第十二話:静寂 -Omen-
堅い握手が解かれた、その時だった。
「……いつまで見つめ合うておる」
呆れと不機嫌をない交ぜにした声が割り込む。
振り返ると、イヴリスが腕を組み、つま先でコツコツと地面を叩きながら近づいてくるところだった。
全身から「待ちくたびれた」というオーラが漂っている。
「あぁ、心配かけて悪かったな。ところでシエナはどうしたんだ?」
辺りを見渡しながら、ヴェルトールが尋ねると、
「そ、それはもうよい!……シエナならあそこの岩陰に隠れておる。呼んでやるがよい」
イヴリスは顎で少し離れた大きな岩を差しながら言った。
「おーい!シエナー!もう大丈夫だから出てこーい!」
ヴェルトールが両手を口に当て、大きく呼びかける。
すると、少し離れた岩陰から、小さな頭がひょこっと飛び出した。
そして彼の姿が見えると、シエナの顔にパァッと花が咲いたような安堵と喜びが広がる。
彼女は岩陰から飛び出すと、つむじ風のように草原を蹴り、一目散にヴェルトールの元へと駆け出した。
駆け寄ってきたシエナは、勢いよく抱きつこうとして――直前で急停止した。
ヴェルトールの肩と太腿から滲む、生々しい赤色が目に入ったからだ。
「っ……!」
「お、お兄ちゃんっ!血……血がいっぱい出てるよ!」
彼女は顔を蒼白にし、わなわなと震える指先で傷口を指差す。
今にも泣き出しそうなその瞳には、恐怖と心配が渦巻いていた。
「大変……!早く、早く手当しないと……!」
「あぁ、そうだな。……でも、大丈夫。見た目ほど深くはないさ」
ヴェルトールは慌てる妹の頭にポンと手を置き、優しく諭すように微笑んだ。
そして、自身の隣に立つ赤毛の獣人へと視線を誘導する。
「……それよりシエナ、先に紹介させてくれ」
「え……?」
「この人は、レックスさん。……盗賊に囲まれて危なかった兄ちゃんを助けてくれた、命の恩人なんだ」
紹介を受け、レックスは威圧感を与えないよう、スッと片膝をついてシエナに視線の高さを合わせた。
「初めまして、お嬢さん。驚かせてすまないね」
その顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
彼は胸に手を当て、騎士のように礼儀正しく一礼する。
「…………」
シエナは、レックスの吸い込まれるような翡翠色の瞳と、背後でゆらゆらと優雅に揺れる、立派なふさふさの尻尾を、じっと見つめたまま固まってしまった。
「……シエナ?どうしたんだ?」
ヴェルトールが心配になって顔を覗き込んだ、その瞬間。
「すごーいっ!!おっきなキツネさんだー!!」
彼女は弾かれたように顔を上げ、目をキラキラと輝かせながら歓声を上げた。
「わぁぁ……!しっぽ、ふわふわ……!」
恐怖など微塵もない。
そこにあるのは、おとぎ話の住人に出会ったような純粋な感動と、目の前の「もふもふ」への抗いがたい好奇心だけだった。
シエナは興味津々といった様子で、レックスの周りをくるくると回り始めた。
「た、確かに……。そう言われると、俺も本物の獣人を見たのは初めてだ……」
ヴェルトールもつられてまじまじと観察してしまい、ハッと我に返る。
「あ、すみません!珍しいものを見るみたいに!」
彼は慌てて頭を下げる。
しかし、レックスは怒るどころか、シエナを目で追いながら優しく目を細めた。
「いや、構わないさ」
「この辺りで獣人は確かに珍しいからな。生まれて初めて見るのなら、尚更だろう」
彼はそう言うと、少し照れくさそうに鼻の頭をポリポリと人差し指で掻いた。
その時、ひっくり返された馬車の陰から、おっかなびっくり様子を窺っていた影が動いた。
「おぉ……!皆さん!ご無事でしたか!!」
ヴェルトールたちの姿を確認するやいなや、バデロンは転がるように駆け寄ってきた。
立派な服は泥だらけで、髪も乱れているが、今の彼はそんなことなど気にしていない。
「あぁ、なんとお礼を言えばよいか……!この度は本当に、本当に助かりました!感謝の言葉もございません!」
彼は涙ぐみながら、地面に額がつくほどの勢いで深々と頭を下げた。
その震える声には、命拾いした安堵と、若者たちへの感謝が詰まっていた。
「あぁいえ、頭を上げてください」
ヴェルトールは、痛む脚を庇いながらも、安心させるように柔らかく微笑んだ。
「バデロンさんも、無事で何よりです」
すると、興奮が冷めて冷静になったバデロンの目に、ヴェルトールの肩から滲む赤色が飛び込んだ。
「ややっ!お怪我をされているではないですか!!」
バデロンは顔を真っ青にして悲鳴を上げた。
その声に、はしゃいでいたシエナもハッとする。
「あ……お兄ちゃん、血……っ」
兄の痛々しい姿を再認識し、彼女の瞳に再び涙が浮かぶ。
「はぁ……。大きな声で余計な事を……」
イヴリスは額に手を当て、やれやれと呆れたように小声で呟いた。
「このままではいけません!傷が化膿でもしたら大変です!あそこに川があります、まずはその近くへ移動して手当てをしましょう!」
バデロンが街道脇の茂みの奥、水音がする方角を指差して提案する。
「あぁ、そうですね。じゃあ馬車を……って、うわぁ!」
ヴェルトールが言いかけた時、驚きの光景が目に飛び込んできた。
ズドンッ!!
レックスが横倒しになった巨大な荷台に手を掛けると、軽々と持ち上げ、一瞬で元通りに起こしてしまったのだ。
「す、すごい……」
唖然とするヴェルトールに、レックスは涼しい顔で「行こうか」と促す。
一行は川の近くの開けた木陰へと移動し、荷を下ろした。
空は既に茜色から群青色へと変わり始め、静かな夜の帳が、傷ついた一行を包み込もうとしていた。
「……まずは綺麗な水で傷を洗い流した方がいいな」
ヴェルトールの傷口を確認し、レックスが立ち上がる。
「俺が汲んでこよう」
「私が!私が汲んでくるっ!」
彼が動くより早く、シエナが声を上げた。
彼女はバデロンが持っていた手桶をひったくるように受け取ると、タタタッと小走りで川の方へ向かっていく。
「お兄ちゃん、待っててね!すぐに戻るから!」
その背中は、「私が役に立たなきゃ!」という使命感に燃えているようだった。
「ははっ、頼もしい妹さんだ」
バデロンは目を細めると、自身も袖をまくり上げた。
「では、私はその間に夜営の準備をいたしますね!怪我人がいるとあっては、寝床の確保が最優先です!」
商人として旅慣れているのだろう。
彼はテキパキと道具を取り出し、焚き火やテントの設営を始めた。
一方、イヴリスは、忙しなく動く皆の輪から少し離れた場所で、ちょこんと膝を抱えて座っていた。
レックスは、泥と血にまみれたヴェルトールの傷を、触れずに慎重に覗き込んだ。
「……ふむ。見たところ、肩の傷は浅い。これなら清潔な水で洗って布を巻けば、すぐに塞がるだろう」
だが、太腿の傷口に視線を移すと、その表情が険しく曇った。
「少し、深いな……」
レックスは沈痛な面持ちで呟く。
「傷口が開きすぎている。急いで街へ行き、医者に見せた方がいいだろう」
ズキズキと脈打つ熱い激痛。
だが、ヴェルトールは奥歯を噛み締めて無理やり口角を上げた。
「だいじょうぶ、ですよ……!あと一日でポルナに着くんですから。……これくらい、なんとかなります!」
彼は痛む足に力を込め、自分自身に言い聞かせるように力強く答える。
すると、かまどの準備をしていたバデロンが、薪を握りしめたまま動きを止めた。
「……申し訳ありません」
彼は搾り出すような声で呻く。
「私が『ポーション』の在庫さえ持っていればよかったのですが……。あいにく、街ですべて売り払ってしまったばかりでして……」
彼は心底すまなそうに深々と頭を下げた。
「――ですが!」
バデロンは勢いよく顔を上げ、強い決意を込めてヴェルトールに詰め寄った。
「せめて、街までは私の馬車でお送りします!それに、治療代はすべて私にお支払いさせて下さい!」
彼は胸を叩き、懇願するように続ける。
「命を救っていただいたのです。これくらいさせていただかないと、私の気が済みません!」
「いえ、そんな!怪我をしたのは、あくまで俺の力不足で……」
ヴェルトールが恐縮して辞退しようとすると、バデロンは被せるように声を張り上げた。
「いいえ、そうは参りません!命の恩人になんのお礼もしないなど、我がロスタルト家、末代までの恥!」
彼は大げさに胸を叩くと、ヴェルトールの顔を覗き込むようにグイッと顔を近づけた。
「……もし断るというなら、身体の自由が利かないのをいいことに、ぐるぐる巻きに縛ってでも連れて行きますよぉ?」
彼は目を細め、悪戯っ子のようなおどけた表情で脅して見せる。
その不器用な優しさに、ヴェルトールはふっと肩の力を抜いた。
「……ははっ。参ったな」
彼は観念したように苦笑し、深く頭を下げた。
「わかりました。バデロンさん……ありがとうございます!」
パチパチ……。
揺れる焚き火が、薪を爆ぜさせる音を立てる。
踊る橙色の灯火が、バデロンの優しい笑顔と、ヴェルトールの安堵した顔を温かく照らし出していた。
――その時だった。
それまで焚き火のそばで膝を抱え、退屈そうに炎を眺めていたイヴリスが、何かに気づいたように耳をピクリと動かした。
「……おい」
次の瞬間、彼女は弾かれたように立ち上がり、鋭い声で叫んだ。
「シエナが戻らぬ!……あまりに遅い。何かあったのではないか!?」
「え……?」
その言葉に、ヴェルトールの動きが止まる。バデロンの笑顔が固まる。
パチパチと爆ぜる焚き火の音だけが響く中、それまで温かかった場の空気は、一瞬にして凍りついた。
少し、時は遡る……。
(お兄ちゃん、すごく痛そうだった……!早く、早くお水を持って行ってあげなきゃ!)
シエナは兄の苦痛に歪んだ顔を思い出し、胸を締め付けられながら走っていた。
桶を大事そうに抱え、もつれそうになる足を必死に動かして川へと急ぐ。
タッタッタッ……。
夜闇が迫る草原に、彼女の小さな足音が心細く響く。
川が見えてきた。あと少し。
そう思った、その時だった。
ガサッ。
「……っ!?」
行く手を遮るように、草むらからヌラリと一人の男が姿を現した。
「おっとぉ……。待ちなよ、お嬢ちゃ~ん」
男はシエナの愛らしい姿を舐めるように見回すと、ねっとりとした下品な笑みを浮かべた。
「そんなに慌てて、どこへ行くんだい?」
「……おじさん、誰?私、お水を汲まなきゃいけなくて急いでるの。……だから、行くね!」
彼女は震える足を抑え、勇気を出して横を通り抜けようとする。
「おっとぉ~。そんなつれないことを言われたら、おじさん悲しいなぁ~」
だが、男はニヤニヤと笑いながら横へ動き、彼女の行く手を完全に遮った。
「……どいて!お兄ちゃんが大――」
男はシエナの言葉を遮るように、怒鳴り声を上げた。
「うるせぇ!!!」
バシィッ!
抵抗などできるはずもない。
彼女の体は宙を舞い、抱えていた桶がカラカラと虚しく音を立てて転がっていく。
地面に叩きつけられた衝撃と、頬の激痛で視界が大きく歪んだ。
「おにい……ちゃ……」
助けを求める声は闇に溶け、シエナの意識はそこでプツリと途絶えた。
「……おい、テメェら」
男は、地面に倒れピクリとも動かないシエナを、冷たい眼で見ながら言った。
すると、草むらの影から先程の盗賊たちがぞろぞろと姿を現す。
「頭ぁ、そんなガキどうするんで?」
手下が媚びるように問いかけると、男は足元に唾を吐き捨てて答えた。
「縛って連れてこい。盗賊が手ぶらで帰っちゃあ、笑い話にもならねぇだろうが」
彼らは、抵抗する力もなく気を失ったシエナを担ぎ、そのまま夜の暗闇へと消えて行った。




