第一章 遭遇──いや、邂逅②
「ほんとに、ありがと。冬夜」
梓は自身の住むマンションのエントランスドアの前で申し訳なさそうに礼を述べる。
いつもなら軽口の一つでも叩いてみせるのだが、今日はそれがない。
「都市伝説とか怖い話とかダメだもんな、昔から」
「うぅ…」
その後、冬夜は手を振った。
梓は少し戸惑いながらも、小さく会釈してエントランスの奥まで入っていった。
哀愁漂う背中を見送った後、ゆっくりと踵を返す。
(こっから先は一人か。)
いつもと違う帰り道。
梓を見送るために少し遠回りをした結果、見慣れない分岐路に立っていた。
冬夜の自宅方面に向かうため商店街に足を踏み入れた。
人通りも多いし、近道して抜けられる、そう判断して足を進める。
帰宅途中、3人娘と少し長話をしてしまったからか夕暮れはもうすぐそこまできていた。
アーケードに響き渡る雑多な音、スーパーの入り口から漏れる音楽、17時前には閉まる喫茶店もまだシャッターは開いたままだ。
どれも見覚えのある情景、そして迎える夜に向け、少しずつ商店街も温度を変えていく。
ありふれた日常。
そう思っていた。
冬夜はスピードを落とし、足早にしていた足は完全に静止した。
(何か、変だ…)
なぜだろう、見ている風景はどこか『異質』だった。
数秒を経ていつも見ている日常の違和感に気がつく。
「誰もいない……」
いつもの聞こえる筈の誰かの他愛ない会話や、ご近所話をする主婦、帰り道に買い出しをするサラリーマンの姿がどこにもないのだ。
商店街の温度はまるでいつもと変わらない。各店舗から聞こえ雑多な音楽は普段通り聞こえてくる。そこに人がいて、働いていてもおかしくない状況であるにも関わらず、人の気配すらこの商店街は失ってしまっていた。
その代わりに。
「……い、いや。やめて…」
掠れた声がかすかに耳に届く。
その音の源は、店舗間の間の道の際にある裏手の方からだった。
全身に身の毛のよだつ、体のありとあらゆる箇所から鳥肌が立ち上がる。冬夜は静止した足を再び始動させ、路地裏へと駆け出していた。
そこに迷いはなかった。
体が先に動く。
路地へ足を踏み入れた瞬間、空気が一変した。
街灯はある。だが、影が不自然に濃い。
人影が一つ、壁際に追い詰められていた。
制服姿の女子生徒だ。何より驚愕したのは冬夜たちが通う学校の生徒であった。
目に入るは背丈180cmほど細身の男だ。
そして、その前に立つのは、黒い何か。
薄暗さがよりその光景を不鮮明にしている。そこには人の形をしているのに、輪郭が曖昧に見える。
足元から伸びた闇が、まるで生き物のようにゆらりと揺れている。
「……何だよ、これ?」
思わず零れた言葉に、影がぴくりと反応した。
「…鼠が一匹、迷い込んできたか」
低い声。身震いするような冷たさに微かな殺気が混じっている。
大きなフードで顔を隠してい様だが、その隙間から覗く金色の眼が鋭く冬夜を睨みつけていた。
ごくりと唾を飲むが体がこれ以上動く気配がない。
影が、壁から剥がれる。
それは“立ち上がる”というより、“浮き上がる”に近かった。
『何か』がこっちに来る、その瞬間重かった足が動き出し、気がつけば冬夜は女子生徒の前に立っていた。
「あんた、大丈夫か」
「え……?」
「走れるなら今すぐ逃げろ!」
呆然とする女子生徒により強く言い放つ。
「──早く行けッ‼︎」
ビクッと震えた後、女子生徒はおぼつかない足取りでその場を後にした。
冬夜の荒げた声が路地裏に響いた途端、影が動いた。
地面から伸びた闇が、水流の如く冬夜へ迫る。
後ろに後退りするも靴が地面に引っかかり、そのままアスファルトに腰を打ちつける。
「邪魔すんなよ、雑魚」
黒いフードの男は落胆するように告げる。
そしておもむろに歩み寄り、冬夜に顔を近づかせる。
「あの女、逃げちまったからよ、お前を処分した後に殺しに行くからな。」
「…ッ、お前か殺人鬼ってやつは」
「……殺人鬼?面白ェな、シリアルキラーってか」顎を摩りながら男は嘲笑する。
「警察を呼ばせてもらう…あんたみたいな人間、反吐が出る」
声を強張らせながらも冬夜は腰を軽く上げ、ポケットにあるスマートフォンの輪郭に触れ、男に睨み返す。
だが、返ってきたのは鼻で笑う様子だった。
「お前気づいてんだろ、あの商店街に誰もいなかったって。」
一拍置いて男は続ける。
「あれは俺がやった。誰も来ないし、お前の叫びは誰にも聞こえない。」
言っている意味が分からなかった。
あのアーケードには確かに日常の音で溢れかえっていた。何の変わり映えのない商店街の姿。
しかし、男の言う通りそこには誰一人として人間が存在しなかった。商店街の顔をした、何か、といた方がニュアンス的には近いかもしれない。
冬夜の感じた違和感の元凶はまさに目の前にいるこの男だった。
「ありえない…そんな…どうやって」
「そーだよな。信じられねェよな。普通の生活してたら尚更。」男は軽く手を挙げ、『何か』を撫でるような手つきを見せる。
注視すると、男の足元から黒い『何か』が蠢きよじ登ってくる。
それはまさに。
「これは俺の影だ、操れるんだ。初めて見るだろ?」
影が蠢いていく。
超能力か、マジックか。何にせよ、その男が不思議な力を行使していること、それだけは分かった。
蠢く影はまるで意志を持つように自由に男の体の上を走る。
そして、体に張り付いている影はゆっくりとその実体を起こし、空中に伸びる。
「これ、触ると結構痛いぜ」
──刹那、空中に伸びる影は形を鋭い刃のように変え、冬夜の頬を掠める。
「…痛ッ」衝撃を頬に感じるとジンジンとした痛み、そして温かい赤い液体が頬から顎に伝う。
一気に動悸が早まり、頭の中も真っ白になる。
「いいねェ、ゾクゾクするよ。その顔」
フードの隙間からは不敵に嗤う男が恍惚とした表情を覗かせる。
不気味、その一言で片付けられる。
「クッソ…!!」冬夜は路地に転がる瓶を握りあげ、男目掛けて投げつける。
男の顔に当たる直前に、蠢く影は主人を守るように鋭い刃に姿を変え、瓶を裂く。
3分割に割かれた瓶は勢いを殺され、そのまま地面に叩きつけられる。
粉々に割れた瓶を一瞥した後、冬夜は体を翻し、地面を蹴り出しメイン通りの方に向かった。
しかし、冷徹な眼差しが背後から冬夜を突き刺す。
数歩進んだところだった。
足が急に重くなった、まるで誰かに足を掴まれるような感覚だ。
次の足が前に出ることはなく、慣性が彼の胴を地面に押し付ける。
「逃すわけないだろ」
足を掴んでいたのは影そのものだった。ぐるりと冬夜の足首に舐め回すように巻きつき、地面と繋がっている影はそれ以上冬夜の足を動かすことを許さなかった。
冬夜と男の距離は3mはあったか、少し離れているのにこの影は伸縮自在かのようにどこまでも伸びる。
足から、太ももへ、腰を伝わり、背筋をなぞると影はすでに冬夜の口元を隠していた。
完全に身動きが取れない。
全身に心拍が行き渡る。
「すぐには殺さねェよ、ゆっくり、じっくりとな」
コツコツと後ろから男の足音が近づいてくる。
志半ばというべきか、まさか自分自身が殺人鬼の標的にされるとは思わなかった。
瞼がぴくぴくと意思とは別に痙攣を始める。
背筋にじんわりと汗が滴っているのが分かる。加速する動悸とは裏腹に目の前に広がる様子がゆっくりに見えてくる。
(──あいつ、逃げ切れたか…)
影の刃の先端が冬夜の眼球のすぐ前にある。
確実に自分はここで死ぬ。軽く目を閉じた。
体が動かない、死を覚悟した瞬間。
ガキィン、と甲高い金属が弾ける音が耳に届いた。
ふと目を開けると目の前にあった影は姿を消し、その代わり淡い水色の光が広がっていた。
少女、だった。
腰まで伸びている水色の髪、華奢な体躯、白いブラウスを纏う少女が立っていたのだ。
ただ冬夜は驚愕を隠せなかった。
(一体、なにがあった⁉︎)
自身の体を見渡すと黒い影の拘束から解放され、その体は自由の身であった。
再度顔を見上げる。
影を操る男は、この華奢な少女から距離を取っていた。
「待ってたぜ、『星々の乙女』」
ニヤリと笑う男を前にして少女は微動だにせず、冬夜の前に立ちすくんでいた。
あまりにも多い情報の前に整理がついていなかった。
誰もいないはずの場所で、不可思議な力を使う男の前に、水色の髪の少女。
目の前の光景を未だ信じられずにいる。
何より少女は身の丈ほどある大剣を華奢なその腕で軽々と持ち上げていた。
恐る恐る少女に問いかける。
「き、君は」
そう言うと彼女は軽くこちらに顔を向け、優しく微笑んだ。
「あなたは、私が守る」
その言葉が耳に届いた時、男は強く地面を蹴る。
それを合図に、男の足元から鋭利な影が飛び出していく。
「再起不能になってもらうぞ──‼︎」
体を捻り、直進する影を軽く避ける。さらに少女は大きく踏み出し男との距離を一気に詰める。
十分に近づいた瞬間、少女の背後、ビルの影からも無数の黒い影が少女目掛けて牙を向ける。
先ほどよりも遥かに速い速度だった。
「後ろだ…!」冬夜のその声に耳をぴくりと傾け、背後に目をやる。
少女はそのまま身を翻し、宙を舞う。そして向かう影の刃に対し、身の丈ほどある大剣を振り翳す。
大剣と影が触れ合い、火花が一時的に路地裏を明るくする。
(あんなデカい剣、この子は一体何なんだ…)
「クソがッ」
こちらの息つぐ間も無く、影たちはその形を変え、襲いかかる。
この路地も薄暗く、鮮明には見えなくなってきた。
金属が弾ける音だけが、冬夜の耳に届く。
暗くなればなるほど、影の勢いは増していく。少女の剣戟が徐々に押されているのが素人の目で見てもわかるほどだ。
(どうする、どうすればいい…)
少女はそれでも下がることはなかった。
冬夜への誓いを守らんとするように。
「さっさとくたばりやがれッ‼︎」
横一閃に手を振る男を合図として、影たちは無数の刃を一つの影に絡ませ回転する巨大なミキサー状に姿を変える。
空を裂く音、そして不明瞭な視界、少女は剣を両手でギュッと握り直し、腰を落とす。
(あれを受け止める気か⁉︎)冬夜はごくりと唾を飲み込む。
自分を守るために少女が立ち上がっている、剣を握っている、そんな状況下で自分の不甲斐なさに悔いる。
何か、自分にできることはないのか。
思考を巡らすもその影は待ってはくれない。回転する刃を受ければ、確実に剣は弾かれてしまう。
そうなれば、少女にも危険が及ぶ。
目の前に広がる光景からヒントを探そうにも、上手く整理がつかない。
ただ動悸だけが早まり、頭の中のキャンバスは真っ白いままだ。
「く…」
俯くことしかできない。
少女も深く息を吸い、踏ん張る足に力を込めて前に踏み出そうとした。
その時だった。
「うぉぉおおおおおおおお‼︎!!!!」
少女の前には低い姿勢から影の刃に飛び込む冬夜の姿だった。
彼の刃を前にした途端、右手から何かを男の前に投げ捨てたのだった。
「なッ…こいつ…‼︎」
繰り出したのはスマートフォンだった。
ただ投げたのではない、そのスマートフォンからは煌々と明かりが灯っていた。投げる直前にライトを起動していたのだ。
その明かりは無造作な軌道ながら刃を通り越し、男の目の前に届く。放物線上に落ちかけた際、下から向けられたライトが男の視線を眩ます。
目を細め、両手を光に向ける。
その時、一瞬影の刃の動きが鈍る。
「今だ!頼む!」冬夜の視線は後ろの少女へと向けられる。
その視線、言葉を受け取り少女の口角がほんの少し上がる。
その華奢な脚で力一杯地面を蹴り、圧倒的な速さで少女は冬夜を飛び越え、再び空に舞った。
両手で握る剣に力を込めると、少女の髪色と全く同じ色の光が剣に宿る。
その光は冬夜を、男を、路地裏をも照らし出し、青白き光は迸る。
一気に収束した力が男に向かって放たれる。
眩い光と轟音が鳴り響き、路地の中の粉塵が一気に細い道を抜け、商店街の方へと流れ込む。
目を瞑っていても瞼を貫通するほどの光は、暫し冬夜の視界を遮っていた。
程なくして目を開けるとそこに立っていたのは少女の方だった。
奥の方に目をやるとフードの男の姿はそこにはなかった。
「消しちまったのか…?」
そう言うと少女は振り向くことはなく、首を横に振る。
「逃げられた」淡々と告げる少女の言葉を聞き、尻餅をつく。
そして目の前の障害がなくなったことを再認識すると冬夜はほっと息をついた。
少女は冬夜の方を振り返ると少し憂いな目をした後、冬夜の目を見つめ安堵する。
目が合う冬夜も何が起こったかよく理解はしていなかったが、彼女の顔を見て頬を緩めた。
「それで、君は一体…」
冬夜の投げかけに対し、「ううん」と首を横に振る。
尻餅をついた冬夜に近づくと、先ほど男の影で切られた頬を軽く触る。
チクッとする痛みに目を細めた後、少女の指先からじんわりとした温もりが冬夜の頬に伝わる。
(温かい…)
頬から指を離すと、ぱっくりと開いていた傷口が傷跡も残さず見事に塞がっていた。
きょとんとした表情を見せる。
その後、商店街の方に足を向ける少女。
「──このことは見なかったことにして」
こちらに目も向けず、ただそう言い放つ。
まるで、首を突っ込んではいけないと言わんばかりの背中だった。
瞬きをした途端、少女は消えた。薄暗く顔もはっきりは見えることはできなかった。
そして何より、ありがとう、も言えなかった。
冬夜は地面から腰をあげ、辺りを見渡した。
ビルの外壁は影の刃で無数に傷がついていた。
頬も抓るが、夢ではない。
少しの悪寒を感じながら、冬夜もその場を後にした。
◇◆◇
翌日、ずっと昨日のことが頭から離れずにいた。
フードの男、水色の髪の少女、そして異能な力。
まるで漫画の世界を体験したような感覚。傷は塞がっているはずなのに、頬が傷の感覚を覚えている。
あの一通りの体験がずっと離れず、夜は全くといっていいほど寝付けなかった。
いつもであれば目覚ましの時間までゆっくり寝ているのだが、起床時間まであと10分もある。
不思議な感覚に包まれた状態で冬夜は、洗面所へと赴いた。
冷たい水が肌に触れ、タオルでその水気を拭うとリビングの方から千香の声が響く。
「冬夜ー、朝ごはんだよー」
その言葉で一気に平穏な日常に引き戻される。
制服に身を包み、階段を降ると見慣れた顔がそこにあった。
普段通りニュースを横目に弁当の準備を勧めている千香を見て、名状しようのない心の重荷が多少軽くなる。
「おはよう、なんか今日はほんの少しだけ早いね」
「おはよう。」そっけなく挨拶をかわし、自分の椅子に腰をかける。
炊き立ての白米が茶碗によそわれており、箸も持たずただじっと朝食を眺めた。
(この朝ご飯を食べれるのも、昨日の子のお陰だ。少し違えば死んでいる未来もあったかもしれない)
この何気ない平穏を噛み締めながら、冬夜は朝食を黙々と食す。
「あ、そういえば昨日、帰る時連絡してこなかったでしょ」
おかずを貪りながら箸で冬夜のことを指す。
「あぁ、ごめん。ちょっとな」千香から視線を外す。
特に言い訳もせず、素直に謝罪する冬夜を見て千香は視線を外さなかった。
「こう見えても保護者だからさ、これからもずっとお節介焼くよ。」
冬夜はその言葉を理解した。
「あぁ」と一言返し、朝食を噛み締める。
暫しの沈黙が続く。
テレビからは二人に聞こえるほどのボリュームでニュースが流れているが、彼らの沈黙を裂くことはなかった。
昨日の話は言いたくても口から漏れることはなかった。
信じてもらえなくても、理解しうるには複雑な話だがそれ以上に彼女に心配をかけたくなかったのだ。
朝食を食べ終え、皿をシンクに置く。
千香はスマートフォンでSNSを意味もなくスクロールだけしていた。
テーブルによけてある弁当を鞄に詰め、一言「行ってくる」と残し、リビングのドアを開けた。
何もない、いつも通りを演じればいいが、今は何をしても普段通りに振る舞えなかった。
そして玄関ドアに手をかけるが、いつも以上に重く感じたのだ。
普段通り、商店街付近の交差点で梓が前髪を整えながら立っていた。
こちらに気付き、軽く手を振る。
昨日の色白い様子から一変、通常通りの彼女だった。
その平穏さが、今の冬夜に首を少しずつ締めている感覚。
合流し、挨拶を交わすが学校に着くまでの間、冬夜は梓との何気ない会話も全て聞き流してしまっていた。
今日は全ての授業が1回目のため、各授業は自己紹介だけで終わった。
だからか冬夜は黒板を眺めながらも昨日のことを何度も何度も考えていた。
6限が終わった頃、ミキが声をかけてくる。
「どうしたんだい少年、憂いを孕んだ瞳をしているよ」
「あ、あぁちょっと考え事だ」
頬杖をつきながら返事をすると、チヨがミキの背中からひょこんと顔を出す。
「そういえば、昨日うちの生徒が例の殺人鬼に会ったと言う噂が…」
チヨの言葉を聞いた途端、冬夜は目を丸めチヨを見つめる。
「Dクラスの子だったかな?でも今日はおやすみなんだって」
「その子は無事だったのか?」食い気味な反応にチヨもびっくりした表情を見せる。
「え、あ、でも本当かどうかは分からないよ?その子の友達が言ってたって」
どこまでの広い情報網を持つ彼女らに関心をするが、何より昨日の子が無事であれば何よりだった。
唯一、昨日の話を聞ける手掛かりだった。
「その子、なんて言う名前の子?」
「えっと、確か──」




