第十九話:奥の手 -The Hidden Hand-
「貴様……何者だ……?」
剣を押し込まれまいと腕に力を込めながら、騎士は驚愕と怒りに顔を歪めて問うた。
生身の獣人に、神聖なる剣を受け止められたことが信じられないのだ。
「……人に名を尋ねる時は、まず自分から名乗るものだ」
レックスは一切の動揺を見せず、涼しい顔で答える。翡翠色の瞳が、至近距離から騎士を射抜く。
「ふん、いいだろう……」
騎士は不愉快そうに鼻を鳴らすと、剣をゆっくりと引き、広場全体に響き渡るように声を張り上げる。
「よく聞け、獣風情が!我が名は神殿騎士団・閃剣隊所属――」
彼は剣を垂直に立て、誇らしげにその肩書きを告げた。
「聖律騎士"ボルドー"!」
―ジャキンッ!
切っ先が、再びレックスの喉元へと向けられる。
「それが……神に代わって、貴様を断罪する者の名だ……!」
――『聖律騎士』。……末端の『聖徒騎士』ではなく、指揮官クラスが出てきたというわけか。
レックスは冷静に相手の力量を測る。
剣圧、立ち居振る舞い。確かに、そこらのゴロツキとは格が違う。
「さぁ、次は貴様の番だ。その名を名乗るがいい!」
ボルドーは切っ先を向け、獲物を品定めするように傲然と言い放つ。
だが、レックスはふん、と鼻を鳴らし、冷ややかな蔑みを込めて答えた。
「……生憎だが、女子供や弱者に刃を向けるような『外道』に、名乗る名は持ち合わせていない」
「なっ……!?」
「それに、どうせお前はここで地に伏す身だ。名など聞いても意味はない」
レックスは口角を上げ、不敵にニヤリと笑ってみせた。
その挑発は、プライドの高い騎士には劇薬だった。
「き……貴様ぁあああッ!!」
ボルドーの顔が屈辱で朱に染まり、血管が浮き上がる。
「神の代行者を愚弄するか!」
―ブォンッ!!
怒りに任せた、だが、恐ろしく速い一撃。
大気を裂く剛剣が、レックスの脳天めがけて振り下ろされた。
「奥方!今すぐここを離れろ!!」
レックスは背後のリエッタに鋭く指示を飛ばすと同時、迫りくる白刃に向かって、躊躇なくその鋼の脚を蹴り上げた。
―ガギィィィンッ!!
剣と脚甲が激突し、目も眩むような火花が散る。
その凄まじい衝撃音は、まるで広場に落雷が直撃したかのように空気を震わせた。
「リエッタ!こっちだ!」
その隙に、ダンゲルが駆け寄って妻の腕を引き、安全圏へと退避させる。これで、憂いはなくなった。
「すごい……!さすがレックスさんだ……!」
聖律騎士の剛剣を足技だけで捌くその姿に、ヴェルトールは腰で小さく拳を握り、戦慄と尊敬を覚えた。
だが、すぐに頭を振る。
「って、感心してる場合じゃない!相手は化け物じみた騎士だ、俺も加勢しないと!」
彼は剣の柄に手をかけ、隠れていた物陰から飛び出そうと前傾姿勢をとった。
その時。
「――お待ちなさい!!」
喧騒の中でもはっきりと通る、大きな声が彼を呼び止めた。
「え……?」
ヴェルトールは出鼻をくじかれ、勢いのままつんのめるようにして振り返る。
そこに立っていた人物を見て、彼は驚愕に目を見開いた。
「お、お前は……!!」
「ほぉ……。獣風情が、なかなかやる」
ボルドーは感心したように呟くと、次の瞬間、剣を力任せに振り抜いた。
―ブォンッ!!
膠着が暴力的に破られる。 レックスはバックステップで衝撃を殺しながら着地するが、石畳が削れるほどの重い一撃だった。
「だが、気にかかるな。……貴様、先ほどから一切『手』を使おうとせん」
ボルドーは剣先をレックスに向け、嘲るように鼻を鳴らす。
「手負いか?それとも曲芸のつもりか?……いずれにせよ、そんなナメた戦い方で、聖律騎士であるこの俺に勝てるとでも思っているのか?」
―ジャリッ
彼は足を踏み込み、切っ先を喉元へ修正して構え直す。
ギラリ、と刃が冷たく光った。その刀身から放たれるのは、ただの威圧感ではない。これまで幾百、幾千もの人間を斬り伏せ、命を奪ってきた者だけが纏う、空気を重く圧し潰すような「本物の殺気」だった。
「……なに、単純な理由さ」
レックスは肩をすくめ、翡翠の瞳で真っ直ぐにボルドーを射抜いた。
「あまり汚れたものは、触りたくないんでな」
「……ッ!」
装着された鋼鉄の脚甲が、陽光を浴びて鈍く、重い光を放つ。
二人の間に流れる時間が、永遠にも似た一瞬の間で凍りついた。呼吸音すら消えた、張り詰めた静寂。
その均衡を破ったのは、騎士の殺意だった。
―カツン
ボルドーの鉄靴が、乾いた音で石畳を踏み鳴らす。
たった一歩。だがその音は、死闘の再開を告げる不気味な号砲のように、広場へと響き渡った。
「シッ!!」
鋭い呼気と共に、ボルドーの剛剣が放たれた矢のように突き出された。
一点の迷いもなく喉元を狙う、必殺の刺突。
だが、レックスはその軌道を冷静に見極め、瞬時に腰を沈める。
―ガギッ!!
轟音。下から跳ね上げられたレックスの右脚が、信じがたい精度で剣の腹を捉え、その軌道を強引に天上へと逸らしていた。
「なっ……!?」
必殺の一撃を「蹴り」で弾かれた事実に、ボルドーの目が驚愕に見開かれる。
体勢が浮く。その隙を、彼が見逃すはずもない。
「遅い」
レックスは弾いた右足を軸に、独楽のように回転し、遠心力を乗せた左脚の回し蹴りを叩き込む。
―ドォォンッ!!
「ぐぅッ!!」
鉄を叩く鈍く重い音が響き、火花が激しく散った。
直撃コースだった。だが、ボルドーは体勢を崩しながらも反射的に左肩を入れ、厚みのある肩当てでその蹴りを滑らせるように受け止めていたのだ。
「ぐっ……!」
ボルドーは顔をしかめ、奥歯を軋ませた。
厚い肩当て越しだというのに、まるで巨大な鉄塊で殴りつけられたかのような衝撃が骨まで浸透し、左腕の感覚を一瞬で麻痺させる。
――だが……軽いッ!
彼はその衝撃に抗うことなく、寧ろ利用して体を捻った。
弾かれた剣の勢いを殺さず、そのまま遠心力を乗せて鋭く横薙ぎに振り抜く。
―ブォンッ!!
「……っ!?」
必殺のタイミング。レックスは瞬時に死の気配を察知し、後方へと跳ね退いた。
躱せる――はずだった。
だが、ボルドーの剣速は、獣人の動体視力すらも僅かに上回っていた。
―ズバッ!
「くっ……!」
銀閃が空気を裂き、レックスの左脇腹を深々と掠める。宙を舞う暗赤色の毛と、鮮やかな飛沫。
わずかに遅れて走る焼けるような痛みに、彼は顔を歪めて着地した。
レックスはボルドーの予想を上回る素早さに、わずかながら息を詰まらせた。
だが、ボルドーは攻撃の手を緩めない。
脇腹を斬りつけたその勢いのまま手首を返し、流れるような動作で追撃の刃を走らせた。
「ちっ……!」
レックスは無理やり体を捻って致命傷となる軌道をずらす。
だが、ボルドーの剣は執拗に獲物に食らいついた。
―ザシュッ!
「ぐぅっ……」
今度は右脚。 着地のために伸ばした太腿を、鋭い切っ先が容赦なく切り裂いた。
――この男、やる……!
レックスは顔をしかめ、ザザッ、と土を削りながら着地し、距離を取る。
ただの飾り物の騎士ではない。殺し合いの機微を熟知した、本物の手練れだ。
脇腹と右脚。二つの傷口からじわりと熱い血が滲み出し、彼の衣服を黒く、重く染め上げていく。
「フハハハ!少々、俺を侮りすぎていたようだな!!」
ボルドーは愉悦に顔を歪め、獲物をいたぶるように追撃の足を踏み出す。
レックスは激突を避け、滑るようにボルドーの死角へと回り込もうとした。 だが。
「甘いっ!!」
ボルドーは勝ち誇ったように叫ぶと、振り返りざま、見なくても分かると言わんばかりに剣を跳ね上げた。
―シュバッ!
「ぐぅ……ッ!」
回避が間に合わない。鋭利な切っ先がレックスの肩を無慈悲に切り裂き、新たな紅い筋を刻み込む。
「動きが鈍っているぞ?」
ボルドーは剣についた血を払い、残酷な笑みを深めて言い放った。
「その程度の脚で……聖律騎士に挑もうとは、笑止千万だな」
「ちっ……」
レックスは滲む血を一瞥し、小さく舌打ちを落とす。
だが、その瞳から戦意は消えていない。寧ろ、より鋭く、冷徹に研ぎ澄まされていく。
「……いいだろう。ならば、俺も少々『本気』を出すとするか」
彼は重心を落とし、トン、トン、と独特なリズムで軽やかなステップを踏み始めた。
「あぁ?なにぃ?手負いの分際で、そんな虚勢がこの俺に――」
ボルドーが鼻で笑い飛ばそうとした、その刹那。
―ヒュンッ
彼の目の前から、レックスの姿が掻き消えた。
「なっ……消え、た!?」
驚愕するボルドーの周囲を、疾風が駆け抜ける。
レックスは負傷を感じさせない――いや、先ほどをも凌駕する速さで、ボルドーの間合いを旋回していた。
その度に、長くたなびく黒灰色のストールが残像のように揺らめき、軌跡を描く。
実体かと思えば布、布かと思えば実体。
「くっ、ちょこまかと……目障りなッ!」
揺れる布と、紅い獣の影。
視界を惑わすその動きは、まさしく幻惑の舞踏だった。
「ぬ、うぅ……ッ!」
ボルドーは困惑に顔を歪め、剣を構え直してその残像を追おうとする。
だが、レックスの脚技はあまりに変幻自在だった。
まるで死の舞踏。左から、右から、そして死角となる頭上から。
鈍く光る鋼の脚が、驟雨の如き連撃となって襲いかかってくる。
―カァンッ!カァンッ!!ガァァンッ!!!
「ぐ、おおぉッ!?」
嵐のような連打が、白銀の甲冑を打ち据える。
その衝撃音は、まるで広場そのものが巨大な鐘になったかのように、甲高く、そして重く鳴り響いた。
ボルドーは剣と肩当てを盾にし、守りを固めるのが精一杯だ。
――バカな……!さっきよりも、速く、重くなっているだと……!?
手負いのはずの獣。だが、繰り出される攻撃の威力とスピードは、無傷だった先程の状態を遥かに凌駕していた。
「この……っ!」
苛立ちが頂点に達したボルドーは、防戦を嫌って大きく踏み込んだ。
渾身の横薙ぎ。空気を裂くような一撃がレックスを襲う。
だが、レックスはそれを待っていた。
彼は軽やかに刃を飛び越えると、空中で身体を鋭く捻転。
遠心力と重力を上乗せした、渾身の踵落としをボルドーの後頭部へ叩き込む!
―ズドンッ!!
「ぐ、ぬぅッ……!?」
ボルドーは辛うじて剣を掲げ、寸前のところで柄を使って受け止める。
だが、まるで鉄の塊が空から落ちてきたかのような衝撃が全身を貫いた。
ガクン、と膝が地につきそうになる。
「はぁ、はぁ……っ。くそっ、なんて動きだ……」
ところが、着地の衝撃が仇となった。
地面を踏みしめた瞬間、傷口から伝わる焼けるような激痛に、レックスの意識が一瞬奪われた。
達人同士の戦いにおいて、それはあまりに致命的な「空白」だった。
ボルドーがその一瞬を見逃すはずがない。 彼の顔が、勝利を確信した下卑た喜悦に歪む。
「もらったああああああッ!!!」
それは致命の一撃。体勢を崩したレックスには、もはや避ける足も、受け止める手も残されていない。
刃が空気を切り裂き、冷たい死の感触が、暗赤色の体毛に触れる。
誰もが獣人の死を予感した、その刹那。
「……」
翡翠色の瞳が、ギラリと輝いた。
そこにあるのは、死への恐怖ではない。罠にかかった獲物を嘲笑うかのような、大胆不敵な笑みだった。
「――それは俺のセリフだ」
「なっ!?」
驚愕に目を見開くボルドーの懐へ、レックスは傷ついた脚で爆発的に地面を蹴り、疾風の如く潜り込んだ。
振り下ろされる剣の軌道の内側。死と隣り合わせの零距離。
「貴様、手は使わぬと――!」
「嘘だ」
レックスはニヤリと笑うと、その手から渾身の一撃を放った。
「……狐影…穿掌ぉ!!!」
ーズガァァァァッ!!!
爆音。放たれた掌は、まるで狐の影が敵を穿つように、ボルドーの分厚い甲冑をものともせず、その体を深々と貫いた。
ボルドーの体内から、鈍い破壊音が響き渡る。
「ガ、はッ……!?」
ボルドーの口から泡と血が溢れる。彼は白目を剥き、膝から崩れ落ちると、ズシンと重い音を立てて地に伏した。
ピクリとも動かない。完全なる敗北だ。
それを一瞥し、手を拭いながらレックスは冷たく言い放つ。
「……ふん、これが奥の手……という奴だ」




