第21話 狂人は知らない:彼女の正体「次は……ヴァンパイア、か」
「シオンちゃん、シオンちゃん、シオンちゃんっ」
窓の隙間から差し込む月明かりだけが、寝台の上で揉み合う二つの影を、薄く縁取っていた。
馬乗りになった男の下で、シオンの細い手首は、二本まとめて頭の上へ縫い止められている。
「なっ、何をするんですか?僕とお酒を飲むだけだって……」
声に、わざとらしいほどの怯えを乗せる。
「ははっ、そんなわけあるかよ! テメェとヤるために、わざわざ連れてきてやったんだ。感謝しろよなあ!」
「そっ……そんな。離して、ください……っ」
「無駄だ無駄ァ! 力で俺に勝てるわけがねえだろうがよ!」
男の吐く息は、安酒で熱く湿っていた。
その火照りを、組み伏せた首筋へ、これ見よがしに吹きかけてやる。
耳元へ唇を寄せれば、腕の中の体が、びくりと跳ねて強張った。
「だってよぉ――お前、女だろうがよ!」
言うなり、男は作業服の胸元を鷲掴みにし、力任せに引き裂いた。
厚手の布が、縫い目から裂ける乾いた音。
現れたのは、固く巻かれた一枚のさらしと、それが慎ましく押し潰した、なだらかな胸。
「ははっ、やっぱりだ、やっぱり女だ! 俺の目に、狂いはなかったってわけだ!」
「やっ……やめて、ください、こんなこと……」
声は、確かに震えていた。
伏せた睫毛の先から、涙の粒がひとつ、頬を伝って滑り落ちる。
男は舌を伸ばし、その雫をねっとりと舐めとった。
「あぁ、これがシオンちゃんの涙の味かぁ。美味ぇなあ……いいぜ、もっとだ。もっと、お前のことを知りてえ」
獲物を組み伏せたという興奮で、男の瞳孔は際限なく開ききっている。
布の下の素肌へ手を伸ばすこと。もはや彼の頭には、それしか残っていなかった。
「大人しくしてな、痛くはしねえからよ。……しかし運がいいぜ、俺も。お前みてえな上玉が、何だってあんな汚ねえ現場で、わざわざ男のフリなんざ――」
本番寸前。
そこで、男の言葉が、ふつりと途切れた。
気づいてしまったのだ。
腕の中の体が、もう、これっぽっちも震えていないことに。
「……ねえ」
声から、怯えの色が、すうっと抜け落ちていく。
「君みたいなの、何人目だと思う?」
男は、このとき初めて、組み伏せた相手の顔を、正面から見た。
眠たげな双眸が、薄く細められている。
そこに宿るのは、怒りでも、恐怖でもない。
何ひとつ波立たない、凪いだ水面のような――底の知れない無だった。
その水面に、自分の間の抜けた顔が、ぽつんと映り込んでいる。
わけもわからぬまま、男の背を、冷たい指先で撫で上げられたような悪寒が走った。
「な……なんだよ、急に」
馬乗りになって、両腕を押さえつけて、服を破いて。
これから存分に味わうはずだった。
そのはずなのに。
頭の芯では、本能だけが、けたたましく警鐘を打ち鳴らしている。
逃げろ、と。
「僕が女だと知った男はね、決まって、こうして近づいてくるんだ」
押さえつけていたはずの手首が、いつの間にか、男の指の隙間を、するりと抜け出していた。
組み伏せていたはずの細い体が、腕の中から、掻き消えている。
冷たい死の気配は、もう、男の真下にはなかった。
――背後だ。
「僕がほんの少し笑いかけてやるだけで、脈があると勘違いする。自分に気があるんじゃないか、ってね」
うなじのすぐ後ろから、声がした。
「本当に、楽な仕事だよ」
男が、ようやく恐怖を声の形にしようとした。
膝が、後ろへ逃れようと、わなないた。
その全部が、間に合わない。
懐から細身のナイフがいつ抜き放たれたのか、男の目には、ついぞ映らなかった。
月光を弾いて、一筋の銀線が、闇を薙ぐ。
シャン――。
澄んだ音とともに男の首が胴から、ことりと外れて落ちた。
遅れて、寝台に赤がぱっと飛び散る。
崩れ落ちていく自分の体を男は、奇妙なほど遠い場所から眺めていた。
痛みは、ない。ただ視界が床と同じ高さに転がっている。
首から下が今どこにあるのか、もう、わからない。
それでも――意識だけは、煌々と灯ったまま、消えてくれない。
首を刎ねられた程度では死ねないというこの世界の理を、男は今わの際になって、ようやく骨の髄で思い知る。
助けを呼ぼうにも、声を絞り出すための肺は、もう繋がっていなかった。
寝台の傍らに転がった頭が、声もなく、ただ眼球だけを動かしている。
その視線が自分を捉えたのを確かめてから、シオンは、ようやく口を開いた。
「……安心して」
頬に飛んだ返り血の一滴を、指の背でそっとぬぐう。眠たげな表情は、最初から最後まで、さざ波ひとつ立てていない。
「殺しはしないからさ」
シオンの仕事は、殺すことではなかった。
壊さず、生きたまま、回収すること。
膝を折り、頭を失った胴の、胸の中心へと指を沈めていく。
生温い肉を掻き分けた指先が、硬く脈打つものを探り当てた。
ゆっくりと、引き抜く。
指の間で、奪われてなお、宝石が――男の魂核が、弱々しく明滅を繰り返している。
懐から取り出した小さな硝子の小瓶へ、魂核をことりと落とす。
これで幾つ目になるのか。
数える気など、とうに失せて久しい。
破れた作業服を脱ぎ捨て、傍らに畳んでおいた替えのシャツへ袖を通す。
緩んださらしをきつく巻き直し、その上から、首元の開いた男物のシャツを羽織った。
鏡もない部屋で、いつものシオンへと、何事もなかったように戻っていく。
窓辺に寄り、灯の絶えた夜の街を見下ろした。
「ザガン君は……今ごろ、盛大にいびきでもかいて寝てるんだろうな」
ふ、と。
ずっと凪いでいた口元が、その名を口にしたときだけ、ほんの少しだけ、ほどけた。
誰の前でも警戒を解いたためしのない自分が、なぜだか、あの単純な男の前でだけは、肩から余計な力が抜けてしまう。
つられて、銀髪のひどく不器用な少女の顔まで、瞼の裏をよぎっていった。
「……『ザガンは、私のよ』、か」
あれほど必死で独占を口にしておきながら、当の本人は、自分の心につけてやるべき名前すら、まだ知らずにいる。
微笑ましい。そして、ほんの少しだけ、羨ましい。
「幸せそうで何よりだよ。……僕とは、違ってね」
喉の奥だけで小さく笑って、シオンは硝子瓶を懐の奥深くへ仕舞い込む。
扉を抜け、夜気の沈んだ廊下へ。
裏路地を縫うようにして、街の外れ、灯ひとつ届かない古い倉庫の戸を足音も立てずに押し開けた。
奥に、ひとつの影が待っていた。
顔は、闇に沈んで見えない。
手元で揺れる蝋燭の灯だけが、その指先と、卓に広げられた一枚の羊皮紙を、頼りなく照らしている。
「任務完了しました」
シオンは、薄紅の光を抱いた硝子瓶を、卓の上へことりと置いた。
瓶の中では、男だったものの灯が、最後の息のように弱く瞬いている。
「ご苦労」
影の手は、中身を検めようともせず、瓶を卓の端へとそっと寄せた。
代わりに、新たな一枚の羊皮紙が、シオンの膝先へ滑り出されてくる。
「次の標的だ」
シオンは片膝をついたまま、羊皮紙へ目を落とす。
眠たげな双眸が、記された文字を上から下へとなぞるように辿っていった。
「似顔絵は、なしですか。今どき、珍しいですね」
「お前は優秀な奴隷だ。今回も、期待しているぞ」
「ありがとうございます。ご主人様」
声に、抑揚はない。あくまで、作業のための確認に過ぎなかった。
「特徴は……」
羊皮紙の上を、白い指が、するりと下っていく。
その指先が、ある一行でぴたりと止まった。
乾いた唇が、ようやくその一行を声の形へと押し出していく。
「銀髪の……ヴァンパイア、か」




