第十七話:神殿騎士 -The Holy Blade-
ダンゲルが厨房に消えてから、しばらく休憩していると、部屋には穏やかな寝息だけが響くようになった。
旅の疲れと緊張が解けたのか、シエナは隣に座るレックスの立派な尻尾に顔を埋め、幸せそうにぐっすりと眠っている。レックスは困ったように苦笑しつつも、彼女を起こさないよう、身じろぎ一つせず固まっていた。
そんな平和な光景を眺めていたバデロンだが、ふと表情を曇らせ、言い淀みながらも慎重に口を開いた。
「……ところで、ヴェルトールさん。立ち入ったことをお聞きしますが」
彼は声を潜め、真剣な眼差しを向ける。
「皆様は一体なぜ、あの『神殿騎士』に追われているのでしょうか?」
「確かに……」
レックスも、眠るシエナの頭を撫でながら静かに同意した。
「それは俺も気になっていた」
「それは……」
ヴェルトールは言葉に詰まる。
「封印されていた邪竜を解き放った」などと話せば、彼らはどう思うだろうか。 迷い、視線を落とす彼に、助け船を出したのはイヴリスだった。
「よい機会じゃ。話してやれ」
「イヴリス?」
「こやつらは信用できよう。……ここらで、事の経緯を話してみてはどうじゃ?」
彼女はバデロンとレックスを値踏みするように一瞥し、頷いてみせた。
彼女の瞳に背中を押され、ヴェルトールは一つ、深く息を吸い込んだ。
「実は……」
彼はポツリポツリと、言葉を選びながら語り始めた。
平和なグリモ村を襲った、原因不明のマナの暴走。
その原因を突き止めるために、教会の管理地である『黒の森』へ足を踏み入れたこと。
その行為が神官の逆鱗に触れ、異端者として『神殿騎士』を差し向けられる事態になったこと。
「……それで……村のみんなが協力してくれて、逃げるように村を出てきたんです」
彼は嘘は言っていない。 起きた出来事、村を出た経緯……その全てが真実だ。
ただし、たった一つ。
彼の隣で、我関せずとすましているこの銀髪の少女が、かつて世界を震わせた『邪竜』そのものであるということ。
そして自分がその封印を解き、契約したという事実を除いては。
それは、今の彼が口にすることのできない、この物語の最も深く、危険な「核心」だった。
「そんなことが……」
バデロンは言葉を失い、深く息をのんだ。
理不尽な権力の横暴と、それに巻き込まれた若者の運命に、言葉もないようだ。
「なるほどな……。合点がいった」
レックスは腕を組み、感心したように深く頷いた。
「だからこそ、君はあんなにも必死だったのか。まだこんなに幼い、二人の『妹』たちを連れて、無茶な旅をしていたというわけか……」
「っ……!?」
『幼い妹たち』という単語が出た瞬間、ヴェルトールの心臓が跳ね上がった。
彼は恐る恐る、隣に座る銀髪の少女を横目で窺う。
――……怒るか!?
見れば、イヴリスは膝の上で拳を固く握りしめ、顔を真っ赤にしてわなわなと震えている。
――ぬぐぐぐ……!また妹……また幼女扱いじゃと……!我は邪竜ぞ!?
心の声が聞こえてきそうだ。
だが、彼女はギリリと奥歯を噛み締め、明後日の方向を向くことで、どうにかその屈辱を飲み込んでいた。
――……耐えた!
ヴェルトールは胸を撫で下ろし、心の中で彼女の忍耐力に盛大な拍手を送った。
「このまま一緒にいたら、二人にも間違いなく迷惑がかかる……。いや、『共犯者』として追われることになるかもしれない!」
ヴェルトールは身を乗り出し、必死に訴えた。
「だから、俺たちのことは気にせず、ここを離れて下さい!今ならまだ、関わり合いにならなかったことにできます!」
彼の悲痛な叫びに、場が静まり返る。
「確かに……。教会を敵に回すとなると、商売あがったりどころか……非常に厄介なことになりますな……」
バデロンは眉間に深い皺を寄せ、腕を組んで重々しく唸った。
恩義はあれど、彼は守るべき店と看板を持つ商人だ。権力の象徴である神殿騎士を相手にする危険性は、痛いほど理解している。
一方、レックスは。
「…………」
彼は肯定も否定もせず、ただ腕を組み、翡翠色の瞳を閉じて静かに何かを考え込んでいた。
その沈黙は、恐怖によるものではなく、もっと別の――自身の進退を慎重に見極める戦士のそれだった。
「……少し、話は変わるが」
沈黙を破り、レックスが鋭い眼光をヴェルトールに向けた。
「君たちは、一体どこへ逃げるつもりなんだ?あてはあるのか?」
「え……あ、はい」
唐突な質問に戸惑いつつも、ヴェルトールは正直に答える。
「実は、村長の紹介で……西の海を渡った先にある獣人の国、『ガラルドルフ』を目指しているんです。そこの国境近くにある『エルシル』という街に、頼れる人がいるからって……」
「……なるほど。エルシル、か」
その地名を聞いた瞬間、レックスの表情が変わった。
彼は顎に手を当て、感心したように低く唸る。
――ガラルドルフ。……村長とやらは、随分と知恵が回るようだな。
レックスは脳内の地図を広げ、状況を冷静に分析する。
――あそこは、教会の威光が通じない、数少ない国の一つ。一度領内に入ってしまえば、教会側も迂闊に手出しはできなくなる……か。
それは、絶望的な逃避行における、唯一にして確実な「希望の光」だった。
「……分かった。ならば、俺がそこまで君たちを護衛しよう」
レックスは腕を組み、揺るぎない声で宣言した。
「えっ!?で、でも……!それだとレックスさんまで巻き込まれて、教会に追われる羽目になるんじゃ……!」
ヴェルトールは驚き、身を乗り出して止める。自分たちの事情で、恩人を犯罪者にするわけにはいかない。
だが、レックスは不敵に口角を上げ、言い放った。
「それは別に構わないさ」
「え?」
「……俺も教会とは少々『悪い縁』があってな。奴らに追われるどころか……寧ろ、俺の方が奴らを追っている」
彼の翡翠色の瞳が、一瞬だけギラリと冷たい光を帯びる。
そこには、単なる反感以上の、根深い因縁の闇が渦巻いていた。
「それに、これは偶然だが……俺の目的地も、その『エルシル』なんだ」
「えっ、そうなんですか!?」
「あぁ。だから、これは君たちのためだけじゃない。利害は一致しているんだ」
レックスは表情を和らげ、真剣な眼差しでヴェルトールの肩を叩いた。
「だから、遠慮はいらない。……喜んで協力させてもらう」
それは、ヴェルトールたちが拒否することのできない、そして何よりも求めていた、力強い申し出だった。
「レックスさん……ありがとうございます!」
ヴェルトールが安堵と感謝を込めて頭を下げる横で、ふいにイヴリスが口を開いた。
「逃げるのはよいが……」
彼女は水を差すように、しかし冷静な眼差しで問いかける。
「そもそも、その『神殿騎士』とやらは、そこまで厄介な相手なのか?」
「えぇ……。残念ながら」
バデロンは表情をこわばらせ、重々しく頷いた。
「厄介どころの話ではありません。彼らは教会が異端を排除するために選抜した、戦闘のエリート集団です」
彼は声を潜め、恐怖を噛み締めるように続ける。
「一人ひとりが卓越した剣術と強力な魔法を操る、いわば『生ける処刑台』……。一般の兵士など、何人束になっても敵わないでしょう」
彼の声はいつになく低く、その言葉には重みがあった。
「とは言え、彼奴らとて人の子。無敵という訳ではなかろう?」
イヴリスは退屈そうに頬杖をつき、冷徹な計算を口にする。
「いざとなれば、降りかかる火の粉を払う……つまり、皆殺しにするという手立てもあるのではないか?」
「……っ!め、滅相もない!」
バデロンは顔面を蒼白にして、ブンブンと首を横に振った。
「確かに……今の皆様のお力があれば、騎士の一隊を退けることは物理的には可能でしょう。……ですが、それが一番恐ろしいのです」
彼は額に滲んだ汗をハンカチで拭い、震える声で言葉を継いだ。
「彼らと下手に事を構え、教会の面子を潰してしまえば……最後には、教会の最高戦力『六華神剣』が出てくる恐れがあるのです」
その名は、口にするのも憚られる禁忌のように、重く、冷たく場を支配した。
「……りっか、しんけん?」
ヴェルトールが、その美しくも不吉な響きを問い返す。
田舎育ちの彼でさえ、その言葉に肌が粟立つのを感じていた。
バデロンは声を潜め、さらに表情を険しくした。
「いいですか?末端の神殿騎士ですら、先程ご説明した通り、常人離れした武力を誇ります。ですが……その組織の頂点に君臨する、選ばれし六人の指揮官」
「六人の、指揮官……」
想像すら及ばない強さの階層。ヴェルトールは圧倒され、乾いた喉をゴクリと鳴らす。
「それこそが『六華神剣』と呼ばれる者たちです。私も噂程度でしか耳にしたことがありませんが……並の神殿騎士が何十人束になっても敵わない、桁外れの『怪物』だと聞きます」
語るだけで恐ろしいのか、バデロンは震える手でコップを掴むと、水を一気に飲み干した。
「プハッ……。とにかく、彼らが出てくるような事態になれば、個人の武勇など何の意味も持ちません。それだけは覚えておいてください」
――ふん。我の力さえ完全に戻れば、その程度の羽虫、容易く葬れそうなものじゃが……。
イヴリスは心の中で毒づき、横目でヴェルトールを見る。
――……じゃが、こやつの甘さでは、また同じ人間相手に我の力を使うことを拒むじゃろうな。それに……。
彼女の視線が、幸せそうに寝息をたてるシエナへと移る。
彼女は小さく息を吐くと、努めて冷静な声を作った。
「……ふむ。聞いている限り、あまり関わらぬ方が良さそうな連中の様じゃな」
「あぁ、確かに。さっきダンゲルさんと話していた男でさえ、かなり強そうだった……」
ヴェルトールが慎重な面持ちで同意する。
「あぁ、『六華神剣』は俺も聞いたことがある。……悔しいが、今の我々でどうにかできる相手ではないだろう」
レックスも腕を組み、戦士としての冷静な判断を下す。
「さすがに、その『頂点』がこんな辺境に来ているということはないだろうが……。下手につついて出てこられてもかなわん。とにかく、どうにかこの街を脱出して、対岸のザレンに行く方法を考えよう」
一行は視線を交わして静かに頷いた。
深刻な会議が一段落し、一行の間にフッと肩の力が抜けた、まさにそのタイミングだった。
「……おう。話はまとまったか?」
厨房の暖簾をくぐり、ダンゲルが顔を出した。
彼は皆の表情を見て、迷いが消え、決意が固まったことを敏感に感じ取ったようだ。
「よし!なら、今日は腹いっぱい飯を食って、さっさと寝ちまえ!」
彼はニカッと快活に笑い、分厚い胸をドンと叩く。
「旅で疲れた体にゃあ、ウチの『特製料理』と『ふっかふかのベッド』が一番の薬だからよ!さぁ、こっちだ!」
豪快だが、どこか温かいその声に、ヴェルトールたちは顔を見合わせて苦笑する。
どんな悩みも、この男の前では些細なことに思えてくるから不思議だ。促されるまま、一行はテーブルへと案内された。
厨房の奥から、再びリエッタの元気な声が響いた。
「はい、お待たせっ!!ウチの看板メニュー、『荒波特製・海鮮ごった煮』だよッ!!」
―ドンッ!!
テーブルの中央に置かれたのは、湯気を上げる巨大な鉄鍋だった。
「な、なんじゃこれは……!?」
イヴリスが目を丸くして身を乗り出す。鍋の中は、まさに海の宝石箱だった。
真っ赤に茹であがった巨大なハサミを持つカニ、殻ごとローストされた大エビ、口を開けた肉厚の貝。
それらが、トマトと白ワイン、そしてたっぷりの魚介出汁で煮込まれ、黄金色のスープの中でグツグツと踊っている。
仕上げに散らされた香草と、溶かしバターの芳醇な香りが、暴力的なまでに鼻腔を刺激した。
「ほぅ……。見た目は悪くない。では、手始めにこの赤き甲殻類から――」
イヴリスは気取った手つきでフォークを突き刺し、殻を剥いた大エビを口へと運んだ。
―ハフッ、プリッ!
「…………ッ!!!」
咀嚼した瞬間、彼女の動きが停止する。
――な、なんという弾力……!歯を押し返してくるような、このプリプリとした身の食感はなんじゃ!?
噛み締めるたびに、繊維の奥から凝縮されたエビの甘みと、香ばしいバターの塩気がジュワリと溢れ出し、舌の上で濃厚なワルツを踊り出す。
「こ、これは……けしからん……!」
彼女は震える声で呟くと、次はスプーンでスープを掬った。
―ズズッ……
――……ふおぉぉぉぉ……!!
脳天を突き抜ける旨味の奔流。
――魚、貝、甲殻類。あらゆる命のエキスが溶け込んだこのスープは、まるで海そのものを飲み干しているかのような深みとコクを持っておる……!!
「なんという……なんという暴力的な旨味じゃ……!」
イヴリスの瞳が潤み、頬がとろけるように緩む。
「ぐぬぬ……こんな美味いものを……人間どもは毎日食らっておるのか!?許せぬ、実に許せぬぞ!」
彼女は謎の理屈で怒りを露わにしながらも、フォークとスプーンを高速で動かし始めた。
もはや気品などかなぐり捨て、リスのように頬をパンパンに膨らませて、目の前の御馳走との「戦い」に没頭していく。
「ふふっ、イヴちゃん、お口にソースついてるよ」
「んぐっ、んむーッ!(うるさい、今はそれどころではない!)」
その幸せそうな食べっぷりに、ヴェルトールたちも顔を見合わせ、今日一番の笑顔でフォークを手に取った。
嵐のような饗宴が終わり、テーブルには綺麗に空になった皿の山だけが残された。
胃袋も心も満たされた一行は、心地よい倦怠感に包まれながら、それぞれの部屋へと引き上げていく。
「……極楽だ」
ヴェルトールは、ダンゲルの言葉通り「ふっかふか」のベッドに倒れ込んだ。
清潔なシーツの感触と、満腹の幸福感。泥のような睡魔が、瞬く間に彼の意識を攫っていく。
一方、隣室では。 レックスが窓枠に肘をつき、静かに夜空を見上げていた。
港町特有の湿った夜風が、彼の暗赤色の毛並みを優しく撫でる。その翡翠の瞳は、月明かりを映して静かに輝き、仲間の安息を見守る番人のようだった。
そして――。
「すー……すー……」
シエナは既に夢の中だ。
幸せそうに布団を抱きしめる彼女の寝顔を、窓辺に座ったイヴリスが愛おしげに見つめている。
彼女はガラス越しの遠い星空に視線を移すと、誰に聞かせるでもなく、小さく唇を動かした。
「♪Eryvel'thar maluna...」
潮騒に混じって、微かな旋律が夜に溶けていく。それは、かつての記憶と、今の穏やかな時間を繋ぐ、優しく切ない子守唄だった。




