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第一章 遭遇──いや、邂逅③

 ダメだと分かってはいるが、冬夜はまた昨日の場所へと足を踏み入れていた。

 そこには誰もおらず、薄暗い光景があるだけだった。


 ほのかに香る油臭さとビルにつく擦り傷。確かに昨日、ここで事件が起こっていた。

 昨日の少女の「このことは見なかったことにして」という言葉。

 これ以上、踏み込むなと言う意思は感じていた。


 人を殺せるだけの力を持った人間がこの街にいると言うこと。その要素が冬夜の日常の温度を侵している。


 安全が保証されているはずのこの街で起こる怪事件。

 安全という言葉の真後ろに危険な存在がある、それだけで居心地の悪さが増していく。


(何か変わるわけでもない。でもこの街で何が起こっているか、知れるかもしれない)


 ──綾ノ川奈々(あやのかわなな)。それが昨日襲われていた女子生徒の名前だ。


 商店街にいたということはこの近くに住んでいる可能性があると見ていた。

 その後、梓からの情報によると梓の住むマンションの向かいのマンションに住んでいるという。

 珍しい苗字のため、部屋もすぐ分かるだろう。そうして目的のマンションへと足を運んだ。


 正直、この行動が普通ではないことは冬夜自身も分かっている。

 それでも同じ場所で、異常な経験をした者同士、そして何故襲われたか知る機会になると感じていた。


「綾ノ川…504号室」


 ポストの表記から彼女の住む部屋を見つける。

 エントランスのインターホンを恐る恐る押す。


「…はい」

 怯えた声が聞こえてきた。


「あ、香住ヶ丘高校二年、奧村って言います。奈々さんのご自宅でしょうか」

「…私がそうですけど」声が震えていた。正直、彼女自身もトラウマであろう経験をしている。そこをほじくり返すのも気が引けるがここまで来てしまった以上、引き下がれなかった。


「昨日の商店街のことで──」


 ブツリ。

 インターホンからの音はそれ以降、響くことはなかった。


(……それが普通の反応だよな。あんな思いをして、見ず知らずの同級生が押しかけてきたら。)


 彼女への申し訳なさを感じるながら、冬夜はマンションを後にした。


 マンションを抜けると、すぐ近くに自販機があった。放課後から何も飲んでいない。おもむろに鞄から財布を取り出し、スポーツドリンクを購入した。

 ガコン、と飲み物が落ちる。カバーを開け、取り出そうとした時。


「あ、あなたが奧村くん…?」


 いきなりの呼びかけに肩を振るわせるが、声の方を向くとジャージ姿の女子が息を切らしながら冬夜を見つめていた。

「あなたが、奈々…さん」彼女は首を何度か縦に振った。



 ◇◆◇



「つまり、君はSNSで水色の髪の少女について呟いたってわけか。」

 

こくりと頷く。

 四月だが少し夜風が肌寒い。

 マンションの隣にある公園で綾ノ川は冬夜に告げる。


「今。割と流行ってて。水色の髪の毛の女の子って。見たら幸せになる、みたいな」

 梓やミキからは聞いたことない噂だった。


「隣町の女の子が発信してて」そう言って自身のスマートフォンを渡してくる。


 呟きを載せれるSNSアプリの投稿に、確かに淡い水色の髪の少女について書かれており、写真も投稿されていた。

 暗くてぶれているが、間違いなく昨日冬夜が遭遇した少女に見える。


「これが、なんで幸せになるんだ?」


「いや、こういうのってノリというか、信憑性はないけどそれを信じることで幸せな気分になったつもりになるというか」

「なるほどな」

 彼女にスマートフォンを返し、ベンチから腰をあげる


「ありがとう、多分君が襲われた理由はそのことだと思う」

 フードの男が水色の髪の少女を目前にした時、待ち望んでいたかのような言い振りだった。


 彼女がSNSで水色の髪の少女を見たと呟いたことで、奴に知られ対象となった。女子高生が自身の行動をネットに挙げる様子を監視していたに違いない。

 彼女の発信が少女の居どころを教えていること、その少女を探す奴は彼女から情報を聞き取り、その後殺害を企てたのだろう。

 きっと今まで殺害された女子高生達も同様の考えで見てもいいのかもしれない。


「あまり、このことは触れない方がいいかもな」

「奧村くん、あなたって一体…」


 不思議そうにこちらを見つめる綾ノ川。後頭部をかきながら答える。


「目の前で危ない目に合ってる人を放っておけなかっただけだ。俺は、ただの同級生だ」

「そう」拍子抜けしたような顔を見せた後、綾ノ川は微笑む。


 彼女をエントランスまで見送り、再び冬夜は街の方へと向かう。

 スマートフォンを取り出すと、時刻は18時を回っていた。

 ふと、今朝の千香の言葉を思い出す。


『あ、そういえば昨日、帰る時連絡してこなかったでしょ』


(流石に2日連続はやばいか)そうして千香に一報を入れる。


『帰宅、少し遅れる』


 その数秒後に既読がつき、キャラクターが親指を立てているスタンプが送られてきた。

 軽く肩の力を抜き、冬夜は被害にあった女子高生が襲われた現場を調べる。

 綾ノ川以前に、被害者は三人。

 どれも隣町のそれぞれ別の高校の生徒たちだ。

 現場に赴くことで何か変わるわけではないが、水色の少女のこと、フードの男について何か分かるかもしれない。


 日常とはかけ離れた存在への接近はリスクでしかないが、冬夜の追及心が今は原動力になっていた。

「少し遅くなるかもな」



 三件目を回り切った後だろうか。

 各事件現場を訪れたが、大した収穫があるとは言えなかった。

 すでに現場も警察が巡回済み、色んな証拠があっても押収されている可能性もある。


「これじゃ警察ごっこだな…」


 もう時刻は二○時を過ぎていた。


 隣駅はすでに帰宅ラッシュを終え、多くの人が買い物や食事から帰り始め、駅前の大通りは人で溢れかえっていた。

 帰るのも億劫になりそうな様子だった。

 そして、信号待ちをしている最中。


「これ以上、詮索するな」


 背筋が凍る。

 背後から冷たい声色が耳元で語りかける。

 女性だろうか、聞いた覚えのない声だった。

 振り向こうとしても何か硬いものが冬夜の背中を突き、振り向くなと言わんばかりの圧力を感じる。

 張り詰めた緊張感は周囲の雑音をかき消していた。


「あんたは…」


 彼の声は届いているはずだが、固いものを背中に押しつける力はさらに増す。


「影の男の仲間か?それとも水色の髪の女の子か?」


 沈黙が続く。


「──SNSで水色の髪の女の子を見つけたっていう情報が拡散されている。あれはただの遊び心だ。あの子達が殺されていい理由にはならない。」


 グッと拳を握りしめる。

 すると信号が青になる。それと同時に押しつける圧迫感は消え、背後を窺うが会社帰りのサラリーマンや買い物帰りの若者しかいなかった。

 該当しそうな女性の姿はそこにはなかった。

 手の中で汗がじんわりと滲む。


(なんなんだよ、この街は──)



 ◇◆◇



 帰る頃、すでに二一時を過ぎていた。

 息を整え、玄関のドアを開ける。

 廊下は電気が消えており、人の気配は一切ない。


(流石に遅いし、千香は帰ってるか)


 リビングをドアに手をかけると、微かな光が隙間から漏れる。


「あ、帰ってきた」


 ソファーにゆったりと横たわる千香の姿が見受けられた。

 リビング全体の明かりは付けず、ソファー近くのランプのみ灯していた。


「た、ただいま」遅くなり過ぎたことを後ろめたく思っていると、「ご飯温めるね」千香はそう告げてソファーから立ち上がり、キッチンへと向かう。

 風呂上がりだろうか、少し乾き切っていない髪、縁の太い眼鏡にゆったりとした格好。

 鞄を机に置き、立ちすくみ、一拍置いて口を開こうとした時だった。


「あのさ───」


「今日は久々のカレーだったんだけど、さっき作ったのが意外と薄くてさ。冬夜はちょっと濃い方が好きじゃん?微調整する時間あったから助かったよ」


 ぐつぐつと煮込まれるカレーをお玉でかき混ぜながら微笑む。

 何も言えなかったというよりも、言わせなかったという方が正しかったのだろうか


「ご飯食べて、お風呂入って、ゆっくり寝なね。明日も学校あるんだから」


「あぁ」

 椅子に腰掛け、一息着くと千香は柔らかい表情だった。

 カレーのスパイスの効いた香りがほんのり卓まで届くと、緩み切った胃袋から空腹の合図が響き渡る。


「ほい、できたぞー」と高揚した声で言い放ち、少し大きめの器に山盛りに乗せたカレーを運んでくる。


「でっけ…ありがとうな」

「たっぷりお食べ」

 一口、二口と冬夜の手は止まらなかった。一気に緊張から解放され、思う存分に口にカレーを頬張る。

 その様子を向かい側から頬杖を突いて、眺める千香。その視線に気づくこともなく、冬夜はただただ夢中になっていた。


「なんかこの時間までいることないから新鮮だね」

「…うん、いつもはこの時間は部屋でスマホいじってるしな」

「今日はさ、スムーズに仕事終わったし持ち帰りの仕事もないから、超のんびりできてる」

「へぇ、いつも持ち帰ってやってんだ」

「まぁね、お姉さん忙しいもんで」


 そういってほのかな灯りに照らされながら、二人は談笑を続けた。

 二人にとってこのような時間は滅多にない。

 互いに今日あった何気ない日常のこと、友人の馬鹿話などを語らい、今ここにある幸せを噛み締めていた。


 ご飯を食べ終え、時計を見るともうすでに23時近くになっていた。

 ふわぁ、と小さいあくびを漏らす千香。冬夜も食器をシンクに置き「もうこんな時間なんだな、ごめん遅くまで」とぼそりと放つ。


「じゃあ、そろそろお暇しようかな」


 そう言って椅子から腰を上げ、リビングのドアを開ける。

 玄関でサンダルを履き、外に出る千香を眺める。家はすぐ隣だが彼女を見送るのが大体いつもの日課だ。


「千香──」


 弱々しい声が千香の背中に届く。

 おもむろに振り向く千香の瞳を覗き、冬夜は口を開く。


「もしさ」


 一度、言葉が詰まる。


「──知らない方がいいことがあったとして」


 千香は何も言わない。ただ冬夜の少し曇る表情を見据える。


「それを誰もが知らないままでいると、どこかの誰かが不幸になる」


 少し夜風が二人の間を通る。


「それでも…知らないふりをするって、正しいのかな」

 千香は少し視線を落とし、数秒考えた後、


「正しいかどうかは分からないや」


「……」


「私はきっと、知らないふりをしちゃうと思う」

 ゆっくりと言葉を選ぶ。


「でもね、私はその後、いっつも後悔すんだよね」


「後悔…」


「うん、私は考える前にきっと蓋をしちゃう。見てなければ何も起こってないって、気づいてなければ誰も責めて来ないし、きっと世の中の大半の人はそうすると思う」


 前髪を触りながら、彼女は冬夜に背を向けながら伝える。



「そうした後に、誰かが困った顔して、そこでやっと私は後悔する。でもそれが100%悪かどうかはその人次第」


 家の門を開け、少しばかり空を見上げる。

 あまり綺麗ではない曇り空だ。


「もう遅いから、早く寝なよ」冬夜の答えを待たず、千香はそこから振り返ることなく、自宅へと向かった。


 冬夜は暫くその場から動けなかった。

 その夜、彼女の言葉が頭から離れることはなかった。



 ◇◆◇



 翌日、深く眠ることもなく、少し鈍った頭を何とか回転させながら学校に行き着いた。

 そこから、一限、二限と授業は頭には入らなかった。

 爪をいじる指先が痛むほど、思考は同じ場所を堂々巡りしていた。

 自分自身このままどうすれば良いのか冬夜は決めあぐねていた。


 二限の終了のチャイムが鳴り響き、一気に教室からは押し殺されていた学生たちの声が散乱する。


 次の授業は別の教室で受ける必要があった。化学の実験にて本校舎から連絡通路を渡った先にある文化棟。その3Fにある角の教室に向かう時だった。

 必要な学習道具を手に持ち、文化棟に渡り、三階まで階段を上り切ったときだった。



 背筋がゾワりと、違和感を感じた。



 先程までクラス単位で数人のクラスメイトと歩いていたにも関わらず、周囲から誰一人いなくなっていた。

 物思いに耽っていたからか、周囲の異変に気づけなかった。


(あれ、置いてかれたか)と感じた冬夜は足早に化学室に向かう。


 その時。


 違和感の正体を知ってしまった。


 というよりも、知っていたのだ。


 廊下の先で待っていたのは、商店街の裏路地に佇んでいた長身の男、その者だった。

 あの狂気に満ちた眼差し、真っ黒い服に大きめのフードを深く被る男を決して忘れはしない。


 更に、横にはもう一人の見覚えのない影がある。普遍的な背丈の少女がそこには並んでいた。


 しかし見受ける限り、少女はこの学校の制服ではない。白いTシャツにカーキ色ののダボっとした上着、マリンキャップから覗く眼光からはどこか無気力なものを感じる。

 得体の知れない二人は、冬夜の唖然とする表情を見て微笑んでいた。


 フードの男はポケットからおもむろに何かを冬夜に向ける。


 不気味な様子で親指と人足し指で生徒手帳を吊り下げ、揺らしていた。


 信じたくもなかったが、その生徒手帳の顔写真には奧村冬夜、本人が写っている。


 こちらのびくりとした表情を嘲るように男はニヤリと口角を上げる。



「なんでそれを…ッ、それに何でここに…!」

「お前、街で俺らを探そうとしたろ?」


 冷たい声色が耳を撫でるように届く。


「全部、見てやがったのか…?」


「おっと発言権はないですよ」そういって少女はポケットから10cm程度の釘が姿を表す。


 それを捨てるように軽く投げると、一変、床に自然落下するはずの軌道から外れ、鋭利な釘先が冬夜に向け、吸い込まれるように進んできた。

 瞬きが終わる頃、すでに冬夜の左肩に釘は打ち込まれていた。


「ぐ、ぁああああああ‼︎!!」


 鋭い痛みが肩を伝い、身体中に伝播する。

 手に持っている教科書たちを廊下に落とし、冬夜の叫びは廊下に響き渡る。


 どくり、どくりと傷口から流れ出る血液は止まることを知らず、制服の袖がが真っ赤に染まる。


「大袈裟な…ちょっと血が出たぐらいで。すぐに死にはしませんよ」


「おま、えら…何者なんだよ…」


 震える声が二人の耳に届くと、お互い顔を見合わせた後、口を開いたのは男の方だった。


「まぁ、なンだ、どうせ殺しちまうし、教えといてやるか、減るモンでもねェしな……お前、確かこの前、殺人鬼って言ってきたっけか。俺らは殺人鬼なんてちゃちなもンじゃねェ。」


 歪な言葉が冬夜の思考を揺さぶる。


 そして淡々とした様子で。

「魔術師───そう言えば、伝わるか」


 あの超常の力。どこかファンタジーや漫画の世界でしか体験しうることのない不思議な空間。


 言語化できない男の正体。その一言で、何気なく腑に落ちる感覚がした。


 魔術師──確かに男はそう言い放った。


 こんなことあり得ないし、現実的ではないということは承知の上だ。しかしながら、水色の髪の毛の少女、そして交差点で忠告をしてきた女性の声。

 これ以上関わってはいけなかった。

 踏み込んではいけなかったのだ。


「動揺していますね、いい表情です。」少女の方は軽い足取りでこちらに歩み寄ってくる。

「てめェら…の、目的は──」

「だから、発言権はねぇって言ってんですよ」


 帽子を深く被り直した少女は、冷徹な声色を漏らし、歩み寄るその右足で冬夜の傷口から飛び出す釘を力の限り踏みつける。


「がぁぁああああああ‼︎!!」激しい痛みが体を支配する。


 ずぶり、ずぶり。釘の先端が、冬夜の左肩の筋繊維を傷つけ暴れ回る。


「目的、でしたよね。私たちは一人の少女を追っています」


「ぐ…ぁ、水色の髪をした…女の子の、ことか……?」

 また強く、少女の足が冬夜の肩を踏みつける。


「──そうです。その少女の回収が私たちの任務です」

「よくもまァ、邪魔してくれたよな、この前は」


 男は少女の後ろから退屈そうに眺める。


「あなたを狙った理由ですが、件の少女の居場所を吐いてください」少女の足の力が多少緩まる。


「知らねぇよ、俺だってこの間、初めて見たんだ」吐き捨てるように冬夜は告げ、少女の無気力な眼を睨み返す。


 はぁ、と落胆する少女は一歩後ろへと下がる。


 すると、後方からフードの男が勢いよくこちらに走り出し、跪く冬夜の顔面に向かって自身の膝を思い切りぶつける。


 受けた衝撃は鈍く、後方へと吹き飛ぶ。

 口が切れ、鼻からも生温かい血液が冷たいタイルにこぼれ落ちる。


「口止めされてンのか?悪いことは言わねェ。さっさと吐いちまいた方が身のためだぜ」


「何も知らねぇって、言ってんだよ……!」


 口の中が鉄臭い。


「正義を気取って話さないおつもりですか?ご立派なことです」

 退屈そうにあくびを漏らす少女は、冬夜の目を見ずに続ける。


「ではなぜ、あなたの前にあの少女が現れたのか。複数名の女子生徒は見殺しにするのに、あなたが我々の前に出た時だけあの少女は姿を現したのでしょう。何か因果関係があるようにしか見えませんよ」


「…俺が聞きてぇよ」


 男は不敵な笑みを浮かべ、廊下を指でなぞりながらこちらに歩み寄る。四月に入って以来、死を覚悟するのは二度目だった。

 何か、しなくては殺される。ありとあらゆる箇所に目をやるが、見慣れた廊下、いつから張り出されているのか分からないポスター、虫の息である蛍光灯。何の打開作も思いつかない。


 男の指は廊下の壁から離れると、指先の方向は冬夜の眉間の方だった。

 蠢く『影』は壁を伝い、その歪な形から鋭い刃に姿を変えて襲いかかる。

 身体中を駆け巡る痛みをやせ我慢し、奥歯を噛み締めて右前方向に体を思い切り倒す。


「ちッ、雑魚が」


 間一髪といったところか、影の刃は冬夜に触れる音なく、冬夜の温度を残すタイルに突き刺さった。

 微かな埃が舞う。


「本当に何も知らないようですね……でもあなたには価値があるかもしれません。殺すには少し惜しいかも」


 マリンキャップの少女は無気力の眼差しのまま佇む。

 しかし、依然としてこの非常な状況は変わることない。後方に向かって逃げるか?いや、背を向けた途端、冬夜の体は五体満足でいられる自信はない。

 男の方は苛立ちを隠せていない、少女の言葉にも耳を傾ける様子はないようだった。確実に獲物を仕留めようとする獣、まさにそのものだった。


「一か八か…」


 いつ次の攻撃が来るかも分からない中、先の一手を出したのは冬夜の方だった。

 まだ動く足で力の限り地面を蹴り、背後にある化学室の後ろの入り口から中に入る。

 正直、逃げ場などない。


 数秒後、奴らは後ろの入り口からこの教室に入ってくる。

 血が滴り、痛みも止むことはない。


「なぜ、あの女の子を狙う…?」


 冬夜の問いに答えるように少女は歩み寄る。

「あの少女は元より、我々の仲間です。裏切り者って奴ですかね」

 続けて男も口を開く。


「あいつは俺らなんかよりも凶悪だぜ」

 フードの奥から光る金色の眼が鋭く冬夜を睨む。


(凶悪…?あの子が?この男から庇ってくれたのに)


「あ?どうやら信じてなさそうって顔ぶりだな」


「無理もありません。顔だけは一丁前に被害者ヅラしてますからね、あの女」

「よく分からねぇけど、俺にはそんな風には見えなかったけどな」


 左肩を押さえながら後退りする。ジリジリとその距離が詰まっていく。

 いつ攻撃されてもおかしくはない、だが、この部屋なら多少の障害物がある。複数回なら机の後ろに隠れれば攻撃は回避できるかもしれない。


「まぁ、いい機会ですし、教えてあげますよ」


 密閉されたはずの空間から少し強めの風が吹き始めた。

 少女の方からだった。彼女の髪の毛がそよ風の如く靡いている。注視すると彼女の指に嵌められている緑色の宝石が嵌め込まれたリングが、自発的に輝き始めた。


「あなたは知るよしも無いと思いますが、あの女。犯罪者なんですよ。それも世界最悪のね」


 その言葉に意表をつかれた。


 犯罪者…?世界最悪……?


 水色の髪の少女の優しい風貌からは想像ができない単語だ。


「何を、言ってやがる」


「あの女はこれまでに多くの命を葬ってきたんですよ、あの大きな大剣で。私たちの『世界』で知らない者はいませんよ」


 冬夜は淡々と告げる少女の言葉をそう簡単には受け入れられなかった。

 しかし、ふと、彼女の悲しそうな表情が浮かんでくる。


「数年前、東京 品川で起こった大災害ご存知ですか?あれの犯人も彼女ですよ。びっくりですよね、世間一般じゃタンクローリー車の爆発事故によるビルの倒壊〜だとか取り沙汰されてましたけど、あれ、彼女が起こした暴動なんですよ」


 品川の大災害──五年前に品川駅前で起こった死者5000人以上を出した事件。


 陰謀論などはよく話題に上がるが、冬夜自身もただの事故としての認識でしかない。


「大量殺戮を繰り返すヤバい奴なんです。世界最悪の犯罪者って言葉が似つかわしいかもしれませんね」


 あまり信憑性のない言葉だ、と切り捨てたいところではあるが今の冬夜にとって、その真偽は確かではない。


「はい、お喋りは終わりです」


 パン、と少女が軽やかに手を叩くと刹那、周囲から起こるはずもない風圧の風が吹き荒れる。


「なッ」目を細める。今にも目が乾いてしまう勢いの風がこの教室を支配する。

 冬夜は、その場にあった椅子を掴み、魔術師二人に向かい投擲する。

 勢いよく投げた椅子は、その勢いを殺され風に乗って窓ガラスを突き破り、その身を外へと投げ出した。


 窓ガラスの割れる甲高い音が、風の捻りに掻き消される。

 外光が差し込んだのも束の間、強烈な気流が教室内を掻き回し、机や椅子も重力という言葉を無視していた。


「──不愉快な神の風(air ring)


 少女の淡々とした声。


 その言葉を言い終えると、風は空を裂く音を奏でる。

 次の瞬間、冬夜の視界が歪む。


(足が──、浮いた⁈)


 床に立っていたはずの感覚は失われ、身体が後方へと吹き飛ばされる。背中が黒板と衝突し、体の中の何かが潰れるような感覚、そして肺から強制的に空気が吐き出される。


「がは……ッ」痛みでの声でもない。視界の端で、不適な笑みとともに影が揺れ動く。


「この部屋に入ったのは間違いだったみてェだな‼︎‼︎」


 ダン‼︎っと強く床を蹴る音と同時に強烈な風によって、加速する影の刃が冬夜に牙を剥く。

 攻撃の予感を察知したが、風の影響で体が上手く捻られない。


 刃は冬夜に腹部を掠め取り、その鮮血が宙を舞う。

 そのままフードの男は指をクイっと曲げると影は形を歪な形に変え、冬夜の脚を確かに捉えた。


 掴まれた冬夜の体はまるで玩具のように軽々と振り回される。

 そして、実験台の上へ無惨にも力強く打ちつけられた。


「大人しくしてりゃあ、もう少し楽に終われたのによぉ」

「殺さないでくださいね、こいつは使えるかもしれませんから」という少女の言葉に目を薄め、はいはい、と相槌を打つ。

 フードの男が近づいてくる。

 影はその足元から伸び、冬夜の胴体を卓上に縫い付ける。


(う、動けねぇ………)


 逃げられなかった。

 目線をそのまま少女の方に向ける。


「なぁ、」


 眉を顰め、少女が冬夜の視線に気づく。

 血と唾液が口内で混同するのを我慢し、濁った声を喉から絞り出す。



「もし……もし、本当にあの子が危険な存在なら、なんでお前らが追っているんだ」



 男と少女の動きが止まる。


「警察でも、軍でもなく、どうしてお前らなんかが」


「彼女を裁けるのが、私たち、だからです。目には目を、歯には歯を、魔術には魔術を持って制す。彼女の力は強大です、そんじょそこらの軍事武装でも止められませんよ」


 彼女は少しだけ、面倒くさそうに肩をすくめる。


「私たちは彼女を回収して、再度、世界を破壊します」


 その一言で冬夜はギョッと目を丸めた。

「どういう意味だよ、それ……」


「言葉通りですよ。かの強大な力があれば私たちはより上位の存在へとなれる。だから必要なんですよ」

 縛り付けられた体に歩み寄り、冬夜を見下すように少女は言い放つ。


「喋りすぎじゃねェーか。こいつには関係ねェ」


「…そう、ですね」


 フードの男の言動にあっさりと引いた少女は、再度冬夜を見下ろす。


「あなたは今日、ここで『何も知らない一般人』として殺される。ただそれだけです。」

 影が締め上げる力を強める。冬夜の傷口から鋭い刺激が体全体に伝わり、吹き飛びそうな意識が一瞬にして戻される。


「が、ぁぁあああああ‼︎‼︎」血が混じる口から、酷く濁り、溺れそうな声が放たれる。

 呼吸が苦しく、もがこうとすればするほど影の束縛は力を強めていく。

 フードの男はその長身を屈ませ、冬夜の苦痛に満ちる表情を舐め回すかのように一瞥する。


「痛ェか?ふひひ」不気味で歪な声が冬夜の耳の中を反射する。

 気色の悪い表情を睨みつける。


「あ?ンだよ、その生簀かねェ顔はよ」

 影の圧力がさらに体を押し殺そうとしてくる。


 そんな際、一瞬だった。一瞬の隙がそこにはあった。

 肩の部分。影が少し、ほんの少しだけ勢いが緩くなった。

 その瞬間を冬夜は見逃さなかった。

 残った指先の感覚を頼りに、冬夜は自身の右ポケットからボールペンを抜き取る。

 そして。

 机に添えられた男の無防備な手の甲にそのペン先を突き立てた。


「────ッぐ⁈!」


 一瞬の衝撃が男を襲う。それと同時に冬夜の胴を押さえ込んでいた影が一気にその効力を失う。

 体を無理やり起こし、体を捻る。体中に痛みという痛みが交錯するが関係ない、少女の方へと目をやり、残りの余力で打ち出したその右脚は見事に少女の腹部へとクリーンヒットする。


 後方にぐらりと後ずさると、男の舌打ちが耳に届いた。

 実験台から身をおろし、低い姿勢の状態で入ってきた後ろの入り口の方へと駆け出す。


「全く、しぶといですね」


 その一言と同時か、空を裂く風の音が再び産声をあげる。

 何かくる───、察知した冬夜は後ろの戸棚にある複数の薬品が入った瓶を投げつける。

 男の影が、宙に浮く瓶を砕く。

 そして冬夜は不敵に笑った。


 中に入っていた薬品が、男の顔と腕にかかる。不穏な空気がした。


「──クロガネッ!その薬品は⁉︎」少女が今までにない勢いで男に言い放つ。

 上着の袖で顔を擦り、割れた瓶のカケラを覗くと、『硝酸』の二文字が書かれていた。


「クッッソ野郎がァァァァァ───ッ‼︎!!!」


 男の逆鱗に触れ、影がその風に乗りながらも縦横無尽に暴れ回る。

 机を、壁を、窓をも切り裂き、地獄のような空間がそこにはあった。

 冬夜はすぐさま後ろの入り口に手をかけるが、入り口は微動だにしなかった。


「なっ…!」完全に閉じ込められた。


「もう逃げられねェ、誰も来ねェし、聞こえねェ。悲鳴も、ガラスの音でさえ、誰にもなァ‼︎!!!!!!!!」


 激昂する男は影で冬夜の肩と首を抑え、力の限り逆側の壁に打ちつける。

 バギィ‼︎!!と無慈悲にもいくつかの骨が最も簡単に割れる音が冬夜の体内に響き渡る。

 声も出ない痛みだった。そのまま地面に這うも、身動きが取れない。


「……随分とコケにしてくれましたね」


 冷たい声色が背筋に降りかかる。

 そして横一閃に少女の靴の先が冬夜の顔面に入る。

 横に吹き飛ぶも、口から大量の血が溢れ出る。


(もう、死ぬのか……)


 冬夜は息を荒くしながらも、机の陰に身を隠そうとする。

 しかし、髪の毛を掴まれ、長身の男も力一杯冬夜の体を壁へと打ちつける。

 逃げ場はない。助けも来ない。



 冬夜は知りたかった。


 水色の髪の少女の正体を。


 彼女が自分を助けたその理由を。


 世界最悪の犯罪者だろうが、冬夜の命の恩人には間違いない。

 だからこそ、あの言葉を100%受け入れることはなかった。


 信じがたかった。何よりもあの時、冬夜の顔を見て、優しく微笑んだあの表情を。

 冬夜は目の前の魔術師たちの話に疑念を抱く。


(知りたい──)


 男はボロ雑巾のようになった冬夜の体をひょいと持ち上げ、その無様で滑稽な顔面を見つめる。

 まだ魔術師らの腹の虫は収まってはいない。

 歪な影が刃に姿を変え、じんわりと冬夜に近づいていく。


 今にも消えそうな意識にしがみつきながら、冬夜は魔術師を見つめる。


 男と少女の不適な笑みとともに、腹部目掛けて蠢く影の刀刃が迫る。

 徐々に冬夜の意識は薄れていく。


 そして冬夜の耳から音が消える。

 腹部に刃が触れるまで、ほんの数秒のところだった。



 ──身の丈ほどの大剣を携え、今ここに水色の髪の少女が姿を現した。



 その大剣はひと薙で影の刃を弾き、辺り一面に青白い粒子が降り注ぐ。

 マリンキャップの少女は深々と帽子を被り直し、ゆっくりと放つ。

「…………やはり来ましたね、『星々の乙女(アストレア)』───ッ!!!!」



 魔術師二人を鋭い眼光で睨み、少女は大剣の柄を強く握りしめる。



「───この人は殺させない」

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