番外 桔梗のこと。
「……」
静謐な沈黙。そよそよとカーテンを揺らがせる風に目を細めて、桔梗は小さく唇を噛んだ。
無用な音を立てぬよう、後ろ手に扉をしめて、陶器で出来たシンプルな一輪挿しの花瓶をそっと飾る。
新鮮な水を吸って、背筋を伸ばす様にしゃんと起き上がるのは星型の花だ。
病室の窓の外。綿菓子の様な雲がぽっかりと浮かぶ蒼穹の空は、遙か彼方の大地のことなど、きっと気にも留めていないのだろう。
どこか神秘的な雰囲気を持つ青紫の花弁をつっと指先で撫でて、桔梗は一つ息を吐いた。
鼻腔をくすぐる香りも凛と伸びた丈夫な茎も、いつもは桔梗に好ましい落ち着きを与えてくれるものだが、今は少し違う。
むしろ、同じ名を冠するだけに――その佇まいに憧憬と嫉妬に似た淡い薄紫の感情を得る。
視線を右に振る。
簡素に設えられたベッドの上、行儀良く収まっているのは人型に盛り上がったシーツだ。丸く、そしてやはり丸い。ぷよぷよに布を盛り上がらせて眠る柔の姿に、桔梗はむ、と形の良い唇をへの字に歪めた。
初対面の者には人形めいた無機質な印象を与える美貌には、はっきりと不満そうな色が乗っている。
――前田・柔、人の気も知らないで、呑気に眠りこけていますね……。
そもそも彼は病人で、手術を終えて幾ばくも経っていない時期なので眠りこけるのは当たり前なのだが、そんなことは関係ないと言わんばかりに、ぎゅむむと桔梗の眉間に刻まれる皺の数は増えていく。
――そうです本当に私の気も……って、わ、私は何を考えているのですか。
穏やかに眠りの園の住人となっている柔の他に、病室内に人が居ないのは幸いなのかどうか。桔梗がぶんぶんと首を振り、白磁の頬を微かに紅く染める姿を見る者は居ない。
桔梗は胸に手を当て、息を落ち着けることに集中した。素早く室内に目を配り、誰も見ていないことを再度確認。
振り切れぬ想いの残滓を置き去りにするかの様に、足音を立てずにそっとベッドサイドに歩み寄り、傍らの椅子には腰掛けずに膝に手をつき、
「……間抜けな寝顔です」
柔の顔を覗き込んだ。
柔を起こさないようにと、無意識の配慮と微量の微笑みの気配を伴って落とされた呟きが、室内に広がりきることもなく、消える。
幾多の奇跡にしがみつき、それを乗り越え、意地と信念だけでここまで歩んできた男と桔梗、その病室での一幕である。
番外編 桔梗のこと。
「……」
それから数分。やはり、室内には沈黙が満ちていた。まるで一個の彫像であるかの様に、桔梗はじっと動かないでいた。焼け付くような静かな視線を、ただ柔の顔に注いでいる。
「……このままだと疲れてしまいますね。す、少しくらいなら問題はないでしょう」
やおら、コホン、と一つ咳払い。誰かに言い訳するように呟いて、桔梗はおずおずとその手指を伸ばした。ゆっくりと動くその先にあるのは、柔の顔の横、真っ白なシーツだ。
開いた掌を押しつける様に慎重にそこに下ろし、体重をかける。ギシリと響いた音に一瞬動きを止めた。
「……」
すやすやと寝息を立てたまま動かぬ柔にほっと大きな胸をなで下ろし、もう片方の腕を伸ばす。既にベッドの上についた手の反対側、柔の頭を挟み込む様に両手をついた。手と手の間隔はそれなりに狭い。
すると自然、豊かな胸元が柔の目の前へと突き出されることになる。
スーツのジャケットは、病室に来た時椅子の背に掛けたままだ。薄手な、白の長袖シャツの下にある魅惑の双球が重力に引かれて見事な谷間を見せつけ、たゆんと揺れる。
普段は余り目立たない、柳の如くしなやかな腰が色っぽく捻られ、合わせてその尻がぐっと突き出された。シャツの生地に皺を寄せながら背中のラインが強調され、無意識に左の片膝をベッドにかけたことで、更に尻と肩胛骨までのラインが余計に際立つ。
「……」
外から見れば、殆ど女豹のポーズ。寝込みを襲っている様にしか見えない妖しげな体勢だった。
「……」
無言ながらも、今度は小さく唾を飲む音が響く。頬の両側に流れ落ちた茶の髪をくすぐったく感じながら、名状しがたい感覚が胸の奥から込み上げるのを、桔梗は感じていた。
「我ながら……このようなこと、を」
「ふま」
「っ!?」
独白は、最後まで続けられなかった。
柔が不思議言語と共に寝返りを打ったのだ。彼は勢いよく転がり、もにゅもにゅと顔を歪め、そしてだらしなく頬を緩める。
転がった体躯、その拍子にひょいと動いた頬が自身の手指の上にあることを、桔梗は一瞬知覚出来なかった。
「な、え……」
運が良いのか悪いのか、柔はすやすやと眠りに落ちたまま。桔梗の居る方向へと寝返りを打たれたせいで、桔梗は何とも動きようの無い体勢になってしまっていた。
暫く呆然として、すぐに我を取り戻す。まずは慎重にと、ゆっくりと右手を柔の頬の下から引き抜こうと試みた。柔らかく沈み込むシーツに恨めしさを感じながら、そろりそろりと手を動かしていく。
触れた頬は柔らかく、指先に感じる熱は意外に高い。それは柔が太っているせいか、それとも、ただ子供体温だからなのか。
「うう」
「……っ!」
悲鳴に似た声をかみ殺したのは、咄嗟のことだった。頬に敷いた桔梗の指が動くと不快なのか、柔が頭をぐりぐりと振ったのだ。同時に延ばされた腕が、しがみつくように桔梗の腕を捕らえる。
「あっ」
手先を固定されたまま腕を動かされたことで、桔梗の右腕は呆気なく曲がった。手首を痛めぬよう反射的に、ぽすりとベッドに右肘をついてしまったせいで体勢が崩れ、より窮屈な姿勢になる。
急激な動きに、ベッドの骨組みは小さくない音を立てた。
それでも起きない柔は、筋金入りに神経が鈍いに違いない。そんな言葉を脳裏の片隅に浮かべる桔梗の胸が、期せずして高鳴った。
左半身を下に、横向きに寝ている柔の顔が酷く近いのだ。
体温、いや、その吐息すら感じ取れる距離に体ごと近づいてしまった桔梗は、瞬時に頬を紅く染めた。
「ど、どうすれば……」
いいのですか、という言葉は続かない。再度寝返りを打った柔が正面を向き、指先が解放される代わりにその腰をぎゅっと引き寄せられたからだ。
引かれる動きに抗しきれず、右肘と左の太ももは体とベッドに挟み込まれ、体がずり落ちた為に右膝が落ち、ベッドの上に身を投げ出す。
「あ、やっ」
為す術もなくベッドに身を落とした桔梗の思考は、纏まらない。細くか細い羞恥の声は、誰にも知られずに病室の空気へと溶けていく。
「っ、こら、離しなさい、前田・柔……!」
完全に体重をベッドに預け。腕で体を支えることが出来ない桔梗の体を支えるのは、その豊かな胸だった。その谷間に柔の顔が完全に埋没している。
撓み、押しつぶされる自身の体に柔の体温を感じ取って、桔梗は耳まで赤くなった。
「くぅ、胸を、胸の間で顔を動かすのは、や、んっ!」
人を抱き枕か何かと勘違いしているのか。細い腰元を捕らえていた柔の腕が背中まで這い上がってぎゅっと抱きしめる。重ねた指先が偶然つつっと背中のライン、その中心線を捉えて、桔梗は思わず声を上げた。
体の筋肉が硬直し、動ける範囲で細い頤が反り上がる。一瞬遅れて波打つ髪の毛がぱさりと宙を打った。
「――!」
は、と息を継ぎ、かくりとその顎先が落ちる。何とか倒れ込まない様にと気を張りながら、身を捩ろうとした桔梗の背中に、再度柔の指先が触れる。
「あ、ちょっ、まえ……柔! せなかは、止めてくださ……!」
ぞわりと肌が泡立つ。思いも寄らない快感の波に飲まれて、桔梗はくたりとベッドに頽れた。
「む、むー……! むぐ……!」
すると完全に桔梗の胸に閉じ込められた柔が、酸素を求めて動き回る。その動きに多量の羞恥と微量の快感を覚え、反射的に桔梗は体を起こした。
背中を押さえられているので、余り大きな動きは出来ない。やはり柔を起こしたくない為か、その動きも叱る声も、大人しい。
「んぁ、やです、そこは――! は、う……」
薄い唇は血色良く、乾いたそこを無意識になぞる長い舌の動きは、淫靡ですらある。ルージュの代わりに、自身の唾液で艶々と濡れた唇の間から漏れる吐息は、酷く色っぽい。
暫く、胸に顔を擦り付けられ背中をなぞられるという行為に翻弄されていた桔梗は、荒い息を吐きながらも、ようやく柔が息苦しいのだと思い至った。
薄く額に汗を刷いたまま、何とか優しく柔の腕を外そうと試みるのだが、柔の腕はがっちりと桔梗を捕らえていて離さない。
強く抱きしめられる感覚に、言葉には出来ないものの、女心に感じる嬉しさと羞恥が釣り合って、本来なら片手であしらえる柔の力に抗えなくなっている。
頬の赤みは一向に引かず、下腹から来る体の熱も快感も、慣れない類のものだった。その命と人生の全てを撫子に捧げると心に決めて以来、いや、生まれてこの方、男に感じたことの無い感覚だった。
桔梗には、そういった経験どころか、初恋すら覚えに無いのだ。耐性や免疫の有無よりずっと前、未知の世界に対する経験値がゼロの桔梗に取って、この状況で為す術は一つも思いつかない。
他の男相手なら、こうはならなかっただろう。寝相の一環だとしても、桔梗ほどの膂力があればすぐさま振り解くことが出来るし、そもそも、桔梗は男の見舞いになど顔を出さない。
出したとしても、手土産を置いてすぐに帰るだけだ。
全ては、事件の最中に感じた淡い想いが、柔という存在への抵抗値を減らし、代わりに彼を一人の男性として見せているからに他ならなかった。
いつの間にか、胸の内に灯っていた静かな炎。
それは燃え上がる様な激しい物では決して無い。しかし、本人に自覚は無いが、静かな蒼の炎はじんわりと桔梗の内面を焙り続けていたのだ。
桔梗にとって、柔と撫子との間に割って入ることなど、想像することも出来ず。柔を困らせたく無い為に、想いを告げようとも思わない。
だが、撫子の秘書兼ボディーガードである以上、その側を離れることは出来ず――結果、柔の側に付きっ切りな撫子と柔の遣り取りを、ただ黙って見ていることしか出来なかった。
撫子への背信となる行為は、桔梗に取って論外のことだ。故に、柔の気を殊更に引こうとする気は無い。
経験が皆無な為に、ちょっとしたからかいやスキンシップで、程よく身の内に燃え続ける炎を宥める術も持たない。柔も桔梗も、決して饒舌なタイプでは無いということも大きかった。二人きりになった所で、会話が弾む訳でもない。
かと言って、眠れぬ夜中に自分に言い聞かせても、未練がましい自身の心は、諦めることがどうしても出来ず――夜毎、心に反して女性として成熟した体の火照りを、一人で抑える術があることも、桔梗は知らないのだった。
とにかくこと恋愛沙汰に関して、桔梗は殆ど無知だった。男女の繋がりがどういうことかも、どの様な行為をするのかも、知識としては、昔の仲間達が愚痴の様に零した言葉で知っている。そういう場面を、彼女は見たこともある。
だがしかし、生まれ故郷の生活では、幾枚かのコインで成り立つソレは決して愛や恋と結び付いた物ではなく、女性の欲求を満たす物ともかけ離れた物で。
物が豊かで、恵まれたこの国に来てからも、ただ撫子のことだけを考えていた桔梗の身には、そういうものは縁遠いものだった。
十分な栄養を取り、護身術の為の訓練を繰り返すことで見る間に輝き出してからの彼女の体に向けられるのが、男性の下卑た視線ばかりだったというのも、大きな原因の一つであろう。
何も出来ず、しかし思いは絶えず燃え続け――この時の桔梗は、限界に近かった。
取り繕った無表情の下で身を捩り、押しつぶすように胸を抱きしめ。体を丸めて自身の想いとそれに付随する体の甘い痺れにひたすら耐えていたのだ。
浅く激しくなる呼吸に更なる羞恥を覚え、僅かに身をくねらせることしか出来ない。時折口をついて出そうになる言葉を、唇を噛むことでせき止めることで何とか抑えている。
純白のシーツをきゅっと握りしめ、悩ましげな表情で瞳を潤ませる桔梗の顔は、文句なしに魅力的であった。
抑えきれぬ体の震えが脊髄から脳天へと抜ける度に、思考が僅かに蕩けていく。
「は、……くぅ、んあ……」
ふるふると豊満な体を揺らしながら、思考がぼんやりと霞んでいくのを桔梗は感じていた。口内に溜まった唾液を無意識に嚥下し、唯一自由になる左腕をつっぱり、何とか柔の呼吸が妨げられないように体を支える。
しかし、そんな健気な努力も空しく、抱き枕状態の柔はすりすりと頬を胸に擦り付けた。
その動きに更に思考が溶け、つっぱったばかりの左腕も力なく折れる。胸の下に柔を押しつぶして仕舞わないように、力を振り絞ろうとするが、へなへなと力の抜けた――どころか、ともすれば柔の体にすり寄ろうとしてしまう体は言うことを聞いてくれない。
――だ、ダメです、このままでは……。
自身よく分からぬ狂おしさに心と体を掻き混ぜられて、オートミールの様に、本当に思考が溶けきってしまうのではないか――そんなことを、桔梗が脳裏に浮かべた瞬間、
「あらあら、まあ」
「ク、イーン……?」
聞き慣れた涼やかな声。凛としたそれは、桔梗の体に一拍遅れて理解を及ばせ、一瞬の硬直をもたらした。
たった今まで欠片の力も振り絞れなかった体に瞬時に力が籠もり、自身を抱き締める柔の腕を振り解く。
ぐてんと転がる柔を半ば無視して、飛び上がる様に立ち上がりざま、振り向いた。頬だけでなく、乱れた胸もとから覗く鎖骨の辺りまでが赤く、息は色っぽさを僅かに残している。
くすんだ茶の髪が数筋、刷いた汗で肌に貼り付き、見開かれた鳶色の瞳は揺れていた。
「あっ、これは……っ。これは……その」
「ふむ?」
視界に収まる撫子の姿は、やはり美しい物だった。
長い黒絹は、尻尾でも括るかのように毛先に近い部分で留められ。
丸く見開いた目の大きさ、とがった鼻梁や流麗な頬のラインは、美意識に疎い桔梗でもうっとりする程だ。
桔梗の中で、見られたという思いと、どう詫びれば、という思考が直結する。同時に、合間に挟まった柔の体温と残り香と胸の鼓動が、言葉を発することを困難にさせていた。
ぐるぐると、凄まじい勢いで思考は空転し、言うべき言葉は何一つ喉の所まで上がらない。
ただ、不義理を働いた、と。
それだけを意識した桔梗は、自身気付かぬままに瞳に涙を溜め、申し訳なさに眉を歪めた。
扉の前、廊下側から一歩を踏み出した主人の姿に怯えるように、びくりと大きく肩が跳ねる。
撫子の思い人に浅ましくも抱きついていた(少なくとも、そう見えただろう)のは、経緯はどうあれ、良いことではあり得ない。
「……桔梗」
厳しい叱責の予感、もう捨てられるかもしれないという恐怖に体を竦めて項垂れる桔梗。
自責の念や恥ずかしさ、後悔、痛惜、様々情念が胸の内に渦巻き、濁流となって桔梗の心を荒らし回る。
さながら暴風雨に巻き込まれた小舟の如く、意のままにならない感情の暴走は止まらない。
ぺた、と響いたスリッパの音が、今はギロチンの準備音にすら聞こえる。
桔梗は太ももの前でぐっ、と手を握りしめ、唇を噛んだ。俯き、垂れた前髪が視界を遮る。
「怒ったりなんかしないですの。そんなに、怯えないでくださいまし」
え、と。聞き間違いかと疑問に思い、顔を上げようとした桔梗の顎先を、撫子の指が捕らえた。
「クイーン……?」
顎先から頬へ。滑らせる様に流れた繊手は、暖かい。目尻から、今にも零れそうになっていた滴を優しく拭われて、桔梗は目を瞬かせた。
「ごめんなさい。……辛かったのでしょう?」
視線の下、すぐ傍に立っている撫子の顔は、形の良い眉根を寄せて顔を歪めた、本当に申し訳なさそうな、気の毒そうな、そんな表情だった。
謝られる理由が何も思い浮かばず、狼狽える桔梗を見て、撫子は更に腕を伸ばす。両頬を優しく包まれて、桔梗はどうにも動けなくなった。
「なぜ、そんな……」
「気にしないで。今の出来事に関して、咎めるつもりはないですの。貴女、ここ最近ずっと、酷く苦しそうだったから」
撫子はそこで一度視線を外し、だらしなく転がって居る柔が、眠っていることを確認して、
「――好き、なんでしょう? 柔のこと」
「――っ!」
優しい声音で言った。その言葉は桔梗の鼓膜を震わし、脳を震わし、そして心と体を震わせた。
知られた、と。ふるり、と震える桔梗の体を宥める様に一度頬を撫でた撫子は、にっこりと微笑んだ。
「あ、あ、あ」
「怯えないで。大丈夫、大丈夫ですのよ」
「あう、……」
ぎゅ、と抱き寄せられる。ぴったりと重なった体は、柔らかく、優しく、そして暖かだった。
桔梗を落ち着かせる様にぽんぽんと背中を叩く、一定のリズムが心地良い。
しばしそのまま、何も考えられずにいた桔梗を、撫子はそっと備え付けの椅子に導いた。
撫子自身も椅子を引き寄せ、桔梗の隣に腰を下ろす。
一瞬、飾り付けられた桔梗の花に笑みを零し、そのままの顔でもう一度、優しく桔梗を抱き寄せた。
「隠したってバレバレですわ。私は貴女の主人で、妹で、親友ですのよ? ふふ、あんなに熱烈な視線、気付かない柔の方がおかしいくらい」
「……」
「大丈夫。どうして良いか、分からなかったのでしょう?」
撫子の腕の中、桔梗はこくりと一度だけ頷く。ぎゅ、としがみついてくる桔梗に、何とも言えぬ愛しさを感じた桔梗は、申し訳なさそうに眉を緩めた。
「実は、結構前から気付いてはいたんですの。……でもまぁ、撫子もその、色恋沙汰と言うか、そういう経験は余りないですし。どうすれば一番良いのか、分からなくて」
「……?」
桔梗の背中をあやすように撫でながら、撫子はふぅと息を吐いた。
「同じ男性に落とされてしまった者同士ですし、好きな人とふれ合えない苦しさは、分かるつもりですの。貴女が他の男性に目を向けることが出来るとは思えませんし……桔梗には幸せになって欲しいという思いも、譲れませんし」
諦めろと言えば良いのか、諦めれば良いのか、どうしましょうかと、散々悩んだんですの。そう呟くと、腕の中の桔梗を見やる。
ずりずりと滑り落ち、今では撫子の胸元に顔を埋めている桔梗が、おずおずと撫子の顔を見上げた。
常に無い揺れた表情は、どこか子供っぽく純粋な物で、
――な、何てかわいいんですのっ!
撫子ははう、と息を漏らしながら、思いっきり抱きしめて頬摺りをする。
「く、くいーん」
戸惑いを含んだ濡れた声は、未だに縮こまったままだ。よしよしと頭を撫でてやりながら、撫子はゆっくり口を開いた。
「少々、問題は山積みですが……貴女も柔を、求めてみなさい?」
「それは、あの?」
「平たく言えば――」
コホン、と一つ咳払い。横目で柔の熟睡を確認して、
「誘惑なさい」
「なぁ……っ!?」
がば、と桔梗が起き上がった。鳶色の目をまん丸に見開いたその顔は、少しお間抜けである。
「い、痛い。痛い痛いですの桔梗! 余り力を込めないで!」
「も、申し訳ありません!」
わたわたと二人して慌てながら、取り敢えず椅子に座り直した。
撫子は、桔梗に捕まれた腕を涙目でさすりながら背筋を伸ばす。対する桔梗は、乱れた前髪を手で払い、両手を膝の上に置いた。
「それで、その、クイーン。……何て仰ったんですか?」
冷静さを少し取り戻したのか、桔梗の頬の赤みはやや治まっている。
「だから、柔を誘惑なさい?」
「そ……っ」
桔梗は一度息を呑み、思わず大声を上げそうになった自分を内心で叱咤する。
「そんな無茶苦茶な!」
「あら、伊達や酔狂で言った訳ではありませんわよ。折衷案ということで……色んな障害を乗り越えれば、これが最善の策だと思っただけですの」
「だ、だからと言って、そういうのはその……良いんですか!?」
「良いも悪いも、倫理的に見たらダメダメですわ。でもね桔梗、貴女――柔のことを諦めることが出来ますの?」
「それは……」
是、と言わねばならない、と桔梗の理性は主張した。同時に、もぞりと蠢いた本能が、それを否と抵抗する。
諦めるのが一番良い。だけど諦められる自信は無かった。
「無理なのは分かっています。撫子だって、諦めろ、なんて言われたら、何が何でも反発しますもの。桔梗の気持ちが中途半端だったら、こんなことは言いませんわ。もう一度聞きます、貴女……柔のこと、諦められますの?」
「……」
返答は無言だった。代わりに、俯けられたアッシュブラウンの頭がふるふると数度、横に振られる。
「でしょう? 撫子はこれから先も、貴女を秘書兼護衛から外すつもりは欠片もありませんし……だから、折衷案を考えましたの」
「でも……」
「撫子は、桔梗のことを大事に思っています。柔のことは好きですの。撫子と貴女と柔と、三人が幸せになれれば、言うことは無いと思いません?」
「……」
思います、とは口が裂けても言えない桔梗。
柔の恋人は撫子で、撫子の恋人は柔なのだ。先の提案、自分がそこに割り込めば、遠からずその関係が崩壊することだって考えられる。
それぐらいは、桔梗にも分かることだった。
「倫理的に、二股は褒められたことではありません。重婚は、日本の法律で禁止されています。そもそも撫子達は注目を浴びる立場に居ますから、仮にそれが大々的にバレたとしたら、役者生命はぽしゃんですわ。何より、どんなに上手くいったって、やっぱり焼き餅を妬いたり、そういうのは避けられないでしょう。そもそも、彼がそれを承諾するかも、問題ですし」
「なら……私に、もう諦めろと、そう言って下されば」
「却下。大・却下ですの」
ぐ、と桔梗は押し黙った。対面する撫子の瞳、黒曜石の輝きを秘めた双眸は、キラキラと煌めいていて、色が深い。
夜の闇を閉じ込めた様な神秘的な輝きに、桔梗は気圧されていた。瞳の色は、柔が浮かべていたあの不思議な色合いよりもっと、ずっと深くて重い。
無茶だと言われる過酷なスケジュールを組んだ時、無理だと言われた大役に抜擢された時。いつも撫子は、この色を浮かべていた。
そしていつでも、完璧以上にやり遂げて来たのだ。
「まぁ、貴女が嫌なら、この提案は水に流してぽいなのですけれど……」
「い、嫌では! ……ありませんが」
言葉は脊髄反射だった。しまった、と罰の悪そうな顔をした桔梗は、一度顔を伏せ、上目遣いに撫子を見やる。
「なら……何が何でも、上手くいかせるように、一緒に頑張りましょう」
「……」
「ね?」
ずい、と撫子が身を乗り出す。尚もしぶる桔梗の様子に、真面目な表情から一転、悪戯っぽい光を瞳に浮かべた撫子は、ニヤリとチシャ猫の如き笑みを浮かべた。
更に大きく桔梗に近寄り、その耳元にそっと唇を近づける。
「……柔に、好きなだけ甘えられますわよ?」
「……!」
ぴく、と桔梗の体が跳ねる。
「抱きしめられたり、キスしたり、膝枕したり……そうね、さっきみたいに、抱き枕も」
「ぅ……」
垂れた髪の毛の向こうで、カァッ、と桔梗の顔がのぼせ上がった。
「えっちぃことも」
「ぅう……!」
頬の熱は、すぐに耳にまで達する。首筋まで赤く染め、ぎゅっと目を瞑った桔梗の脳裏に描かれているものは一体何か。
「撫子も、その、まだですけれど……三人で、します?」
「〜〜!」
声にならない悲鳴を上げて、桔梗はべたっと掌で耳を押さえた。恨めしそうに撫子を見上げる紅茶の瞳は、悩ましげに潤んでいる。
「きーきょーうー?」
揶揄う撫子の頬もまた赤いのだが、そこはそれ、今は滅多に見られない桔梗の狼狽する姿がお気に召しているらしい。
耳を押さえていやいやしている桔梗の腕を取り、力ない抵抗を物ともせずに剥がしてしまう。
「冗談は……あながち冗談ですみそうも無い所はアレですけど……コホン。これくらいにして。桔梗、良いですの?」
「……何ですか」
ぷい、っと顔を背けてしまう。唇をとがらせ、拗ねている姿が魅力的な物だとは、桔梗は思っていないのだろう。撫子は、自分の魅力に無関心な彼女のことを思い、くすりと笑みを零す。
「重婚については、まぁ、マスコミの前で大暴露しちゃいましたし、本妻は撫子で、内縁の妻というか……第二婦人? として、貴女を迎えれば問題ないと思いますの」
「こ、子供が出来たら」
「子供が出来たら、養子縁組を組めば良いのです。撫子は貴女を手放す気は毛頭ありませんし、どの道一生一緒に居るつもりですから、悪い提案では無いでしょう?」
「それは……」
何とかして反論を探そうとする桔梗。まごつく彼女を手で制して、立て板に水を流すが如く、撫子はすらすらと言葉を紡いでいく。
「今だって、撫子と貴女は同じマンションに住んでいるでしょう。仕事の為、という名目なら、連れだって行動することには何ら支障はありませんの。プライベートな旅行だって、いつも一緒に行って居ますし。それに幸いにして、お兄さまやレティ、久美子先生なんかは常識に拘る人達ではありませんし、口も堅いですから。撫子の両親も、とにかく良い人達ですから、言いくるめるのも納得させるのも、そう難しい話ではありません。柔側の方は、何とか説き伏せてみせます。だから、親類縁者から反対されることは多分、ありませんわ」
「た……確かに」
「おおっぴらにデートや新婚旅行をする訳にはいかないのですけれど……撫子だってそこは同じですし、こっそりお出かけしたり、三人で新婚旅行すれば良いだけの話です。結婚式だって、事情を知っている人だけを集めて、神前式じゃなくて人前式を二回、上げれば良いと思いますし」
「でも」
「嫉妬や焼き餅は……桔梗相手ですもの、それはきっと、お互いに無いとは言えないですけれど、そこは柔に頑張ってもらうとして。個人的には、貴女が一緒なら、むしろ嬉しいのですし」
「ま、マスコミに叩かれたら、役者生命は無事では済まないでしょう!?」
「あら、桔梗」
ぺらぺらと対策を述べていく撫子の話の合間に、桔梗は何とかそれだけ挟み込んだ。
役者、女優として活躍している以上、現実味を感じさせるゴシップは御法度だ。アイドルほどでは無いが、やはり先の騒動だって、人気上昇に繋がる話題とは言い難い。
どうするのか――そう突きつけた桔梗の言葉は、苦し紛れではあるが、鋭い正論だった。
対する撫子は、紅唇を釣り上げ切れ長の瞳を細め、妖艶な笑みを浮かべながら、
「――撫子を、この私を……誰だと思って?」
短く、言い切った。
「大抵のマスコミには顔がききます。映画会社やその下も同じ。余り褒められたことではありませんけれど、仮にすっぱ抜かれたとしても大きな記事にはなりません。それに」
「……」
「例えそれで風評が落ちたとしても。撫子は必ず、演技の力、女優としての道で返り咲いて見せます。――だから、大丈夫ですの」
自信に満ちた言葉だった。
これまでの行動・経験の積み上げによってのみ得られる、揺るぎない自信に支えられた撫子の言葉。
カリスマという物の一種なのだろう、撫子が口にする言葉は、万人の賛同よりも説得力のある言霊になる。信じて付いて行けば良いと、そんな気持ちを、桔梗は抱いていた。
「だから聞きます。撫子と貴女と柔と。三人で一緒に、幸せになりましょう?」
「――は、い」
だから、気付いた時には頷いていた。あ、と思った時には既に遅い。満面の笑みで、心から嬉しそうに微笑む撫子の顔を見て、桔梗はまぁ良いです、と眉を緩めた。
しかしすぐに、心のどこか、奥の方に引っかかりを覚えて顔を曇らせる。
「でも、クイーン。その、わ、私なんかで良いんですか。背が高すぎますし、筋肉も付いていますから、その、ゴツくて、肩幅も広いし……」
「……貴女それ、本気で言っているんですの?」
もじもじと太ももをにじり合わせる桔梗に、撫子は疑わしそうに半眼を向けた。
背が高いとは言え、その半分は見事な脚線だ。筋肉がついていると言っても、手足はすらりと長く、スキンケアなど殆どしたことが無い癖に肌は磨き上げたかの様に白くきめ細かい。
肩幅が広いと言っても背の高さから見れば十分許容範囲内で、がっちりしている訳では無いし、何より、訓練のお陰で引き締まったくびれと、規格外なその胸の果実と尻肉は、撫子からしても溜息を吐かざるを得ない様な女性らしさである。
撫子が美しいと思った鳶色の瞳は、曇ることなくいつも冷静に煌めいていて、程よく鍛えられた彼女の体は、弾力があるのに柔らかい。
きっと桔梗は、年を経てもプロポーションを難なく維持してしまうのだろう。
外見で言えば間違い無く、仕事柄、様々な美女や美少女と関わりを持つことの多い撫子ですら、嫉妬を感じてしまう様な女性美だ。
大女優のお付きの方が、下手な女優より美しく、またスタイルも良いのだから手に負えない。
無頓着だとは思っていたが、これほどだったのか、撫子はむむと眉根を寄せた。
はぁ、と溜息を落とし、額に手を当てる。
どうせなら、今度からみっちり、スキンケアや化粧、ファッションについて教え込もう、と決意した。
「むしろ貴女だから、撫子は嫉妬してしまうかも……というか、下手をすれば奪われてしまうかも位には思っているのですけれど」
「な……! お、おかしなことを言わないで下さい。貴女に私が、敵う訳ありません」
「もー、本当にこの子は無頓着と言うか……良いですか、桔梗。並大抵の女性が相手なら、撫子が揺らいだりすると思います? と言うか、奪い合いになったりすると思いますの?」
「いえ、貴女に靡かない男性は、特殊な性癖の持ち主だけでしょう」
「じゃあ何で、撫子はこんなに危惧してるんですの?」
「……さぁ?」
さぁじゃありませんわ……と言いそうになるのをぐっと堪えて、撫子は次々に桔梗の良い所を指摘していった。
顔や体、バランスは言うこと無し、性格は落ち着いていて、頭の回転も速く有能。
興味が無いと言う為、料理……というか、家事こそ全滅だが、それ以外のことなら大抵すぐに順応出来る。
撫子にとって未知のゾーン、パソコンなどの話題について、柔と語らっていることも多いし、実際、趣味も合うらしい。
極めつけは、
「特にその胸。何が詰まってるんですの? 夢ですの? 希望ですの?」
「こ、これはただの脂肪で……どうしたんですかクイーン、にじり寄って来、きゃっ」
「あらあら、可愛い悲鳴だこと。うーん、いくら撫子でも、こればっかりは羨ましくて仕方が無いですわー」
「あ、ちょっと、何で私の胸を、やっ、クイーン!?」
「やっわらかいですのねぇ」
桔梗に組み付き、抵抗出来ないのを良いことにその巨乳を揉みしだく。前から抱きついただけでは物足りないのか、撫子はするりと移動して、桔梗の背後に陣取った。
しな垂れかかるようにしながら、むにむにと手を動かす。
桔梗の肩に顎を乗せ、ふぅっと耳に息を吹きかけたりしながら、囁きかける。
「や、止め」
「……という訳で、貴女は客観的に見て、十分に魅力的な女性なんですけれど……お分かりですの?」
「で、でも……んっ!」
「うーん、頑固ですの。こうなったら……」
くり、と視線だけを動かし、撫子は悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。相変わらず、手だけは盛んに動かしながら、
「じゅーう、貴方はどう思いますの?」
「ぅえ……!」
「な……!」
ベッドの上、懸命に寝たふりをしている柔に呼びかける。
「誤魔化しても無駄ですのよ、柔がさっきから――具体的には、撫子が桔梗に悪戯し始めた時から起きてたこと、気付いてましたから。さ、観念なさい」
耳まで見事に真っ赤な顔で、何とかやり過ごせないかと目を閉じていた柔は、恐る恐る瞼をこじ開けた。
手をついて上体を起こしながら、ちらっと視線を向ける。
ベッドサイド、椅子に腰掛けた桔梗の体に背後から絡みつく様に、撫子は抱きついていた。
その手が大きな胸に添えられているのを見て、柔は慌てて視線を逸らす。
そして、驚愕に目を見開き、ふるふると震えながらこちらを見ている、潤んだ鳶色の瞳を見やり。
色っぽく染まった頬や首筋、顔の色や、乱れたシャツから覗く可愛らしいおへそを見やり。
「あわ、わわ、わ……!」
言語能力を失った。
「ご覧なさい、桔梗。柔があんな風になる位には、貴女は魅力的ですのよ」
「く、あ、え、クイーン!」
「なぁんですのー。揉み揉みー」
「ひあっ、ん……こ、こういうことを見せられれば、男性は動揺するのでは……っ!」
「んー」
ふむ、と撫子は一度手を止め、小首を傾げて、
「柔、こちらをお向きなさい」
「ふぁ、ふぁい」
鼻血を噴き出しそうになって、トントンと首の後ろを叩いている柔に声を掛ける。
「桔梗も……ん、髪を軽く整えて……と」
ぐったりして荒く息を吐いている桔梗の髪を手ぐしで整えて、服の襟を正してやる。そうしてから再度柔の方へと目を向けて、自信満々に口を開いた。
「では、柔。桔梗を見て、桔梗のことをどう思いますの?」
「うえ!?」
「クイーン……」
「さ、怒りませんから、正直にお答えなさい」
本当に? と気弱げに視線で問い掛けた柔に、撫子は頷きだけを持って返す。
返答を促す様に視線を強め、手持ちぶさたなのか、桔梗の頭をすりすりと撫でた。
「あー……その」
「桔梗も、柔が貴方を魅力的に思っているかどうか……知りたいですわよね?」
「うー……ま、まぁ、知るに吝かではありませんが……」
「ほらほら柔、ご指名ですわよ?」
暫く煩悶していた柔は、やがて観念したのか、恐る恐る二人の方を窺いながら口を開いた。
「み……」
「な、何ですか」
「魅力的だと、その、思います。凄く」
「〜〜!」
ボン、と言う音が聞こえた訳でも無いが、桔梗はその一言だけで余すところ無く茹で上がってしまう。
ベッドの上、こちらも真っ赤になっている柔と桔梗を交互に見比べ、撫子はうんうんと頷いた。
ほら、言った通りでしょう? と桔梗に囁きかけ、
「で、具体的にどういう所が魅力的ですの?」
「な――!」
倍プッシュ。追い打ちをかけた。
「背も高くて、足とかもその、凄く長くて、格好いいし、顔も綺麗だと思うし……。話しやすくて優しいし……」
柔も、思考能力が鈍ったせいか、つたないながら素直に追撃を仕掛けてしまう。
力なく、じたばたと暴れようとする桔梗を抱きしめることで押さえながら、撫子はにまにまと笑みを深めた。
「他には他には?」
「む、いやその……ええと、その」
「おっぱいも大きいですし?」
「……ごめんなさい、はい」
押せ押せである。いじめっ子だった。
一言一言ごとに焦り、狼狽える桔梗をしっかと抱き締めたまま、撫子は更に言葉を続けていく。
「それに……まぁこれは意外かもしれませんけど、意外と可愛いんですのよね」
「かわ……!?」
「あ、それは分かります」
「前田・柔、あ、ああ貴方何を!」
いつの間にか柔も、何の気なしに合いの手を入れていた。
本人に他意は無いのだが、衝撃的すぎる目覚めだとしても、やはり寝起きで、頭がはっきり覚醒していなかったことも相まって、思い当たることには素直に頷いてしまう。
「朗報ですのー。こう見えて桔梗、結構おマゾさんっぽい所が……」
「な、なな何を言ってるんですかクイーン!?」
「ふわ!?」
しかし、唐突なマゾ発言には驚いて飛び上がった。
いよいよ目の端に涙を浮かべながら、激しく暴れ出す桔梗をやんわりと羽交い締めにしたまま、撫子はウインクを一つ飛ばす。
唇をほんの少し尖らせ、
「ふぅー」
「ひあぁっ!」
「はむはむ」
「んく……!」
耳に悪戯をする。
柔は、余りの事態に驚きを通り越し、幾分静かな心持ちでうんうんと大きく頷いた。
「確かに……ちょっと、Mっぽいかも……」
言ってからハッ、と我に返った様に目を見開き、ぶんぶんと首を振る。
いつの間にか握りしめていた掛け布団に潜り込み、一心に念仏を唱え出した。
「な、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
何か間違っている気がしないでもないが、ただの現実逃避である。
「ね、桔梗。貴女は十分以上に魅力的ですわよ」
「わ、わか、分かりましたから離して下さ……くぅんっ」
最後に一つ耳たぶを甘噛みして、ようやく撫子は桔梗を解放した。くたりと倒れ込みそうになり、必死に体を支えている桔梗は、すんすんと鼻を鳴らしている。
「では、桔梗。賛成して下さいます?」
「……はい」
「よしよしですの」
満足げに頷いてから、撫子は桔梗の頭をさわりと撫でた。
視線を振り、何やら妖しげな経文を垂れ流している布団を眺めて顎に手をやる。
「うむむむむ……お、お経は、お経の続きは何だったっけ」
こんもりと丸く盛り上がった布団は、ふかふかしていて気持ちが良さそうだ。
撫子はおもむろに布団の端っこを掴み、勢いよく腕を振り上げる。
「よい、しょと」
「う、うわ!」
ごろん、と抵抗する間もなく、柔が転がり出た。
決して大きいとは言えないベッドの足下に掛け布団を丸め、だらだらと汗を掻いている柔をひたと見詰める。
「ふむぅ」
「な、なんです……?」
おどおどとした気弱な声と上目遣い。撫子は敢えてそれに答えずに、にっこりと笑顔を作った。
「詳しいことは後々分かりますの。今日の所は、と……桔梗、さ、起きなさい」
「うぅぅ……」
未だに衝撃から脱しきれて居ないらしい。
両腕で締め付ける様に胸を抱え、妙なうなり声を上げて撫子を見上げる桔梗に対して、笑顔の撫子はこう言った。
余談ではあるが、しっかりと胸部に巻き付いた両腕のせいでただでさえ大きな双球が寄せ上げられ、くっきりと谷間を覗かせている。
「今日の所は、これで許して下さいまし」
言うや否や、撫子は桔梗の腕を取る。
そして抵抗する気力も湧かないのか、諾々とその動きに従う桔梗を、柔のベッドに転がした。
「え……?」
ぽかんと口を開いて疑問符を飛ばしている桔梗と柔を満足気に見やって、撫子は柔を挟んだ桔梗の反対側に体を滑り込ませる。
二人が呆然としている間に、さっと丸めていた掛け布団を引き寄せ、三人がはみ出ない様にばふりとかぶせた。
狭いベッドに三人、川の字で並んだ状態だ。
「さっきの桔梗を見てたら、やっぱり羨ましくなって。だから、ちょっとやって見ようかなって思ったんですの」
ぺろり、と茶目っ気たっぷりに赤い舌を覗かせ、撫子は何でも無いことの様に言い切った。
そうして、落ちちゃいますもの、と呟きながら柔に擦り寄り、腕を抱き留める様に身を沿わせる。
「あお……」
「クイーン、こういうのはその、心の準備というか……!」
何拍も遅れて、ようやく反応した桔梗は、慌てた様に口を開いた。それでもやはり離れたくは無いのか、ベッドから這い出ようとする素振りは見せ無い。
極上の女性二人に挟まれた柔だけは、全身を硬直させて情けなくぷるぷると震えている。
「まぁまぁ、桔梗も、ぎゅーって抱きついてみたら良いのですわ」
柔の肩口に頬を寄せ、楽しげに喉を震わせる撫子の頬もまた赤い。
桔梗は、何でこんなことになってしまったのか一瞬考えようとして、
――まぁ、た、たまにはこういうのも、悪くないかもしれません。
やめた。
これはクイーンが、とか私は別に、などと小さく呟きながら、大胆に柔へと体を寄せる。
「ぎゅ、ぎゅー……ですか」
腕を引き寄せるのではなく、柔の胸元に腕を伸ばすようにして、しっかりと抱きついた。腕の下、柔の心臓がばくばくと脈打っているのを僅かに感じて顔を綻ばせる。
「ふふ……」
「む……大胆ですのね」
対抗心を燃やしたのか、撫子は桔梗と同様に腕を伸ばそうとして、止まり、ぽふ、と額を柔の肩口に埋めた。
――とは言え、は、恥ずかしいですの……。
顔色を見られないようにぐりぐりと額を擦り付け、柔の掌を探りそっと握りしめる。ほぅ、と幸せそうな息を吐いて、目を閉じた。
「ひょあ……う……うわわわ」
さて、大変なのは柔である。左手に桔梗の豊満な肢体を感じ、右手に撫子の極上な柔らかさを感じているのだ。
気付けばパンツスーツ姿の桔梗は、むっちりとした長い足を柔の足へと絡めているし、顔のすぐ右側には撫子の吐息が届いている。
鼻腔に入るのは、撫子の思考を蕩かす様な甘やかな香りと、桔梗の落ち着いていてどこか爽やかな香り。
左手側は柔よりやや低い体温を、右手側には柔と同じくらいの体温を感じながら、柔の思考はフリーズしたままだった。
手指の先すら満足に動かせず、ひゅーひゅーと落ちつかな気に呼吸を速める。
「ん……じゅーうー」
「前田……柔……」
両側から頬をくすぐる吐息に、目眩さえ覚える。
ちらと右に視線を向ければ幸せそうに赤く染まった撫子の顔。
左に視線を振ったなら、そこには恥ずかしげに瞳を潤ませる桔梗の顔。
両手に花、どころか、魅力的に言えば両手に花束状態の柔は、今一事態を把握仕切れず、頭の中で疑問符を飛ばした。
――どどどど、どうしよう……!
焦って見たところで何も変わらず。
取り敢えず、このままじっとしていよう。そんなことをちゃっかり思ってしまう柔も、一応は男の端くれだった。
仲むつまじいと言うより、やや刺激的な状態にある三人の並ぶベッド、その右手。
青紫のしとやかな花、凛と咲き誇るその花の意味する言葉は、変わらぬ愛と従順。
小さな花瓶に生けられた桔梗の花が、風に揺られてゆらりと傾いだ。