第一話:異変 -Disaster-
「♪……yve……r mal……」
深い静寂の底で、どこか懐かしく、微かな旋律が鼓膜を撫でた。
「歌が……聞こえ、る……」
地に伏したヴェルトールは、泥の匂いの中で薄れゆく意識を必死に繋ぎ止め、耳を澄ませる。
鬱蒼とした森の奥から漂う、不思議な音色。
――それはまるで、誰かが自分を呼んでいるかのような響きだった。
そして時は、全てが始まる少し前へと遡る。嵐の前の、あの穏やかな朝へと。
〜辺境の村グリモ〜
柔らかな陽光に包まれたその村は、木々の間からこぼれる光と、湿り気を帯びた土や草の匂いが混ざり合う、穏やかな朝を迎えていた。
「お兄ちゃん!また寝坊してるー!」
静かな木の家に、銀鈴を転がしたような声が響き渡る。
勢いよく扉を開け放ち、朝の光と共に飛び込んできたのは、純白の髪をなびかせた少女『シエナ』だった。
彼女は抱えていた果物籠をテーブルに置くと、ドタドタと兄のベッドへ詰め寄る。
「今日はブランおじさんを手伝うんでしょ!ほら、早く起きて!」
「……んん。あと、少し……」
ヴェルトールは低い唸り声を上げ、現実から逃げるように頭まで布団をかぶる。
だが、シエナにそんな甘えは通用しない。
「だーめっ!」
彼女は容赦なく布団を引ぺがすと、露わになった兄の青みがかった黒髪に手を伸ばし、わしゃわしゃと強引にかき回した。
「わ、わかった!起きた、起きたから!」
「ふふっ、最初からそう言えばいいのに」
降参とばかりに手を上げた兄を見て、シエナは満足げに目を細める。
彼女はくしゃくしゃになった兄の髪を見て悪戯っぽくクスりと笑うと、ゆっくりとその手を放した。
「ふぁぁ……」
間の抜けたあくびが、朝の空気に溶けていく。
ヴェルトールは強張った筋を伸ばすように、腕を天井へと突き上げて大きく背伸びをした。
「ん、ぐぐ……ぷはっ」
全身の骨がパキポキと小気味よい音を立てるのを確認し、彼はゆっくりとベッドから身を起こす。
窓から差し込む光に目を細めつつ、彼はパンッと両手で自身の頬を軽く叩き、気合を入れ直した。
「さて、今日も頑張るかぁ!」
太陽が少し傾き、心地よい風が吹き始めた頃。
「ブランおじさん!ヤギたちは小屋に帰しておいたよ!」
ヴェルトールは大きく手を振りながら、畑仕事に精を出している背中に声をかけた。
畑の主であるブランは、鍬を動かす手を止め、その小太りで愛嬌のある顔をぐしゃりと綻ばせる。
「おぉ~、いつもすまねぇな、ヴェル!」
ブランは太い腕で豪快に額の汗を拭うと、足元の木陰に置いてあった荷物を持ち上げた。
「じゃあ、これは今日の分だ!シエナちゃんにもよろしくな!」
そう言って手渡されたのは、瑞々しい泥付きの野菜が山盛りにされた籠と、搾りたてのミルクが入った瓶だ。
瓶の表面には水滴がつき、その新鮮さを物語っている。
「ありがとう!またいつでも呼んでよ!」
ヴェルトールは両手に伝わる確かな重みを感じ、満面の笑みで応えた。
ブランに別れを告げ、彼が踵を返して歩き出した、その時だった。
サァァッ……と、一陣の風が村を通り抜けていく。
頬を撫でるその風の中に、不意に異質な音が混じった。
どこか懐かしく、そして哀愁を帯びた微かな旋律。
「……歌?」
ヴェルトールは思わず足を止め、風上へと視線を巡らせて耳を澄ます。
だが、聞こえてくるのは風に揺れる木々のざわめきと、遠くで響く子供たちの無邪気な笑い声だけ。
先ほどの旋律は、まるで幻聴だったかのように跡形もなく掻き消えていた。
気のせい、だろうか。
彼は不思議そうに首を傾げる。
だが、胸の奥に落ちた小さな違和感の種は、ざわつきとして確かにそこに残っていた。
違和感を振り払うように歩を進めると、すぐに見慣れた小さな木の家に辿り着いた。
「ただいま!」
ヴェルトールが勢いよく扉を開けるやいなや、部屋の奥からつむじ風のような影が飛んでくる。
「お兄ちゃん、おかえりー!」
「っと……!」
待ち構えていたシエナが、飛びつくように彼の胸に抱きついたのだ。
彼は少しよろめきながらも、その衝撃を危なげなく受け止める。
(両親を知らないせいかな。もう十歳になって、背も伸びてきたっていうのに、シエナはまだまだ甘えん坊だ。)
ヴェルトールは苦笑しながらも、腕の中の温もりを愛おしむように見つめた。
「……?どうしたの?」
兄の視線に気づいたのか、シエナがきょとんとして上目遣いに尋ねる。
彼はハッとして、いつもの調子で笑いかけた。
「あぁ、いや。今朝は起こしてくれてありがとな!お陰でブランおじさんから、たっぷりと報酬をもらってきたぞ!」
そう言いながら、彼は抱えていた籠をドンッとテーブルの上に置いた。
中に詰まった色とりどりの野菜と、白いミルクの入った瓶が揺れる。
「おぉ〜、さすがブランおじさん!太っ腹だね!」
それを見たシエナは、ぱぁっと花が咲いたような笑顔で歓声を上げた。
「じゃあ、少し早いけど晩ご飯の支度にするか!何か食べたいものはあるか?」
ヴェルトールは手桶の水で土汚れを丁寧に洗い流しながら尋ねた。
「んー……」
シエナは人差し指を顎に当てて少し考え込むと、パッと何かを思いついたように顔を上げた。
「あ、そうだ!ブランおじさんの野菜とミルクがあるし、シチューがいい!とろとろのやつ!」
「よしきた!じゃあ今夜は特製シチューで決まりだな!」
やがてテーブルに並んだのは、湯気を上げる具だくさんのシチューだ。
二人はスプーンいっぱいにすくうと、ハフハフと熱さを楽しみながら頬張った。
広い世界に、たった二人きりの家族。
けれど、ランプの暖かな灯りに照らされたこの家には、寂しさなど入り込む隙間もないほど明るい笑顔が溢れていた。
そうして、夜は静かに更けていく。
いつも通りで、かけがえのない平和な一日は、こうして穏やかに幕を閉じた……。
夜が明け、朝霧がまだ白く残る頃。
微睡みの中にあった村の静寂を破り、鋭い気合いが響き渡った。
「はぁぁぁっ!!」
風切り音と共に、一振りの木剣が空を裂く。
ヴェルトールの視線の先には、庭の木に吊るされた的と、地面に深く突き刺された太い丸太があった。
「ふっ!せいっ!!」
強く地を踏みしめ、腰の回転と共に放たれた一撃が、丸太を強打する。
バチンッ!という乾いた衝撃音が、朝の澄んだ空気に小気味よく吸い込まれていった。
額には玉のような汗が浮かび、彼の呼気が白く揺れる。
「はぁ、はぁ……まだまだっ!」
乱れた呼吸を整え、ヴェルトールが次の一撃へと踏み込もうとした、その刹那。
「うわぁぁぁぁ!!!」
(――悲鳴?)
平和な村には似つかわしくない、引き裂くような絶叫が風に乗って飛び込んできた。
「……今の声は」
ただごとではない響きに、ヴェルトールは動きを止める。
彼は額の汗を拭うのも忘れ、庭から通りへと飛び出した。
視界が開けたその瞬間。
ドクン。
心臓が嫌な音を立てる。
昨日感じたあの違和感が、確信めいた悪寒となって背筋を駆け上がった。
声のした方へ駆けつけると、そこには異様な光景が広がっていた。
川向こうに住むハンスが、自宅の井戸の前で腰を抜かし、集まってきた数人の村人たちも遠巻きにそれを眺めてざわついている。
「おい、一体何があったんだ!?」
ヴェルトールが駆け寄って肩を掴むと、ハンスはヒッと短く息を呑み、震える指先を突き出した。
「い、井戸の水が……!」
「……水?水がどうしたんだ?さっき汲んだときはなんともなかったぞ?」
ヴェルトールは眉をひそめ、恐る恐る井戸の縁から中を覗き込む。
その瞬間、彼は息を止めた。
ボコッ……ボコッ……。
粘り気のある不気味な音が、底から響いてくる。
澄んでいたはずの水は黒く濁り、まるで沸騰しているかのように激しく泡立ちながら、ゆっくりと、だが確実に迫り上がってきていた。
「なんだ……これ。ど、どうなってるんだ……?」
ただ水かさが増しているだけではない。
まるで井戸そのものが、何か悪いものを吐き出そうとしているかのような光景に、ヴェルトールの背筋が凍りついた。
「と、とにかく、俺が村長に知らせてくる!ハンスはみんなを井戸に近づけないようにしてくれ!」
彼はそれだけ言い残すと、ハンスの返事も待たず、村長の家へ向けて全力で駆け出した。
道中、異変はすでに村中に伝播していた。
普段は大人しいブランの飼うヤギたちが、何かに怯えるように柵に体を打ち付け、悲鳴のような鳴き声を上げている。
ズズ……ズズズ……。
時折、地の底から重く低い地鳴りが響き、足の裏に不気味な振動が伝わってくる。
平和だった村の空気は一変し、肌が粟立つような異様な気配に包まれていた。
「一体、何が起きてるんだ……」
ヴェルトールは荒くなる呼吸を必死に整えながら、さらに足を動かす。
(嫌な予感がする。ただ事じゃない)
胸の奥で警鐘を鳴らす焦燥感に突き動かされるように、彼は村長の元へと急いだ。
「はぁ、はぁ……村長っ!村長ー!!」
ヴェルトールが扉を叩きながら叫ぶと、軋んだ音と共にゆっくりと顔を出したのは、白髪の村長だった。
「おぉ、ヴェルか。おはよう……。どうした?そんなに慌てて。……うちの手伝いは明日ではなかったかのぅ…?」
村長は、外の騒ぎなど聞こえていないかのように、記憶を手繰り視線を宙に彷徨わせる。
その悠長な態度に、ヴェルトールは焦りを爆発させた。
「そんなこと言ってる場合じゃない!大変なんだ!」
「……む?」
「井戸の水がドロドロに沸き立って、動物たちもおかしくなってる!それに、さっきから不気味な地鳴りが……っ!」
必死に訴えかけた、その時だった。
ザァァァァァア……!
彼の言葉を遮るように木々が激しくざわめき、無数の鳥たちが悲鳴のような羽音を立てて一斉に飛び立った。
空を覆い尽くす黒い影に、ヴェルトールが思わず声を上げる。
「な、なんだ……?」
次の瞬間。
ゴゴッ……!!
地の底から響くような鈍い音と共に、突き上げるような揺れが村を襲った。
「うわっ!?」
ヴェルトールは咄嗟に軒先の柱に掴まり、叫んだ。
「今度はなんだ!一体、何が起こってるんだ!?」
「じ、事情は分かった!これはただ事ではないな……」
村長の顔つきが一変する。
そして、彼はヴェルトールの肩を強く叩くと、力強い声で告げた。
「ちょうど今、村に神官様が滞在されておる!わしが今から呼んでくるゆえ、お前はすぐに家へ戻れ!シエナが心配じゃ!」
「う、うんっ!」
村長はそう言い捨てると、老体とは思えぬ足取りで、神官が宿泊している方角へと駆けていった。
「一体何が……」
ヴェルトールは呆然と呟きかけるが、すぐに頭を振る。
(いや、今は原因なんてどうでもいい。シエナだ、シエナが心配だ!)
「クソッ、無事でいてくれよ!」
彼は地面を強く蹴り出し、自宅の方角へと全速力で走り出した。
流れる景色の中で、村の混乱が嫌でも目に飛び込んでくる。
異臭を放ちながら泡立つ井戸を遠巻きにして、顔を青ざめる村人たち。
恐怖に狂った家畜たちが暴れ、それを必死に抑え込もうと怒号を飛ばす男たち。
(急がなきゃ……!)
混沌とする村の様子に心臓を鷲掴みにされるような不安を覚えながら、ヴェルトールはひたすらに足を動かし、全速力でシエナの待つ家へと向かった。
「滅びの竜と祈りの唄」をお読みいただき、ありがとうございます!
この物語は作者が王道のファンタジーを読みたくて書き始めた物語です。
ヴェルトールの成長、増えていく仲間たちや新たな地域など、素人なりに、ここからどんどん面白くなるように精進してまいりますので、第二話、第三話と続けて読んでいただければ嬉しいです!
※本文にアルファベットを使用している部分がありますが、英語等ではなく、古代語という設定です。




