第2話:未知の捕食者
2036年、夏。
抜けるような青空が広がるその日、首都圏の第7管区は、いつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。
高層ビル群の間を縫うように自動運転の車両が行き交い、歩行者デッキには多くの人々が足早に歩いている。ホログラムの巨大な広告板が最新の流行を映し出し、平和な日常という名の巨大な歯車が、音もなく正確に回り続けていた。
その歯車が砕け散ったのは、午後二時十七分のことである。
予兆は一切なかった。
突如として、交差点の上空約十メートルの空間が「歪んだ」のだ。まるで透明なゼリーを力任せに捻ったかのように、景色がグニャリと曲がり、直後にガラスが砕け散るような甲高い破砕音が街中に響き渡った。
歩行者たちが何事かと足を止め、空を見上げた次の瞬間。
空間の亀裂から、黒々とした巨大な塊がアスファルトの路面へと落下した。
凄まじい地響きと共に、周囲の車両が衝撃波で吹き飛ばされる。巻き上がった粉塵の中から姿を現したのは、人類がこれまでに見たこともない異形の怪物だった。
体長は優に七メートルを超える。漆黒の体毛に覆われたその姿は、強いて言えば巨大な狼や獅子を思わせるが、背中からは鋭利な骨の棘が無数に生え出し、四肢は丸太のように太く、鋭い爪がアスファルトをバターのようにえぐっていた。
怪物は低く喉を鳴らし、四つの赤い瞳で周囲を見回した。
そして、逃げ惑う人々に向けて、大気を震わせるほどの咆哮を上げた。
それが、虐殺の合図だった。
怪物はその巨大な体躯からは想像もつかないほどの俊敏さで跳躍し、高層ビルの壁面に張り付くと、そのまま重力を無視したように駆け上がり、歩行者デッキへと飛び降りた。
悲鳴、絶叫、そして破壊音。逃げ遅れた人々が、怪物の無造作な一振りで吹き飛ばされ、鋼鉄の支柱が飴細工のようにへし折られる。
発生からわずか数分。平和だった第7管区は、文字通り血の海と瓦礫の山に沈んだ。
事態の急変に対し、防衛軍の対応は決して遅くはなかった。
発生から十五分後には、現地の警察と合流する形で、防衛軍の緊急展開部隊が現場に到着していた。彼らが投入したのは、前年の演習で仮想敵として扱われていた第四世代の大型パワードスーツ、全高五メートルを誇る二足歩行の重装甲兵器「タイタン」三個小隊である。
「こちらアルファ・リーダー! 目標を捕捉した! 第一種戦闘態勢、各機、一斉掃射を許可する!」
指揮官の怒声と共に、三機のタイタンが腕部の30ミリ機関砲を一斉に火を噴かせた。
毎分六千発の徹甲弾が、火線を描いて怪物へと降り注ぐ。これだけの弾幕を浴びれば、いかなる巨大生物であろうと原型を留めず挽肉になるはずだった。
しかし、信じられない光景がパイロットたちの目に飛び込んできた。
徹甲弾の雨が怪物の皮膚に届く直前、空中に透明な波紋のようなものが広がり、銃弾がすべて弾き返されたのだ。
「なんだと!? 弾かれている……バリアだと!?」
後にエルドラの「魔法障壁」と呼ばれることになるその不可視の防御膜に対し、人類の通常兵器はあまりにも無力だった。
怪物は鬱陶しそうに身を振ると、赤い四つの瞳をタイタンへと向けた。
「来るぞ! 回避――」
指揮官が叫ぶより早く、怪物はアスファルトを爆散させて跳躍した。
巨体が空中で身を捻り、タイタンの頭上から襲い掛かる。分厚い特殊鋼材で覆われたタイタンの装甲が、怪物の爪によってまるで紙切れのように引き裂かれた。
火花と駆動液が噴き出し、全高五メートルの重装甲兵器が、為す術もなくスクラップへと変えられていく。
「ひぃっ! た、助けてくれ!」
「後退しろ! 距離を取れ! 対戦車ミサイルを撃ち込め!」
残された部隊が必死に抵抗を試みるも、怪物の圧倒的なスピードとパワーの前では無意味だった。
ミサイルの爆炎を平然と突き抜け、怪物は次々と防衛軍の部隊を蹂躙していく。第四世代の誇る火力も装甲も、この未知の捕食者の前では赤子をひねるようなものだった。
一方、防衛軍の地下司令部では、阿鼻叫喚の通信と絶望的な映像を前に、将官たちが青ざめていた。
「三個小隊が全滅だと……? 発生からまだ三十分しか経っていないぞ!」
「現在、第7管区は完全にロックダウンされていますが、怪物は周囲の防衛線を突破しつつあります。このままでは隣接する居住区に甚大な被害が……!」
司令官がギリッと奥歯を噛み締める。通常兵器が全く通用しない。弾道ミサイルや戦略兵器の投入も視野に入るが、自国の首都圏にそんなものを落とせるはずがない。
「……既存の物理法則が通用していないようですね」
パニックに陥る司令部の中で、ただ一人、冷静な声が響いた。
メインコンソールの前に立ち、モニターに映る怪物のデータを解析していた東郷創一博士である。
彼は白衣のポケットに手を入れたまま、眼鏡の奥で冷徹に怪物の生体エネルギーを分析していた。
「あの生物の周囲には、未知のエネルギー場が展開されています。細胞構造も極めて特異だ。火薬の爆発や単純な物理的質量による攻撃は、あのエネルギー場によって著しく減衰される」
「解説など求めていない博士! どうすればあれを止められるのかを聞いているんだ!」
「簡単なことです」
東郷は振り返り、司令官に向けて薄く笑った。
「同じように『規格外』の力で、あのエネルギー場ごと分子レベルで叩き斬るか、吹き飛ばせばいい。……すでに準備は完了しています。実戦投入の許可を」
司令官は息を呑み、そして重く頷いた。
「……PM-ギア特殊部隊、出撃を許可する! 何としてもあの化け物を止めろ!」
その頃、第7管区の上空一万メートルを、防衛軍の最新鋭ステルス輸送機が飛翔していた。
薄暗い機内の降下ハッチ前で、三人の人影が静かに待機している。
ジン・クロサワは、揺れる機内の中で一つ深く深呼吸をした。
彼は特殊強化インナーを身にまとい、腰にはあの重厚なベルトを巻いている。演習場でのテストから一年。数々の調整を経て、PM-ギアはついに実戦の場へと駆り出されようとしていた。
ジンは右手に握りしめていた小さな金属製のケースを開いた。中には、妻と五歳になる息子の写真が収められている。
彼らの住むエリアは、現在怪物が暴れ回っている第7管区からそう遠くない。もし突破されれば、家族の命はない。
「絶対に、俺が守り抜く」
写真を胸の奥にしまい込むと、ジンは鋭い目つきで顔を上げた。
彼の背後で、金髪の男――ヴォルフが首をポキポキと鳴らしながら獰猛な笑みを浮かべていた。
「ようやく俺たちの出番ってわけだ。下で鉄屑になり下がってる旧型機のパイロットどもに、本当の力ってやつを見せてやろうぜ」
「ヴォルフ、遊びじゃないのよ。下では多くの市民が犠牲になっているわ。私たちの任務は、一秒でも早くあの怪物を排除すること」
シオンが厳しい声でヴォルフをたしなめる。彼女の瞳には、逃げ惑う市民を救えなかった防衛軍へのもどかしさと、強い正義感が燃えていた。
「わかってるよ、シオンちゃん。あのデカブツの頭を吹き飛ばせばいいんだろ? 俺の火力なら一瞬だ」
「二人とも、油断するな」
ジンの低く通る声が、機内の空気を引き締めた。
「奴はこれまでの常識が通用しない未知の生命体だ。通常兵器の攻撃を無効化する防御膜を持っているというデータもある。粒子金属の特性を最大限に活かし、確実に急所を突くぞ」
ヴォルフとシオンが同時に頷く。
その時、機内に降下準備を告げる赤いランプが点滅し、けたたましいブザーが鳴り響いた。
『作戦空域に到達。ハッチを開放します』
コックピットからのアナウンスと共に、機体後部の巨大なハッチがゆっくりと開き始めた。
猛烈な風圧と轟音が機内に流れ込んでくる。眼下には、黒煙を上げ、至る所で火災が発生している第7管区の惨状が広がっていた。
「パラシュートは不要だ。地表到達の五秒前に、ギアを展開。衝撃を緩和して着地と同時に交戦に入る」
ジンは風圧に耐えながら、二人に指示を出す。
高度一万メートルからのフリーフォール。通常の人間であれば確実に命を落とす無謀な降下だが、PM-ギアの性能を信じ切っている彼らに躊躇いはなかった。
「PM-ギア特殊部隊、降下開始!」
ジンの合図と共に、三人の人影が燃え盛る都市へと向かって機体から飛び出した。
鼓膜を破るような風切り音の中、彼らは一直線に落下していく。眼下に広がる街の輪郭が、秒単位で急速に拡大していく。
煙の切れ間から、交差点の中心で次の獲物を探している巨大な怪物の姿がはっきりと見えた。
地表まで残り五百メートル。
三百メートル。
百メートル。
「――起動シークエンス、開始!」
ジンが空中で腰のベルトを強く叩いた。
『PM-ギア、フェーズ1展開』という東郷博士のシステム音声が脳内に響き渡る。
瞬間、三人の腰のベルトから銀色の流体が爆発的に溢れ出した。
それは空中で彼らの全身を包み込み、猛烈な空気抵抗と熱を放ちながら、瞬く間に強固な鋼鉄の装甲へと変貌を遂げる。
「スラスター全開!」
シオンの背部装甲から粒子が猛烈な勢いで噴射され、落下のベクトルを強制的にねじ曲げる。
ヴォルフは両足の装甲密度を極限まで高め、着地の衝撃を破壊力に変換する態勢を取った。
ジンは冷静に怪物の頭上へ狙いを定め、右腕に粒子金属を収束させていく。
地上では、怪物が上空からの異常な接近に気づき、頭を上げたところだった。
しかし、遅い。
轟音。
三つの流星が、第7管区のアスファルトを打ち砕いて着地した。
凄まじい衝撃波が周囲の瓦礫を吹き飛ばし、濛々と舞い上がった土煙の中から、青白いセンサーアイを輝かせた三機の鋼鉄の装甲兵が立ち上がる。
怪物が威嚇の咆哮を上げる。
その巨大な影に相対するように、ジンはゆっくりと右腕を構えた。ベルトのコアが、脈打つように青い光を放っている。
人類の反撃が、今ここから始まる。




