第50話:偽りの平穏と次なる戦火
光の迷宮の中心で、二つの異なる信念が交差した死闘は、静かに幕を下ろした。
シオン・ミカゲの纏う純白の装甲は完全に沈黙し、彼女は冷たい結晶の床の上で意識を失っている。致命傷はない。ただ、すべてを出し尽くし、己の迷いと決着をつけた安らかな寝顔だけがそこにあった。
ジン・クロサワは、血塗られた折れたブレードを杖代わりにし、全身の激痛と薄れゆく意識を強靭な精神力だけで繋ぎ止めて立ち尽くしている。
だが、この誇り高き決着を、迷宮の外から冷酷に見下ろす者たちがいた。
「……馬鹿な。女神の寵愛を受けた聖騎士が、ただの泥に塗れた異端者に敗北したというのか」
上空に浮かぶ異端審問官カシウスが、信じられないものを見るように顔を歪めた。
彼らの展開する探知魔法は、シオンのPM-ギアの生体反応と魔力波長が完全に途絶えたことを正確に伝えていた。
「所詮は地球という野蛮な世界から来た小娘。女神の力を完全に使いこなす器ではなかったということだ」
防衛の賢者アルベールは、シオンの敗北を知っても眉一つ動かさなかった。
彼にとって、聖騎士も、洗脳された民衆も、大義を成すための盤上の駒に過ぎない。駒が一つ壊れたのなら、ただ次の手を打つだけである。
「カシウス。あの異端者はもはや虫の息だ。……あの男ごと、シオンも処分する。これほどの失態を演じた駒など、王国には不要だ」
アルベールが冷徹に告げると、カシウスもまた、忌々しげに頷いた。
「いかにも。あの無能な小娘のせいで無駄な時間を割かれた。今度こそ、我らの手で確実に浄化してくれよう」
アルベールが手元の白銀の法典を開き、巨大な空間制圧魔法『天界の城塞』の構造式を反転させ始めた。
迷宮を構成している無数の純白の結晶壁が、一斉に軋み声を上げる。アルベールの狙いは、迷宮の空間そのものを内側に向かって極限まで圧縮し、ジンもシオンも、そして隔離されている東郷もろとも、数万トンの圧力で文字通り「すり潰す」ことであった。
「消え去れ、異端者ども。女神の慈悲はここまでだ」
アルベールが魔法を発動しようと、法典に魔力を注ぎ込んだ。
まさに、その瞬間である。
ズゴォォォォォォォンッ!!
王国の神聖な白魔法とは全く異なる、黄金色に輝く巨大な魔法陣が、アルベールとカシウスの頭上の暗雲を突き破って顕現した。
それは、空間の座標を跳躍して王都から直接叩き込まれた、超高密度の干渉魔法であった。
アルベールの法典から溢れ出ようとしていた魔力が、黄金の光によって強制的に相殺され、霧散していく。
「なっ……!? 私の魔法を、強引に書き換えただと!?」
常に冷静だったアルベールの顔に、初めて驚愕の色が浮かんだ。
『お控えなさい、アルベール殿、カシウス殿。それ以上の専横は、この私が許しません』
黄金の魔法陣から、静かで、しかし絶対的な権威を帯びた若い男の声が響き渡った。
それは紛れもなく、彼らと同じルミナス王国の最高権力機関、八賢者の一人であるルカ・エヴァンズの声であった。
「ルカ……! 貴様、王都での留守番を任されている身で、我々の神聖なる任務に横槍を入れるつもりか!」
カシウスが杖を振り上げ、空に向かって怒号を飛ばす。
『神聖なる任務、ですか。……見境なく民衆を盾にし、あろうことか我が国の象徴である聖騎士殿までをも迷宮に閉じ込めて圧殺しようとする行為が?』
ルカの声には、静かな怒りが孕んでいた。
『あなた方がこの中立地帯で独断専行を繰り返している間に、私はエリアーナ聖王女殿下に直接謁見し、軍の指揮権に関する緊急の裁可をいただいてまいりました』
「エリアーナだと……? あの小娘の傀儡権限など、我ら八賢者の総意の前では無力だと知っているだろう!」
『ええ。ですから、あなた方が絶対に無視できない「現実」を添えさせていただきました。……情報を統制しているオクタヴィア殿の目を盗むのは骨が折れましたがね』
ルカの冷ややかな言葉の直後、カシウスとアルベールの通信回路に、国境の監視砦からの緊急の魔力通信が雪崩れ込んできた。
『緊急事態! 報告します! ガルディア帝国軍、第一から第四までの全魔導軍団が国境へ向けて進軍を開始! その数、およそ十万!』
『先陣を切るのは、炎の宰相レオン・バルバトス! さらに、帝都からは皇帝ルーファス・ヴァン・ガルディア自らが本陣を率いて出陣した模様!』
「な、なんだと……!?」
アルベールが息を呑んだ。
先ほどジンたちとの戦闘で撤退したはずの帝国軍。
彼らは戦いを諦めたわけではなかったのだ。ジンとヴォルフの激突によってもたらされた次元エネルギーの莫大な余波を観測した帝国は、この中立地帯を完全に自国の領土として制圧し、その力を独占するため、国家の全戦力を挙げた「総力戦」の準備を水面下で進めていたのである。
そして、王国軍の主力と有能な賢者たちが、一人の異邦人にかまけてクレーターに釘付けになっているこの絶好の隙を、冷徹なる若き皇帝ルーファスが見逃すはずがなかった。
『おわかりですね、お二人とも。今、王国は最大の危機に直面しています』
ルカの念話が、追い打ちをかけるように響く。
『あなた方がその無意味な迷宮遊びに魔力を浪費し続ければ、西の国境は半日と持たずに突破され、帝国の黒魔法によって我が王国の民は焼き尽くされるでしょう。……聖王女エリアーナ殿下の御名において命じます。ただちにその魔術を解除し、全軍を国境防衛線へと撤退させなさい』
アルベールはギリッと奥歯を噛み鳴らした。
ここでルカの命令を無視してジンたちを殺すことはできる。だが、その数秒の遅れと魔力の消耗が、帝国軍の侵攻を許す致命的な隙となる。
合理性を誰よりも重んじる防衛の賢者にとって、選択の余地はなかった。
「……全軍、撤退だ」
アルベールは法典を閉じ、忌々しげに吐き捨てた。
「しかしアルベール! あの異端者をこのまま生かしておけば!」
「黙れカシウス! 国が滅びては元も子もない。シオンを回収し、ただちに陣形を再編しろ。帝国の野蛮人どもを迎え撃つ」
アルベールが指を鳴らすと、クレーターを覆い尽くしていた巨大な光の迷宮が、嘘のようにパラパラと光の粒子となって崩壊し、大気中へと霧散していった。
同時に、白銀の騎士団が迅速にクレーターの底へと降下し、倒れているシオンの体を回収していく。
彼らは血だらけで立ち尽くすジンに一瞥をくれたものの、もはや追撃を加える余裕すらなく、嵐が去るような見事な統制で東の空へと飛び去っていった。
すべてを圧倒していた純白の軍勢が完全に視界から消え去り、中立地帯のクレーターには、赤茶けた荒野と、焼け焦げた風だけが残された。
「……ハァッ……ハァッ……」
ジンは、誰もいなくなった空を見上げ、深く、重い息を吐き出した。
「去ったか……」
その言葉を最後に、彼を支えていた超人的な精神の糸が、ついにプツリと切れた。
漆黒の装甲が機能を完全に停止し、ジンの巨体が、崩れ落ちるようにして岩盤の上へと倒れ伏した。
「ジン!!」
隔離結界から解放された東郷創一が、血相を変えて駆け寄ってくる。
彼はジンの首元に医療用の生体スキャナーを当て、その脈が微弱ながらも確かに打っていることを確認し、安堵の息を漏らした。
「よくやった、ジン。君は本当に、私の予想を遥かに超える最高の特異点だ」
東郷は、血まみれで意識を失っているジンの横顔を見下ろし、そして自らの手元にあるコンソールの画面へと視線を移した。
画面には、大地の奥深くから汲み上げられた莫大な環境魔力が、地球の次元座標とリンクし、強固な繋がりを形成しつつあることを示すグラフが表示されていた。
「帝国と王国の二大勢力を退け、その間に発生した尋常ではない魔力干渉が、次元の楔を完全に固定してくれた。……第一段階、クリアだ」
東郷の眼鏡の奥で、狂気じみた歓喜の光が妖しく輝く。
「だが、ここからが本当の始まりだ。この不安定な次元のトンネルを安定させ、君の愛する家族が待つ地球へと繋がる『完全なゲート』を開通させるためには、このエルドラの大地から、さらに莫大なエネルギーを吸い上げ続けなければならない」
東郷は天を仰ぎ、誰もいない荒野に向かって両手を広げた。
「三ヶ月だ」
東郷の口から、冷酷な宣告がこぼれ落ちる。
「あと三ヶ月、この魔力脈を占拠し、エネルギーを充填し続ければ、世界を繋ぐ扉は完全に開かれる。……さあ、急いで機体の修復と要塞の構築を始めよう。彼らが再び、ここへ戻ってくる前に」
それは、偽りの平穏の始まりであった。
帝国は、圧倒的な火力を誇る伝説の黒騎士ヴォルフの傷を癒やし、若き皇帝ルーファスの号令のもと、国家のすべてを懸けた侵攻準備を整えつつある。
王国は、聖騎士シオンの敗北と政治的混乱を抱えながらも、賢者たちの陰謀と、ルカやエリアーナによる内部改革の波が激しくぶつかり合おうとしている。
そして、彼らの背後では、旧貴族のゲオルグ公爵をはじめとする数多の野心家たちが、この混乱に乗じて自らの牙を研いでいる。
異世界エルドラの二大国家が、その存亡を懸けて激突する全面戦争。
そして、その戦火の中心で、孤独な帰還者ジン・クロサワと、狂気を秘めた天才科学者東郷創一が引き起こす、次元崩壊のカウントダウン。
すべてを巻き込む本当の地獄が、今、静かに幕を開けようとしていた。




