第十八話:正義 -A Twisted Justice-
一夜明け、朝の光が差し込む宿屋の広間。
本来なら出発の準備を話し合うはずのテーブルには、重苦しい沈黙が漂っていた。
「……皆様。大変、申し上げにくいのですが」
バデロンは憔悴した顔を上げ、絞り出すように切り出した。
「申し訳ありません……!やはり、私は教会と事を構えることはできません!」
彼は椅子から立ち上がると、床に額がつくほどの勢いで深々と頭を下げた。
「な、バデロンさん!?」
「どうか、軽蔑してください。命の恩人を見捨てる私を!」
彼は顔を上げようとせず、震える声で謝罪の言葉を紡ぐ。
「……私たち商人は、それこそ世界中を駆け巡って商いをします。関所を通り、市場に入り、信用を得る……。その全ての場所に『教会』の影響力があるのです」
彼は拳を床に押し付け、血を吐くような思いで続けた。
「ベガノス教会は、大陸のほとんどの国で信仰されています。これに逆らい『異端協力者』の烙印を押されれば……私の人生そのものである『ロスタルト商会』は終わりです。商売を続けることも、生きていくことすら困難になってしまうのです……!」
恩義と、守るべき生活。
その狭間で引き裂かれた男の悲痛な告白に、場は重い沈黙に包まれた。
しかし、その重苦しい沈黙を破ったのは、他ならぬヴェルトールだった。
「バデロンさん。……どうか、頭を上げてください」
彼は椅子から立ち上がり、床に伏せる商人の震える肩に、そっと優しく手を添えた。
その声には、一点の曇りも、非難の色もなかった。
「……俺だって、自分たちの事情で、恩人であるバデロンさんの人生を壊したくありません」
ヴェルトールは、彼の辛い胸の内をすべて汲み取るように、穏やかに微笑んだ。
「ここまで送っていただいて、宿や食事の手配まで……これ以上ないほど助けてもらいました。それだけで十分すぎます」
彼はバデロンの手を握り、感謝を込めて告げる。
「だから……まだ引き返せる今のうちに、俺たちから離れてください。これ以上、関わってはダメです」
「ヴェルトールさん……っ!本当に、申し訳ない!!」
バデロンの目から、堪えきれない涙がボロボロと溢れ出した。
彼は震える声で、己の魂に刻むように誓いを立てる。
「……何があろうと、皆様のことは、教会の人間には決して話したりいたしません!この命に代えても!」
それは、「沈黙」という形での、彼なりの精一杯の加勢だった。
「必ず……必ず!ガラルドルフまで逃げ延びて下さい!」
バデロンは最後にもう一度、深々と頭を下げると、決意を翻すまいとするように猛然と踵を返し、一度も振り返ることなく『荒ぶ荒波亭』を後にした。
ドアベルの音が、寂しげに鳴り響く。
「……旦那のあんな顔を見たのは、初めてだ」
厨房から様子を見ていたダンゲルが、ぽつりと呟いた。
いつもの豪快な笑みは消え、彼は腕を組んで、友が去っていった扉を静かに見つめている。
「商売人の矜持よりも、人としての情を取りてぇ……。けど、背負ってるもんがデカすぎてそれができねぇ。……お前ぇらを助けられないのが、よっぽど悔しいんだろうよ」
彼は目を閉じ、友の苦渋を噛み締めるように、重く息を吐いた。
――その直後だった。
バンッ!!
宿の扉が壁に激突しそうな勢いで開き、一人の男が血相を変えて飛び込んできた。
「だ、ダンゲル!!大変だッ!!」
「あん?なんだ騒々しい!」
「街の連中が……表で『神殿騎士』と揉めてやがる!!」
「なにぃ!?」
ダンゲルの顔色が一変した。
「あのバカどもが……っ!相手が誰だかわかってんのか!?あの連中に手ぇ出したら、ろくなことにならねぇぞ!!」
彼は驚きと怒りで吠えると、エプロンを投げ捨ててカウンターを飛び越えた。
「ちょっと様子を見てくる!止めてこなきゃならねぇ!」
彼はヴェルトールたちに振り返り、指を差して厳命する。
「いいか、お前ぇらはここでじっと待ってろ!絶対に外に出るんじゃねぇぞ!!」
そう言い捨てると、ダンゲルは男と共に外へと駆け出して行った。
チリン、チリン、チリン……!!
激しく揺れるドアベルの音だけが、嵐の到来を告げる警鐘のように店内に鳴り響いていた。
「俺も見てこよう。……君たちとは違って、俺はまだ顔が割れているわけじゃないからな」
レックスは音もなく立ち上がり、両手の革手袋をギュッと締め直した。
「いえ、俺も行きます!」
ヴェルトールが食い気味に叫ぶ。
その瞳には、ダンゲルの命令よりも強い、揺るぎない決意が宿っていた。
「俺たちを匿ってくれたせいで、街の人たちが危険な目に遭ってるかもしれないんだ。……じっとしてなんかいられません!」
「フッ……。君は、本当に真っ直ぐな奴だな」
レックスは呆れたように、しかし嬉しそうに口元を緩めた。
「わかった、止めても聞かないだろう。……だが、無理はするなよ?まずは物陰から様子を見る。いいな?」
「はい!」
ヴェルトールは力強く頷くと、振り返って二人の少女に早口で告げた。
「イヴリス、シエナ!二人はここで、すぐに逃げられるように荷物をまとめて待っててくれ!」
「なっ、お、おい!待たぬか!」
イヴリスが呼び止めようと手を伸ばすが、二人の男は風のように扉を蹴り開け、喧騒の渦巻く表通りへと飛び出していった。
バタンッ!!
「まったく!あやつは、何故人の言葉を聞かずにすぐ行動するのじゃ!学習能力がないのか!」
イヴリスは腕を組み、頬を膨らませてドカッと椅子に座り直した。
「お兄ちゃんたち……大丈夫かなぁ?」
シエナは、二人が駆け出していった扉を不安そうに見つめ、スカートの裾をギュッと握りしめて尋ねた。
その震える肩を見て、イヴリスはふっと表情を和らげる。
「なぁに、案ずるな。レックスもおるし、ただ様子を見てすぐに帰ってくるじゃろ」
彼女は努めて明るく、自信たっぷりに言ってみせた。
だが直後、スッと視線を泳がせ、誰にも聞こえないほどの小声で付け足す。
「……多分」
その自信のない呟きには、トラブルメーカーである契約者への、限りない懸念が込められていた。
一方、街の中央広場は、爆発寸前の火山のような熱気に包まれていた。
「ふざけんじゃねぇぞ!!漁にも出ちゃいけねぇってどういうこった!」
屈強な漁師が、日焼けした腕を振り上げて怒鳴り散らす。
「網も船も出しちゃいけねぇってなら、俺たちは何を食って生きりゃあいいんだ!」
「そうだ!俺だって仕入れに来ただけなのに、街の門が全部封鎖されて帰れやしねぇ!」
荷車を引いた行商人が、立ち往生したまま悲痛な声を上げる。
港も、陸路も、全ての出入り口が神殿騎士によって物理的に塞がれていたのだ。
「おい!このままじゃ物流が止まって、食べ物も手に入らなくなっちまうぞ!」
「神の名を借りて、俺たちに飢え死にしろって言うのか!?」
街の住人も、たまたま訪れていた旅人も、恐怖を超えた生活への危機感から口々に抗議の声を上げる。
彼らは拳を振り上げ、地面を踏み鳴らし、白い甲冑に向かって押し寄せようとしていた。
その怒号と悲鳴が入り混じった混沌は、平和な港町を瞬く間に修羅場へと変えていた。
「どけっ!通せッ!!」
沸騰する人々の怒号の海を、ダンゲルはその巨体で強引に押し分けて最前列へと躍り出た。
「おい!お前ぇら!やめるんだ!!」
彼は顔を真っ赤にし、額に青筋を浮かべて、喉が裂けんばかりに声を張り上げる。
「相手が誰だかわかってんのか!?こいつらに道理なんて通じねぇ!逆らっても無駄だ!後でひでぇ目に遭うのは、お前ぇらの方なんだぞ!!」
それは、彼らを愛するがゆえの、魂からの警告だった。
だが――。
「うるせぇ!引っ込んでろ!」
「俺たちの生活がかかってんだよ!!」
集団心理という熱病に侵された群衆には、もはや荒波の主の声さえ届かない。
ダンゲルの必死の叫びは、怒号と悲鳴の渦に瞬く間に呑み込まれ、荒れ狂う海に落ちた雨粒のように、虚しく掻き消されてしまった。
その時、怒号の渦から一人の男が歩み出た。
日焼けした肌に、潮の匂いを染み込ませた漁師の男だ。
彼は震える手を握りしめ、勇気を振り絞って目の前の神殿騎士に歩み寄る。
「なぁ、騎士さんよぉ……。俺たちゃ、なーんも悪いことはしてねぇ。ただ、家族を食わせたいだけなんだ」
男は縋るように、下から騎士の顔を覗き込む。
「せめて、漁の許可くらい出してくれたっていいんじゃねぇのか?このままじゃ、みんな干からびちまうよ」
その訴えは、この場にいる全員の総意だった。
すると神殿騎士は、冷酷な目で漁師の男を睨みつけた。
「……貴様」
感情の抜け落ちた、氷のような声が響いた。
「我々は神『ベガノス』の御名の下、貴様らの秩序と平和を守るために、この地へ降臨したのだ」
「だ、だから、俺たちは……」
「黙れ」
騎士は言葉を遮り、腰の剣に手を掛けた。
「我々の『正義』の行いに異を唱えるか?ならば、それは神を否定するのと同義……。即ち、貴様もまた『罪人』とみなすぞ」
その一言で、広場の熱気が凍りついた。
「罪人」。その単語の持つ意味を、誰もが理解してしまったからだ。
広場にいた人々は怯え、漁師の男もまたその威圧感に気圧され、震える声を出しながら後ずさりをする。
「な、なんだよ……。俺はただ、漁に出る許可が欲しいって言っただけじゃねぇか……」
男が震える声で抗議した、その刹那。
ジャキンッ!!
躊躇いなど微塵もない。
神殿騎士は無言で白銀の長剣を抜き放った。
硬質な金属音が広場の空気を切り裂き、群衆の喉元に氷の刃を突きつける。
ざわめきは一瞬で凍りつき、完全なる静寂が訪れた。
「ほぅ……」
騎士は仮面のような無表情で、男を見下ろす。
「まだ、その減らず口を開くか」
ドスッ!!
「ひっ!?」
振り下ろされた切っ先が、男の顔のすぐ横の地面に深々と突き立てられた。
飛び散る石礫が、男の頬を掠める。
「それ以上、神の御前で無駄口を叩くようなら……」
騎士は剣の柄に手をかけたまま、絶対零度の声で告げた。
「その喉を裂き、二度と口がきけなくなると思え」
「……ひっ、ぁ……」
男の目から理性の光が消える。
鼻先に迫った圧倒的な『死』の感触。
恐怖に腰が砕け、彼はその場にへたり込んだ。
「……諸君らも、よく聞くがいい!」
漁師の男が腰を抜かしたのを確認すると、神殿騎士は広場を埋め尽くす群衆へ向き直り、声を張り上げた。
「我々は今、秩序を乱す『大罪人』を追っている。それに異を唱える者、あるいは彼らを庇い立てする者は……」
騎士は冷ややかな視線で人々を見回し、宣告する。
「皆、等しく同罪とみなし……然るべき罰が下ると思え!」
その言葉は、村で神官が放った脅しと同じものだった。
ガチャンッ。
騎士は威圧的に剣を鞘に納める。
その乾いた金属音が、「対話の終了」を告げる合図となった。
「くっ……」
「畜生……」
人々は拳を握りしめ、悔しげに唇を噛む。
だが、見せしめのような暴力を目の当たりにしては、もう誰も声を上げることはできない。
彼らは恨めしそうな視線を騎士たちに残しつつも、渋々その場から立ち去っていくしかなかった。
その一連の光景を、路地の影に身を潜めて窺っていたヴェルトールとレックス。
「……ちっ」
レックスは忌々しげに舌打ちを一つ落とすと、険しい表情で言った。
「マズいな。港の出入り口を完全に抑えられては……すぐに船で対岸の『ザレン』へ向かうのは不可能に近い」
「なんとか連中が去るまで身を隠してやり過ごしたいところだが……あの様子では、いつになるかわからんぞ」
「そんな……。一体、どうすれば……」
ヴェルトールは不安に声を震わせ、途方に暮れたように呟くことしかできなかった。
八方塞がり。潮風に乗って漂うのは、自由な海の香りではなく、逃げ場のない閉塞感だけだった。
その時、静まり返った広場に、一人の女性が足音高く歩み出た。
殺気立つ神殿騎士の前に、毅然とした足取りで近づいていくその姿。
「あれは……!ダンゲルさんの……!?」
ヴェルトールは息を呑む。リエッタだ。
彼女は腰に手を当て、見上げるような巨躯の騎士に向かって、一歩も引かずに啖呵を切った。
「ちょっと、アンタたち!」
彼女の小さな体からは想像もつかないほど、凛とした強い声が響き渡る。
「そうやって偉そうに剣を振り回すのは勝手だけどね、このままじゃみんな困っちまうだろ?」
正論。だが、相手は理屈の通じない神殿騎士だ。
「おいリエッタ!!馬鹿やってんじゃねぇ!!やめろぉぉぉ!!!」
群衆の後方から、引き裂くような絶叫が轟いた。ダンゲルだ。
彼は血の気が引いた顔で、群衆を跳ね飛ばしながら、愛する妻のもとへ死に物狂いで駆け出した。
「女。……俺の話を聞いていなかったのか?」
神殿騎士は、感情の凍りついた瞳でリエッタを見下ろした。
まるで、言葉の通じない虫けらを見るような目だ。
だが、港町の女将は一歩も退かない。
「あぁ、聞いてたさ。でもね、逆らおうってんじゃない。あたしたちにも生活があるんだ。それを守ろうとして何が悪いんだい!」
彼女は毅然と言い返す。
しかし、その言葉は騎士の神経を逆撫でするだけだった。
「……神の行いを否定し、己が欲を優先するか」
騎士の手が、無造作に剣の柄にかかる。
「即ち『異端』。……よって、ここに"正義"を執行する!」
ジャッ!!
躊躇いも、慈悲もない。
騎士は抜刀と同時に、剛剣を横薙ぎに振り抜いた。
唸りを上げて迫る銀色の死神が、リエッタの細い首へと吸い込まれていく。
「リエッタあああああああッ!!!!」
ダンゲルが、心臓を握り潰されたような悲鳴を上げる。
届かない。間に合わない。最愛の妻が、目の前で肉塊に変えられようとしている――。
その時、一陣の突風が吹き抜けたかと思うと、信じられない光景が繰り広げられた。
ガギィィィンッ!!
飛び散る火花。
誰もが「斬られた」と思ったその刹那。
レックスが風のように現れ、その脚で神殿騎士の剣を受け止めていた。




