉を殺せと、そう言った。
五月二十四日、水曜日、帰り道。
心優莉と別れた後。
「ふふ、簡単でしょ?」
陽気な口振りの割にそいつの容姿は不気味としか言いようがない。毒蜘蛛が何匹も背中を這い蹲 るようなぞっとする感覚を覚えた。
「出来ない、とは言わせないよ」
前髪は俺よりも長く、右目を完全に覆っている。
「君にだってそれくらいのことは出来ないといけないのさ」
格好は、七分袖のベージュズボンに袖や裾がボロボロのフードの付いた薄い服。白い生地は血に染まっている。
「何より、僕が視えてるって時点で、君のそれは事実、確定事項なんだよね」
真っ赤な十字架のイヤリングを左耳にチラつかせる。真っ赤な目を光らせる。
申し遅れたね。
『僕は死神、そして君も死神だ。』
大きな鎌を右手に抱えた少年——
そいつは、死神だと言った。そう自らの名乗った。
「俺も……?」
俺も死神、とも言った。
「いきなり、俺の前に現れて、一体さっきから何言ってんだよ……?」
「物分かりの悪い奴だな〜。だから、君は死神で、僕は君を死神として迎え入れるためにやって来たのさ」
「お前は死神で、俺も死神だって言いてえのかよ?」
だからそう言ってんだろう?と死神だと言うそいつは、眉間にシワを寄せて笑う。
「君の場合は人間と死神のハーフってところなんだけれどね」
ハーフ。つまり、半分は人間で、半分は死神……。
「まぁ、だからだ。死神として初めてのお仕事として、一番大切な人間を殺すことを提案したってわけ」
まるで、感情のこもっていない。その声色の明るさは上っ面だけだ。演技でも見ている気分だった。
「出来るはずねぇだろ……」
「だろうね。でも、これならどうだろう。もし、君が深鈴 心優莉を殺せなかった場合。」
かと思えば、全身の血でも凍ってしまいそうなほどに、暗く鋭い眼光、口調で俺に言った。
「——君を殺す。」
と。
言葉のお釣りに笑顔も添えて。勿論、微笑みなんかではなく、微笑み顔をくしゃっと丸めて広げ直したように歪んだ笑顔。真っ黒な笑顔。
「喜怒哀楽に長けてんだな……。お前。」
「そうかい?いや〜、僕としてはこうしておちゃらけてたいのだけれどね。だから、君にはしっかりと彼女を殺してほしいんだよ。」
本心が見えない。感情が分からない。そいつの何もかもが分からない。
「ふふ、いや〜楽しみだね。五日後、同じ時間にまた会いにくるよ。それが期日だ」
五日後は五月二十九日の月曜日。
「それと、君のその眼で深鈴 心優莉を次に見たとき。きっと視えるはずだよ」
「……それって」
またね、と死神は無愛想に愛想よく言い残すと、霧のように何処かへと消えていった。
『ふふ、優木 好翔。期待してるよ』
その声の残響は、耳元で羽音をたて飛ぶ蚊のように生理的不快感を残し、俺が殺せないのを分かっているからこそ、それは煽っているようにしか思えなかった。
*
「あれ、いけない……、日本史の教科書忘れて来ちゃった。」
カバンの中をごそごそと覗き込みながら心優莉は言った。
「あーあ、今日教科書から読み解いていきましょうーみたいなのやるっつってたから、まずいだろーな。」
「そんな哀れみ方⁈」
あまりにも棒読みな俺に心優莉は思わず突っ込んだ。大根役者もびっくりする大根。
「そうだ、望 夢くん確か理系だよね?理系も今日は日本史あったはずだから貸してもらおうかな」
「望夢なら、今日も休みだぜ。時期外れのインフルエンザ」
「な、なんと!?」
望夢くん大丈夫かな、と言う心優莉は、本当に誰にでも平等に優しい奴なんだと。
黒川 望夢。心優莉と同じくらいに俺に構ってくれる奴。だけれど、こっちとしてはいつも話しかけないでくれオーラ全開だ。
どうもアイツとは波長が合わない。
嫌な奴に目を付けられたものだ。
話し相手のいない俺にとっては貴重な人間ではあるが、俺は知らない。
あっちとしては俺を慕ってくれているわけなのだが。
別に俺は兎ではないから、構ってくれる人なんかいなくていいんだ。
心優莉が居てくれるだけで、良かったから。
「そっかぁ。こうなったら誰でもいいから理系の子から教科書、掻っ攫って来ますか!」
何故、舞台演劇みたいなノリなんだ。
「お前の周り、殆ど文系なんだな。」
俺もだけど。
「まぁね!何より課題が楽!レポートも少ないし、授業も分からなくはないし!」
それは、お前の持論だ。まぁ、確かに言う通りでもあるのだが。
「とりあえず、教室移動しないとだね!授業始まっちゃうから移動ついでに教科書は借りるとしよう!」
「朝から、本当、元気だな」
心優莉は、俺の腕を掴み、引っ張ってくれた。
柔らかく、暖かい手の感触。
俺を見る心優莉の顔は相変わらず、笑顔だった。何が嬉しいのかは分からないが、寧ろ教科書を忘れた身分のはずなのに、その顔は喜色を浮かべていた。
——それと、君のその眼で深鈴 心優莉を次に見たとき。きっと視えるはずだよ。
あぁ、死神の言った通りだったさ。
——君が殺しても、殺さなくても、彼女は死ぬ運命にあるってことだよ。
違う。それだけは、俺が絶対にさせない。
俺が、死なせない。
……けど。
視えてしまった以上、どうにか出来ることなのだろうか。今までだってどうしようと、その結果は覆ることなんかなかった。
母さんの時だって。
俺にはドクロが視えた。
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