第二話:一歩 -The First Step-
「シエナッ!!」
ヴェルトールは扉を蹴破らん勢いで開け放った。
「お兄ちゃん!」
部屋の隅で膝を抱えていたシエナが、弾かれたように顔を上げ、救いを求めるように駆け寄ってくる。
ヴェルトールはその小さな体を力強く抱きしめた。
(よかった、無事だ……!)
腕の中に伝わる確かな温もりに、張り詰めていた気が一瞬だけ緩む。
だが、シエナの体は小刻みに震えていた。
「お兄ちゃん、怖い……。さっきから地震が……外で何が起きてるの?」
涙目の彼女が、縋るように見上げてくる。
ヴェルトールは彼女の純白の髪を優しく撫でながら、努めて冷静な声を作った。
「大丈夫だ。少し村の様子がおかしいけど、心配しなくていい」
そう言いながら、彼は思考を巡らせる。
(この家は古いし、揺れが続けば危ないかもしれない。このまま一人にしておくのは危険だ)
「シエナ、すぐに支度をしてブランおじさんの家に行くんだ。ここよりずっと安全だ。おじさんが一緒なら安心だろ?」
「……お兄ちゃんは?どこかに行っちゃうの?」
不安げに服の裾を掴む妹の手を、彼はギュッと握り返す。
「あぁ、兄ちゃんはもう一度、村長のところへ行ってくる。何かわかるかもしれないからな」
「……わかった。早く帰ってきてね」
「ああ、約束だ。すぐに迎えに行く」
ヴェルトールは安心させるようにニカッと笑って見せると、もう一度だけ強く彼女を抱きしめ、すぐに身を翻した。
(シエナのあの怯えた顔……。クソッ、一体何がどうなってるんだ!)
彼は扉を閉めると、焦燥感に背中を押されるようにして、再び村長の家へと駆け出した。
「村長!」
ヴェルトールが息を切らして再び駆けつけると、家の前で村長が見知らぬ男と話し込んでいた。
背が高く、仕立ての良い法衣を纏った細身の男。彼が噂の神官だろう。
「おぉ、ヴェルか。シエナの様子は?」
村長が心配そうに尋ねた。
「……うん。とりあえず大丈夫だったよ。それより、一体何が起きているかわかったの?」
ヴェルトールが問い詰めると、村長は困り果てたように眉を下げ、隣の男へと視線を向けた。
「それがのぉ……」
「……これは、この辺り一帯の『マナ』が暴走しているのだと考えられます」
神官は周囲の騒ぎなどどこ吹く風といった様子で、手にした分厚い書物をめくりながら淡々と告げた。
パラパラ……。
乾いた紙の音が、妙に耳に残る。
「マナの……暴走?」
馴染みのない単語に、ヴェルトールは眉をひそめる。
(マナ?確か、魔導士たちが使う不思議な力だったか?俺は魔法を使えないし、さっぱりだけど……って、今はそれどころじゃない!)
「待ってください!この村に魔導士なんていないし、魔法の道具だってないんです!何かの間違いじゃないんですか!?」
ヴェルトールは素直な疑問をぶつけた。
この平和なグリモの村に、そんな大層なものが存在するはずがないのだ。
だが、神官はため息をつき、眼鏡を指で押し上げた。
「……はぁ。これだから田舎の方は困る」
「なっ……」
「いいですか?私は『魔法』が暴走したとは言っていません。その源となる大気中の『マナ』そのものが暴走していると言ったのです」
神官はまるで出来の悪い生徒に教えるように、得意げに言葉を重ねる。
「例えるなら、火種がないのに空気そのものが燃え上がっているようなもの。人為的なものではありませんよ」
「……っ!そんな理屈はどうだっていいんですよ!!」
ヴェルトールは叫び、神官の胸倉を掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。
ギリッと奥歯が鳴る。拳には爪が食い込むほど力が籠もっていた。
「用語の違いなんて聞いてない!俺が知りたいのは、どうすればこの状況が元に戻るかだ!あんた、神官なんだろ!?」
「そ、それが……私もこのような事態は初めてでして……」
先程までの得意げな態度はどこへやら。
神官は顔面を蒼白にし、脂汗を流しながら、縋るように手元の書物をめくり続けている。
「クソッ、どうすればいいんだ!?」
苛立ちを吐き出す間にも、状況は悪化の一途を辿っていた。
ゴゴゴ……ズズズズ……!
足元から這い上がる地鳴りは断続的に続き、立っていることさえ困難なほどに揺れが激しさを増していく。
世界が崩れていくような恐怖が、その場にいる全員を支配した。
そして、次の瞬間。
ドオオオオォォォォン!!!!!
天地を揺るがすような轟音と共に、遠くの空へ漆黒の光の柱が突き立った。
それは雲を突き破り、天すらも貫くような禍々しい光景だった。
光は数秒で消失したが、目に焼き付いた絶望的な黒は消えない。
(な、なんなんだ?あれもマナの暴走ってやつの影響だっていうのか?)
「クソッ!次から次に……!今度はなんだよ……!」
ヴェルトールは爆心地を睨みつけ、やり場のない怒りと恐怖を空に吠えた。
「……あっちは……」
呆然と空を見上げていた村長が、震える唇を開く。
「……『黒の森』の方角じゃ……」
「黒の森だって……?」
その名を聞いた瞬間、ヴェルトールの背筋に冷たいものが走った。
黒の森。
村から歩いて丸一日近く離れた場所に広がる、広大な樹海だ。
そこは凶暴な魔物が巣食う場所として知られ、村の人間はもちろん、旅人でも近づこうとしない、絶対の「禁足地」だった。
「間違いない。今の禍々しい光……あれは森の方角から立ち昇っておった……」
村長は記憶を手繰り寄せるように呟き続ける。
「そういえば……死んだ婆様が言っておった。あの森には大昔より、『何か大きな力』が封印されていると……。もしや、今の光は……?」
「……!」
その言葉に、ヴェルトールはハッと息を呑む。
(確かに……。村の井戸や動物たちの異変、そして今の黒い光…。偶然にしては、タイミングが良すぎる……無関係なはずがない)
「原因がそこにあるかもしれないなら、行って確かめるしかない!放っておいたら村が――」
ヴェルトールが焦燥に駆られて叫ぶと、
「なりませんっ!!」
神官が声を張り上げ、ヴェルトールの言葉を遮るように割って入った。
彼は読んでいた本をバタンと閉じ、行く手を阻むように立ちはだかる。
「いいですか?あの森は、かつて神による『特殊な封印』が施された禁忌の地……そして何より、我々『ベガノス教会』が厳重に管理する管轄区域なのですよ!」
神官は鼻息を荒くし、唾を飛ばす勢いでまくし立てる。
その目は「規則を守ること」への執着で血走っていた。
「故に!教会の正式な許可証を持たぬ一般人の侵入など、断じて認められません!たとえ村人であってもです!」
彼はそう断言し、侮蔑を含んだ視線でヴェルトールを見下ろした。
「だったら、あんたが今すぐ許可を出せばいい話だろ!頼む、許可をくれ!」
ヴェルトールは藁にもすがる思いで叫んだ。
だが、神官の反応は冷淡そのものだった。
「……ふん。何を言うかと思えば。私の一存でそのような決定ができるわけがないでしょう」
神官は呆れたように肩をすくめ、淡々と事実を告げる。
「許可を得るには然るべき手順を踏み、王都にある中央教会へ申請書を提出し、審議を経る必要があります。早くて半月……といったところですかね」
(は……?王都?半月だって?)
ヴェルトールは耳を疑った。
地面は今も揺れ続け、井戸からは汚泥が溢れている。
この状況で、往復に何日もかかる王都の返事を待てと言うのかと。
「ふざけるな……!そんなの待ってられるか!村がどうにかなってるのは、今なんだぞ!!」
彼の苛立ちが、明確な怒りへと変わって爆発する。
しかし神官は表情一つ変えず、冷ややかな目で彼を見据えた。
「規則は規則です。もし貴方が無許可で教会領である森に侵入すれば、重罪人として然るべき罰を受けることになりますよ?それでもいいのですか?」
脅しのようなその言葉に、ヴェルトールは強く拳を握りしめた。
脳裏に浮かぶのは、震えて待つシエナの顔。
「……上等だ」
「はい?」
「罰ぐらい、いくらでも受けてやるって言ってるんだよ!」
ヴェルトールは神官を鋭く睨みつけ、吐き捨てるように叫んだ。
「原因があそこにあるかもしれないんだ!可能性があるなら、俺は行く!規則で妹や村のみんなが守れるかよ!」
「なりません!大体、貴方のような一般人が行って、どうなると言うのですか!!」
神官は顔を真っ赤にして激昂し、唾を飛ばしてヴェルトールを否定する。
「何もしないで終わるよりはマシだろ!それに、そこに封印された『大きな力』ってのが本当にあるなら、この異変だってなんとかなるかもしれない!」
「なっ……!まさか、神の封印に触れるおつもりですか!?なんと不敬な!!」
神官が卒倒しそうな勢いで憤る中、力なく割って入ったのは村長だった。
「ヴェルよ……やめておけ」
「そ、村長……?」
「神官様の仰る通りじゃ。お前が行ってどうなることでもない。森には凶暴な魔物もいる……。調べに行ったところで、無駄死にするだけじゃ……」
村長は諦めがついたような、枯れた瞳で首を振る。
その姿には、もう抗う気力すら残っていないように見えた。
それが、ヴェルトールにはたまらなく許せなかった。
「……じゃあ、このまま指をくわえて、何もせずにいろって言うのか!?」
彼は二人の大人を睨みつけ、吼えるように叫んだ。
(このまま放置していたら、シエナだって、村の人たちだって、きっと無事じゃ済まない!……何もせずに死ぬのを待つなんて、俺にはできない!)
ヴェルトールの体は、思考するよりも早く、衝動に突き動かされるように反転していた。
背後で「待ちたまえ!」という神官の制止する声が響くが、もう耳には入らない。
彼はただ前だけを見据え、準備を整えるべく自分の家へと全速力で駆け出した。
「クソッ!!」
ヴェルトールは行き場のない怒りを吐き捨てながら、勢いよく扉を開けた。
「っ……!お兄ちゃん……?」
部屋の真ん中で立ち尽くしていたシエナが、ビクりと肩を震わせて彼を見る。
彼はハッとして、慌ててその怒りを飲み込んだ。
「……あぁ、すまない。シエナ、まだおじさんの所に行ってなかったのか?ここは危ないから、早く行った方がいいって言っただろ?」
彼は努めて声を和らげ、諭すように言い聞かせる。
シエナは俯き、スカートの裾をギュッと握りしめた。
「ごめんなさい……。でも、お兄ちゃんがどこかに行っちゃいそうで……怖くて」
「…………」
図星を突かれ、ヴェルトールは言葉に詰まる。
だが、嘘をついてごまかす時間はもうない。
彼はシエナの視線の高さに合わせて屈み込むと、その目を見つめて告げた。
「……兄ちゃんな、ちょっと『黒の森』の様子を見に行かなきゃいけないんだ」
「えっ……?」
シエナの顔から、サッと血の気が引いていく。
「黒の森って……みんなが、危ないから絶対に近づいちゃいけないって言ってる、魔物の森じゃ……」
「まぁ、確かにそう言われてるけどな。でも大丈夫さ!」
ヴェルトールは彼女の不安を吹き飛ばすように、あえて明るく振る舞いながら、壁に立てかけてあった愛用のショートソードを手に取った。
「今の俺なら、魔物の一匹や二匹、ちょちょいのちょいだ!毎日の鍛錬を見てただろ?」
ブンッ!と空を切るように剣を振って見せ、彼はニッと歯を見せて笑う。
「だから、心配しなくていい。……な?」
「……うん」
兄の精一杯の強がりを察したのか、シエナは泣きそうな顔のまま、それでも小さく頷いた。
「……ごめんな。兄ちゃん、しばらく出かけるけど、いい子で留守番しててくれるか?」
「……わかった」
そう約束を取り付けると、ヴェルトールは手早く準備に取り掛かった。
動きやすい革と布のチュニックに着替え、足元は厚手のブーツで固める。
腰には簡素なベルトを巻き、先程のショートソードを吊るすと、最後に干し肉などの携帯食料を袋に詰め込んだ。
その背中にはもう、ただの村人ではない、戦士としての覚悟が宿っている。
「いいか?俺が出たら、すぐに鍵を閉めて、荷物を持ってブランおじさんの家に行くんだぞ?……約束だ」
ヴェルトールは言い聞かせるように強く念押しすると、シエナの華奢な体を力いっぱい抱きしめた。
腕の中に伝わる震えが、彼の胸を締め付ける。
「うん……。いってらっしゃい……気をつけてね、お兄ちゃん」
彼女はヴェルトールの胸に顔を埋め、今にも泣き出しそうな声を必死に押し殺して気丈に振る舞う。
その健気さに、彼は奥歯を噛み締め、意を決して体を離した。
「あぁ!それじゃあ、行ってくる!」
彼は努めて明るい声を張り上げると、シエナの涙を見ないように素早く踵を返し、扉を開け放った。
バンッ!
勢いよく扉を閉めると、そこはもう轟音と地鳴りが支配する世界だった。
ヴェルトールは一度だけ家の扉を振り返り、ギュッと拳を握ると、もう迷わないとばかりに前を向く。
視線の先、遠く空を黒く染める不吉な森――『黒の森』へ向けて。
「待ってろよ……!」
彼は地面を蹴り、異変の元凶へと向かって走り出した。
こうして、ヴェルトールの長く険しい運命の物語が、幕を開けることとなる……。




